「子ども性」を捨てきれない
来月で三十路になるのに「子ども性」を捨てきれない。
いきなり造語をかましてしまい申し訳ない。親和性とか汎用性とかそういうカテゴリーの使い方で「子どもの心、子どもっぽさ、純粋さ」的なとても広い意味合いで理解してもらえたらボキャブラリーのない俺は助かる。
つまり「意味は察してくれ!」というやつだ。
ブルース・リー的に言えば「考えるな、感じろ」というやつだ。
そこんとこオナシャス。
初めて「子ども性」を感じたのは中学1年。はっきりと「性別の違い」を意識した瞬間だ。
小学生の時まで男女で遊ぶことに抵抗はなかった。帰り道も男女で混じっていたずらしながら歩いたものだ。それが中学にあがる頃になると関係が全く変わった。
思春期。体の成長に引っ張られて心もググッと大人になる。体のつくりの違いで性別が明瞭にわかるようになる。性別を意識するようになる。そうするとそこに今までなかった透明な壁ができ、同性の友人とつるむ時間が多くなる。
「性別の違い」を意識した時にもうそれまでいたところには引き返せないのだな。と妙に寂しさを感じた。子どものままではいられないのだと。
友人に彼氏彼女ができたら祝う。友人が結婚した時はさらに祝う。すごく幸せそうでそれは嬉しいことなのだ。本当に。心から嬉しい。なのに人によっては隠し味程度の寂しさを感じるのだ。なぜ。
結婚とか出世とか仕事とか「大人っぽさ」が影響してんのかな。と思ったけどそれは違う。
例えば糸井重里さんなんかはみていても寂しさを感じない。よく行くコーヒー屋のマスター(40代既婚)もそうだ。他にもネットを通して「子ども性の残っている大人」をたくさんみつけた。
「子ども性の残っている大人」に共通するのは「あがり感」がないところだ。
結婚して子どもも授かって家庭も持って家も買った。地位も高くなり仕事の収入も安定しているからなんだかもう「人生あがり!」。という「あがり」だ。
ある程度のスキルや地位があってもそこに甘んじずに挑戦し続けている。
子どもの時に未来に思いを馳せ、先にある可能性を信じて前進し続ける清潔な姿勢。
それらが今だに錆びずに。むしろいい色になって輝いているのが「子ども性の残っている大人」なのだ。
歳を重ねるごとに自分の可能性を信じるってキツくなると思う。経験が多くなるからだ。
でも自分で「まだあがってない!」と思うならば人間関係とか社会とか周りを気にせずやったらいい。そのまま死ぬな。絶対に。
この「子ども性」というやつ。俺はなんとなくだけど一生付き合って行く感じがしている。いつまでもいつまでも。痛いやつだと思われてもいつまでも。
乾杯!(「子ども性」の意味合いが広すぎて収集がつかない。前後で意味の整合性がとれていない!という悩みを無理やり解決したことにする時に使います)