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なぜ私は万年筆で原稿を書くのか|役には立たない私の執筆方法

  
 はじめに

 こんにちは、吉村うにうにです。カルチャーセンターの小説講座に通いながら(今は休止中)短編や猫長編を書いております。今日は日課である原稿執筆(noteでは「水深800メートルのシューベルト」、ノベリズムでは「天国へ行く前に、猫になった」無料です。よかったらこちらも読んで下さい)を終えてまだ時間がございますので(実は仕事中で執筆は自由ですが外出は禁止なのです)数日前から書きたくなっていたエッセイをお届けします。

 今回も前回の「この歳になって――なぜ小説を書いている?」と同様、自分語り記事です。多くの方が読んで下さればもちろん嬉しいですが、一般受けは狙っておりません。自分の考えの整理と共に、何人かの方にお読みいただければ幸せです。

 上記のタイトルで執筆しようと考えたきっかけは、いまえだななこさんにコメントで
「万年筆で書くなんて素敵ですね」と頂いて調子に乗ったのがきっかけです。
 この際、私の執筆の仕方を誰かに伝えておきたいなという思いが強くなりました。ただ、この記事自体は万年筆による下書きをしていないので思いつくままに、思考を整理しないで書いております。また、今から紹介する私のスタイルは、講座で習ったものではなく、私が自分の考えで作ったものなので、参考にはなりません。
「へえ、うにうにってこんな書き方しているんだ」
 ぐらいに受けとめて下さい。ハウツー記事ではありません。
 

  ①私の小説の書き方

A プロット(あらすじ)を作る
B 箱書き(あらすじにそって各シーンの概要、風景、登場人物の台詞を雑に書いたもの。広義ではこれもプロット、人によって呼び方が違う)を作る。
C 原稿用紙に万年筆で下書き
D 下書きを基に、Wordへと打ち込む。この時誤字脱字修正、文体も直す。
E Wordからnoteへとコピペ

 以上です。AとBは小説講座で教わった手法を、私なりにアレンジしております。Cが完全オリジナルです。今回はCに焦点を当ててお話しします。

  ②なぜ万年筆で手書き?

 理由は三つあります。一つ目と二つ目は読み飛ばして頂いて構いません。

㊀万年筆でサラサラ書くとカッコ良く見える(と、本人が思っている)
おしゃれな、いやおしゃれでなくても構いませんが、カフェで執筆していると、プロっぽく見えます。実際、毎日同じカフェで執筆していた頃、一度店員さんに、
「もしかして、作家さんですか?」
 と、訊かれました。気の弱い私は即座に否定しましたが。他人の目だけを気にして生きていくのは馬鹿らしいと思うのですが、たまになら見知らぬ人から観察されている事を意識して執筆するのも悪くありません。特に調子の悪い時には、背筋が伸びる思いで、緊張感を持って書けます。

㊁万年筆を見つめると気分が落ち着く
 今使っているのはパーカーの細身の万年筆なのですが、友人からのプレゼントでした。前の記事で、小説を全く書けなかった時期に、友人達に「いつか小説を書きたい、書けるはずだ」などと、夢?を語っていて、誰にも相手にされなかった時期があると書きました。ただ、一人だけ、私の話を真に受けた奴がいて、なんと私に万年筆をプレゼントしてくれたのです。訳あって、二十年くらいその万年筆は使われることなく箱に入ったままでしたが、小説講座に通い出してしばらくして使ってみると、手にしっくりと馴染みました。それ以来、私の相棒となっております。執筆中に手が動かなくなった時、万年筆を見つめると、自分以外の人間の想いがそこにこもっている事を思い出し、焦りも落ち着き、前向きになれます。

㊂パソコンだけで原稿作るより、思考が深まる(様な気がする)
 影響を受けたのはニコラス・G・カーの「ネット・バカ」という著作です。これはインターネットが人の思考に影響を与えるという内容なのですが、私には膝を打つことが多かったです。その序盤で、ニーチェの話がありました。かいつまんで説明すると、

 体調が悪くなってペンを持てなくなったニーチェは最新型のタイプライターを購入して使用したところ、スラスラと打てるようになった。ところが、原稿を読んだ知り合いは、文体が大きく変わったことに気づいた。

 らしいです。
 つまり、同じ文章を頭の中で描いていても、使う道具によって、思考が影響を受けて文体も変化するという事らしいです。執筆のスタイルが文章に影響を与える、おそらく書いているうちに脳も影響を受けるのでしょう。

 この本を読んでいて、自分の脳がインターネットの出現で変化したのではないかと思い当たることがありました。インターネット上の文章を「リーディング(精密に読む)」ではなく、「ブラウジング」する癖がついてしまっているのです。定義が正しくなかったらごめんなさい。私はいつの間にか、ネット上での記事を、細かい文字を読まず、斜め読みより速く、ページを次々と捲ってキーワードを拾いながら跳び跳びに情報を集めるのが当たり前になっていました。

 勿論、それがすべて悪いとは思いません。私も、仕事で急に論文を読まないといけない時には、先頭のアブストラクトやサマリー(要約した所)とグラフしか見ません。それが最善かを吟味しないで早く次善でもいいから情報を集めたいときはそんなもんです。


 ですが、私の人生の目的の一つは「頭の良い人になること」なのです。それは、情報処理が速い人ではなく(それも頭の良さの一つとは思いますが)、一つの事を多面的に熟考し、考え抜いて、隙のない思考のピースを積み重ねて、自分が作った結論を、他の人の思考やあらたなエビデンスを基に再形成できるような知識人を目指しています。じっくりと考える事を目指している私が、ネットを広げると、雑な読み方、雑な情報処理しかしていない、これは恐ろしい事だと思いました。

 あくまで、ネットをパソコンやスマホだけで執筆している方を非難する内容ではありません。人の執筆スタイルは自由ですし、現代の社会においては、きっと私のやり方は非効率的で古臭いのでしょう。

 万年筆を使うことは、おそらく、私の思考力の「弱さ」が電子メディアや電子機器に流されないためのせめてもの抵抗なのでしょう。強い人間であれば、インターネットであろうと、別のメディアが登場しようと、思考方法に揺ぎなく対処できるのだと思います。私の場合は、ネットやWordといった電子メディアを利用するだけでは、浅い思考になってしまい、浅い文章で終わってしまいそうで不安になります。

 紙に書くのは鉛筆でもボールペンでもいいとは思います。私の場合、万年筆を紙の上で滑らせるように書くと(はじめはボールペンのような書き方をして、ペン先を潰してしまいました。万年筆をこれから使おうとする方は注意してください)、情報を紙に表現するタイムラグがあるせいか、インクの染みが広がるのを見つめていると、ペン先から頭に逆流してきた思考が浮かぶような感覚に陥ることがあります。私自身の意識はぼんやりと空中に浮き、ペンが勝手に書いているように思えるのです。時々、集中しているとそんな錯覚に襲われます。この感覚を味わい、自分で思いもよらぬ文章が出来上がると、万年筆で書くのも悪くないと思えてきます。

 ただ、紙に書いた文章は、酔っているかのように回りくどい表現に流されがちです。私自身は素面なのに、文体が酔っています。これをWordに打ち込みながら、冷静に文体を整えて、あまり恥ずかしくない文に仕上げます。校正も兼ねています。

   さいごに

 結局、私は、紙に直接書くことで思わぬ文と邂逅かいこうすることと、Wordでその思わぬ文が読むに値するかという監視するという、紙と電子メディア両方のいいとこ取りをしようとしているのだと思います。今では、ただの習慣として、先ほどのスタイルを使用して小説を書いていますが。
 これからも小説を続けてまいります。いつも読んで下さる方々には本当に感謝しております。時々文中に現れるまどろっこしい表現を目にしたときは、
「うにうに、万年筆で酔って書いているな」
 と、笑ってくだされば幸いです。これが楽しいのです。

 ここまで読んで下さり、ありがとうございました。


  

  

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