心に届きすぎる。/8月17日
ガードがうすくなっているのか、もしくは炎症があるのか、ほんのちょっとしたことで心がひりひりと痛む。そのたびにぐっと涙をこらえる日々が続いている。
テレビから昔流行った歌が聴こえてくる、twitterでほっこりとしたエピソードを知る、帰宅途中にふと何かを思い出す。そんなささいなことで、私の心は胸ぐらをつかまれたように揺さぶられ涙がこぼれそうになる。ささいなことが、心に届きすぎるのだ。
そんな中、私は「あるがままのアート」という東京芸大美術館で開催されている特別展に行った。少し前にNHKで数秒間のCMを観て、行ってみたいと思ったのだ。思えば美術館に行くのは国立博物館の「ミイラ展」以来だから、実に半年ぶりぐらい。上野に半年も足を踏み入れていないというのは、私にとっては珍しいことだ。
特別展
「あるがままのアート-人知れず表現し続ける人たち」
この日は二本立てで、西洋美術館で開始されている「ナショナルギャラリー展」に行ってから、芸大美術館に足を運んだ。きっと、ゴッホの「ひまわり」(一般的には7枚のうち最も完成度が高いひまわり)が展示の目玉だったと思うのだけど、個人的にはゴーガンとラトゥールが描いた花の絵のほうが印象的だった。
ただ、作品がどうこうよりも、美術館で作品に触れることができることにじーんとしてしまって、言ってみれば「美術館の空気」に泣きそうになった。やはり、芸術に触れる時間は必需品なのだ。
「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」
さらに言えば同じく西洋美術館で開催されていた「内藤コレクション展Ⅱ中世からルネサンスの絵 祈りと絵」が素晴らしかった。作品は美しく、小さな宇宙のようだった。小川洋子の小説の中に迷い込んでしまったような不思議な気持ちになった。
でも、作品よりも私が心惹かれたのは、このコレクションを作り上げた内藤先生という一人の医師だ。こういう方がいまも存在するという事実だけで、感謝とともに心が躍る。
そんな経緯があって、私は芸大美術館に向かうことになる。もうこの時点で心はひりひりしっぱなしだったのだ。
全体の1/4くらいまで進んできたあたりで、自分のどこかが決壊した。堰を切ったように、いろいろなものが流れ出した。苦しくて苦しくて、仕方なかった。
作品たちは、祈りのようにも、救いのようにも見えたけれど、それは私というフィルターを通して感じたことなので誰もがそう感じるとは限らない。ましてやきっと、この作品たちの中には「創造」ですらないものもあるはずだ。それらはいわば「むきだしの本能」で、だからこそ人の心を打つ。計算で作られたものではない。創らざるを得ないという不可抗力から生まれた作品たち。
涙が止まらなくて、マスクをしていてよかった、と思った。
この世界にあるすべてのものは、元をたどればすべて、それぞれが自分の足跡を残すために存在しているのかもしれない。きっと私がこうして言葉にしたいと思うことも同じことだ。
私は今日も、たくさんの足跡をたどって生きているし、願わくは片足分でも小さな足跡を残したいと思う。
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