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「石内都 STEP THROUGH TIME」展、 大川美術館(群馬県桐生市)に行く。2024.11.24
石内都の写真を初めて見たのは、写真学校のゼミで横須賀まで観に行ったのが最初かもしれない。それが「絶唱・横須賀ストーリー」展だと今まで信じていたのだが、略歴を見ると「連夜の街」か「From Yokosuka」のどちらかだと判った。この「石内都 STEP THROUGH TIME」展の写真は、当時の作品をそのまま展示したものがあり(近年、撮影された作品もありました。)、その過去のモノクロ画像についての感想です。とりあえずは、、、。
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しかし、展示されている写真を観ても、20代に見たそれが、どちらの展覧会であったのか判らず、かと言って、そのことを確かめるのは見ている私の記憶なのだから、どちらの展覧会だったのかという些細なことなど、歩を進めるうちに、そんなことはもう、どうでも良い事なのだろうと思えた。何かを”忘れないこと”はその個人にとって重要なことだが、”忘れること”もまた、それ以上に大切なことではないか?。などと思う。現に忘れているのだが‼
粒子の粗い画面の前を通り過ぎていく。身体が移動して、私の眼もまた移動していく。横移動。平日の午後だからか、今のところ、私の他に観覧者はいないようだった。慎重に歩を進める。むしろ、他に観覧者がいれば、その足音や、声や、身姿によっては、歩を進めるリズムだったりを取りやすいのかも知れないが、今は、それが、展示された空間と、私の身体とにゆだねられていた。
かつて、その写真の、粒子の粗さは、”ブレ、ボケ”と言われ、ある時代で流通してきた。その時分に制作された作品を、またここで”見る”ということ。
それは、懐かしさと共に、それに入りきらない記憶を揺さぶり、溢れさせる。それが当時と変わらない”作品”であるとしても、それは、見る私と同様に変化している。これは、私が見ているのであって(当たり前だが)と思い、しかし、その当たり前だと思う事こそ厄介なのだと,今にして思えば、思う。それは記憶ではなく記録でもない。その点だけは強調しておきたい。
しかし、これは言葉の方便というもので、作品だろうが鑑賞者だろうが、”名指されるもの” は常に変化を続けているのだから、たとえ言葉であろうと、と思うのだった。
白からグレー、黒に至る諧調をして、そこに写された(写真に)家を見て、
そこに写された(粒子に)皺だらけの手を見た。その写真に写りこんだのは果たしてその”意味(記憶、記録)”なのだろうか?。
部屋を移動していくにつれて、撮影された年代も現在に近くなる。階段を降りて下のフロアーに移るのだが、ひとりの作家の展覧会で、階段を下りる動線で見るというのは、中々ない体験だった。
もう一つのフロアーに下降するため、階段に足を置くと、何やら下の方から話し声がする。(あぁ、誰か他にいたのか)と思ったが、それは、石内都がインタビューされている動画のTV(モニター)画面だった。
「石内都 STEP THROUGH TIME」展 大川美術館2024.8.10~12.15
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カタログの写真はトリミングされているようでした。