東大立看と抗議文について思った事
Twitterのトレンドに弱者男性とあったので調べてみる。
こちらのツイートがどうやら、事の発端だそうだ。
その、チー牛立て看板を立てたのは、東大立て看同好会というグループだ。
東大生による、かつての学生運動をベースに、立て看板を制作するという、表現者という立ち位置で見てもいいのだろうか。
で、抗議文にあるチー牛看板というのは、なんなのだろうか、東大立看板同好会のTwitterを見てみると、上の写真を見れる。
しかし、写真の投稿日を見ると、2020年11月ごろのもので、約1年半前のものだ。
抗議文の元となった看板というのは、どうやらアップしていないようだ。
チー牛というのは、チーズ牛丼を注文している男性のイラストが、ネタとして使われるようになって、弱者男性のアイコンとして使われている。
まぁ、チー牛についての事は置いといて、東大立て看同好会の制作している看板をみていると、ネット上で話題になった政治的な話題に反応し、それにちなんだ立て看板を日本最高の大学として有名な東大という場所で展示する。
ベニヤ板に何とも言えないナンセンスな看板ではあるが、東大という日本最高の大学に設置される。
東大生が東大内部にゲリラ的に展示する行為自体は、サイトスペシフィックな表現だと思う。
立て看板同好会の活動自体はかなり長期的なもので、謎の表現活動をする同好会というか。
政治的な文脈で看板を制作しているが、同好会が看板を制作する意図としてはそこは重要ではなく、このような形式でゲリラ的に看板を制作するだけで、どういう予測不可能な出来事が起こるのか?
彼らがこのような活動をしている理由を推測すると、学生運動という文脈に則りながら、くだらない政治ネタで仲間と何か看板を作るという行為を楽しんでいるだけという。
ゲリラ的に展示する行為も、またなんかくだらない看板作っているよというそんなささやかなものだったのだろうと思う。
話は変わるが、社会風刺的なアート作品の評価というのは、その作品の完成度云々だけではなく、その活動や作品が、どのような検閲にあったとか、事件になったとかそういう副次的に起こった出来事を含めて評価する文脈になりえる。
そういう例としては、赤瀬川源平の1000円札事件が有名だろう。
赤瀬川源平が1000円札を模写した作品が、偽札製造の容疑にかけられ、裁判に発展した事件だ。
これも、製作者が制御不能な出来事だったが、後世の私たちはそれをふまえて作家の評価をしている。
今回の一連の騒動は、そんな感じで、どこかよその意識高い団体がネタにマジレスという形で火をつけてしまったが故のモノだったというふうに見ている。
抗議文については、声明を出したのは「多様性を目指す東大有志のネットワーク」というアカウントだ。
アカウント制作日は2022年7月とつい最近である。
この抗議文をネットに挙げるために作られたアカウントのようだ。
抗議文を上げるだけで、今後活動をしないかもしれない。
謎である。
Twitterに挙げられている抗議文には、この看板に対して何が問題であるのかという、講義の理由がある。
問題点の指摘の理由が、飛躍した解釈で語られていたりと、読んでいてなんだかなぁという。
すこし、しっかりと読んでみよう。
「弱者男性」というワードに対してはこう書かれている。
まず、弱者男性がフェミニズムに対するバックラッシュの文脈で誕生したという、フェミニズムに反発して出てきた言葉という説明をしている。
女性権利向上を否定するという敵対的な言葉であるという、声明がされているが、批評の文脈ではないんだなぁというのが印象的だ。
”可能性が高いというと思われます”という一文も、私たちはそのように捉えましたでもいいのになぜこのような言い回しなのか。
問題点の指摘では、看板で主張されていた、『「結婚の自由」と「生殖の権利」を奪うな』という一文に対して、長々と文章が綴られている。
なんというか、事実にから飛躍した言説にも思えてしまうが、そういう捉え方をしたので、問題であるという主張である。
権利というのは、努力義務である、行使しなければ効力は発揮されない。
参政権というのも、投票に行かなければ行使されない、逆を言えば投票に行かないという事で権利の放棄もできる。
ここでは、婚姻も生殖も双方の「同意」形成が行われることで、初めて行使される権利であるという説明がなされている。
要は、「同意」を無視して、結婚生殖をさせろと言う主張がいけないという事である。
強制的にそれらを行う事を認めろと言っているに他ならないと、看板では主張している。
それらに関しては、すでに法律で犯罪になっているような気もするのだが。
問題点2では、社会的弱者を消し去る主張という題が設けられている。
これらの主張をすることが、いかに差別的な言説であるかと論じられている。
「結婚の自由」「生殖の権利」という言葉についてこのように解説されている。
本来、これらの言葉は、国家権力により、婚姻や生殖に加入されてきたマイノリティたの人たちが受けた人権侵害を表すための言葉である。
弱者男性の権利という形でこれらの言葉を主張することは、マイノリティーの人たちからの略奪であり、すなわち差別であると。
そういうマイノリティーが受けた人権侵害の文脈を、マジョリティーである男性が奪うことが差別的な表現であると。
そして、マジョリティーの特性とは、このような文脈を理解しないで看板を立てる事へ何の問題を感じないという事が問題であると。
まるで、私たちと同じように教化されていないことが問題であるという風に捉えかねない文章であるが。
最後の章は、「看板の設置者、そして立て看板の賛同者へ」という題名が付けられている。
同じ大学なんだから、知らないのかよ。
そういう、表現が出てきてしまったことに対する関心というか、対話した形跡もなくいきなり、抗議文という圧力という手段に打って出ていること。
それが、立て看板を立てる表現の自由を抑圧したり、多様性に圧力をかけていることに無頓着である。
ということを思う。
表現の文脈を知らないので、このような無頓着な事を言ってしまえるだな。
マイノリティな人に対して不当な扱いをする社会、趣味や見た目や性格で優劣をつける社会は不寛容であると一見、正しいことを言いながらも、ことに自分のやっていることが、立て看板をゲリラ的に立てるという表現に対して抑圧であったり圧力であるという不寛容な措置を取っているということには無自覚である。
最後に、不用意に分断を招き、また差別を助長する言説を、私たちは断固糾弾します。でこの抗議文は閉められている。
僕は、もやもやする。
まとめ
ということで、Twitterで話題のネタにいろいろ勝手な感想を書いてみました。
今回抗議文を上げた、東大有志の多様性のネットワークというアカウントが作られたばかりのアカウントであることを考えると。
これは、一種のフェイクなのかパフォーマンスなんじゃないかという思えてしまう。
抗議文もところどころ話が飛躍していたり、まず、同じ大学で看板製作者がわからない時点で、抜けがひどかったりと。
もしかしたらこれは、フェイクだろうと気付かせる仕掛けに見えたり。
そもそも、ネタ乙で済むナンセンスな立て看板にこれほど、強い文体の抗議文がいきなり出てくること自体がそうだあるように思わせる材料になっている。
個人的にはソーカル事件を思い出した。
ドッキリの可能性があるという視点で見ると。
東大という箔が付くと、内容を精査しないで抗議文の主張に賛同する人がどのような人なのか観測したいとか。
事実を確認できない以上、何とも言えないのが現状だが。
看板も抗議文もネタでした。
の方が個人的にいいのだが。
逆にこれがマジだったら、笑えない。
東大生なら、やりかねないし。
せめて笑えるハッピーエンドを用意してくれていることに期待している。