主体性がストップ安
なんか気が付いたら、なんかもう2月なんですけれど。
noteに記事を書いてみるかぁ、漫画描いてみるかぁ…と頭では思いつつ過ごしていたら
スカイリムとかにハマって
あ、気づいたら一日終わっちゃったね、明日にしようねという具合であっという間に数か月経ってました
精神と時の部屋か並みに、時間の経過が早いと思います。
十分にブランクと呼べるくらい、noteをさぼってしまい、いざ書こうと思って近況をまとめようとすると、なんかうまくまとまらない
いろいろ、自分のこととか書くと、かかわった人とか関係者に配慮する部分が出てきてハードルが高くなってしまっているというか
こういうところにも主体性の低下を感じる
なんとなくサクッと書けそうなネタで記事を書いていくという方針に切り替えた
主体性ということで、
今日、私たちの白饅頭師匠がツイッターでこのような投稿をしていた
質問者同様、能力も主体性も全然なかったりして、現状実家暮らしニートに甘んじている僕にとっては
この内容に関してまさにぶっ刺さる内容であった
履歴書とかなにか一つの仕事っぽいタスクを完了する、と今日も一日やったぜ!という気持ちになってしまうことについては本当に同意する
2つくらいタスクをこなすともう自分は偉いという境地に至る
しまいには一日一回、コンビニまで散歩に行くという主体性を発揮するだで、今日は完全にひきこもりじゃなかったからヨシ!
という、謎のやり切った気持ちになっていたが
それは、主体性がかなりのレベルで低くなってしまっているんだろうという
さすがにそれではいけないと思い、数日に一度は母親に代わって晩御飯の支度をしたり、車に乗って買い出しに行くとかもしている
どちらかといえば、主体性を発揮するような用事がないという表現の方がいいんだろうか
ほんと今の環境、その気にならないと自動でご飯は出てくるし必要な生活資源は確保してもらえるという
そもそも主体性を出す必要がない、最高の環境である
その気楽さに甘んじていると主体性の最大値はみるみる下がっていくというジレンマ
外出するとお金がかかるし、そもそも主体性発揮を目的にして外出したり、何かするのもなんか手段と目的が逆転しているような気がして
なんか違うような気がする
そう考えると、主体性を発揮とはその人の個や能力以前に、環境に依存で結果なのだろう
一人暮らしの時は、それなりにではあるけど、自分でご飯の支度をしたり、洗濯をしたりといった一連の仕事は、主体性を発揮するまでもなく実行できていたことを考えると、間違いではないだろうと思う
家事という生活の仕事も、低い次元で言えば能力なのですよ皆さん
師匠の回答にある
主体性を発揮するとあとから能力ついてくる
質問者の方と同じく、自分は無能と思っている人に対しての回答なんじゃないかなと
確かにネットで「無能」と検索すると
無能は働かない方がいい
無能が無理して働くとむしろ社会悪
といったようなはなしがでてくる
そういうのを見ていると
どんどん働くことに後ろ向きになってしまうというか、働くことが恐怖くなるし
むしろ、自分みたいな者が働かない方が社会にとっていいんだという考えにすら至ってしまう
無能の自覚がある者は、働いている人に対して何か自分にはない能力がるからそういう仕事についているんだ…という思い込みを持っていってしまうんじゃないかなと
師匠はそんなそんな、私たちの心の底にあるナイーブな気持ちを拾い上げ
実はそんなに能力があるわけじゃないけど、うまい塩梅で世の中回っていると言ってくれている
だから
まず形から入る、まず格好から入る、まずやってみる
処方箋のように、師匠がそう何度も言うのも頷ける
とりあえず働けということなのだ
バッターボックスに立ったら、後はバットを振るしかないと言うように
成果が出る出ないの能力以前に、どの次元でもいいからどこかポジションを持っていないと、主体性を発揮することすらできないという
ただ、実家暮らしでストレスフリーな暮らしをしているとふとこう思う
今がずっと続けばいいのに…と
この黄金時代とも呼べる生活はいつまでもできないと自分でもわかってはいる
現実って残酷だなと思う
この主体性の質問に関して、白饅頭師匠が来月のマガジンにまとめてくれるそうだ
僕も一時期、師匠のマガジンを購読はしていたが、毎日記事を読むという時間を捻出できず、無駄遣いだなと思い購読を辞めた過去がある
なので記事を購読して、読むという主体性を発揮できるかわからない
noteの有料記事の感想をnote書くのは、流石にやばいような気がする