腰終わったけど楽しい
なんか最近腰が終わりました。
歩いてて物を落として、拾おうとしたら「腰痛い気がする。え?痛い痛い痛い」と人を好きになる時と全く同じ感覚で痛みました。
好きかも。え?好き好き好き。
全く同じことを最近『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』で感じました。
アーリャさんの字幕のないロシア語を聞いた瞬間に「あ、好きかも。え?好き好き好き」となりました。
腰は終わって『神の手を持つ男』(僕が勝手に呼ばせてもらっている整体師の方)のところに行って「これは軽いぎっくり腰だね」と言われた事を差し引いても、アーリャさんに出会えた喜びの方が勝っているので、人生単位で見たら大きく花丸大回転です。
幸せが近い
幸せが近いで言いますと
幸せが近いと言う言葉自体はとてもファニーでリーズナブルで素晴らしい言葉なのですが
この「幸せが近い」を言うと竹内が僕に怒る。と言うノリを面白がった人による
竹内のDMに急に「幸せが近いwww」等と送る行為が頻繁に横行して、気が滅入った竹内が「やめてね」と伝える事件が発生しました。
竹内も幸せが近いも両方とも全く悪くないのに
むしろ被害者
これは加減や間合いがわからない人によるコンテンツの衰退
幸せが近いという言葉自体はとてもかわいらしいのに
とても残念で遺憾ですね
その騒動をうけて
「幸せが近いって別に嫌な言葉じゃないんだから過敏になりすぎじゃない?」とか
「もう昔の言葉かもしれないけど、自分は最近知ったし笑」等と全く見当違いの意見を述べている人もいましたが
この問題の本質を、なにも理解できていない。
別に知らない場所で例えば自分のツイートで使う分にはなにも思わない。そんなことで竹内は怒っていない。
わざわざDMで同じことを何回も送りつけてくる人のつまらなさ
同じ人間が頻繁にとかじゃなくても
もうそれは再三擦られているだろうということを考慮せずに
自分は一回目だからと思慮浅く送っていることに
ムカついてしまいそうだから、「もうやめてね」と優しく言っているのだ。
そんなことも、この文章から読み取れずに
そんな怒ることか?😜
と発信している人は
読解力が低いので
もう少しネットの海に潜ってから、勉強してから、世界に発信するステージに遅れて参加した方が良いと思う。まだネットで何かを発信するのは危険かと思うよ。
と、逸れた道で顔を真っ赤にしてしまってすみません。
そんなことより
腰も順調に治ってきて
兄弟の体制(なにも知らない人に文字だけで伝えるのが世界一難しい人間)(後輩の芸人で「兄弟」と言うコンビを組んでいる「体制」と言う名前の人間)が「吉野さんは体も弱いのに忙しくて、多分早めに死ぬから俺悲しいんすよ」と決めつけて涙を流そうとしてくることに、好かれている嬉しさ、虚弱体質というアニメ的ステータスがついてることへの喜び、死を運命づけられることへの怒りの3つを同時に耳から体内に打ち込まれる衝撃に不思議な感情になる。
だが、心配してくれることは確かにそうで
風邪を引いたり、謎の軽病に罹りがちな僕は
とうとう外側の腰を痛めるという患いに
中と外の波状攻撃
エドワードエルリックとアルフォンスエルリックがしそうなコンビプレーのような攻撃を受けているのです。
注釈 エドとアルも「兄弟」ですね
だがしかし、そんな体調の弱りを感じる時にこそ
漫才をする時に「手を抜いた方が今後のためになるのではないか」と僕の中のもう一人の僕(真理の扉の向こう側にいる真理のように自身と同じ輪郭を帯びている人物)が唆そうとしてくることがあるのですが
そこは私は
May'nさんのステージを目に焼き付けたあの日から
客席からMay'nさんの歌声パフォーマンスを浴びて涙を流したあの日から
もしも、自身のライブに来てくれる人が人生の楽しみとして、何かに疲れて笑いたくてライブに足を運んでくれている時に、その日だせる100%をMay'nさんのようにぶつけて涙を流させなければならないという使命感を抱いている物ですから
面白い面白くない、ウケるウケないは別として
100%のデカい声は出していこうと
喉が壊れて腰がもう一度変な方向に曲がったとて
僕の中のMay'nさんをぶつけなければならないと
そう思う日々にユニバーサルバニーしていきたいと思っております。
そして腰が痛いのでなるべく動かないネタを選びました。
すみません。
激痛なので
許してください
あなたになにがわかるんですか?僕の腰の
話の腰をおらないでください。
とまあ上手いことをひと握り
へいお待ち
江戸前寿司のお茶の湯呑みが少し大きいのは屋台のお寿司屋さんだった頃に最後お茶で手を洗えるように、手が入るサイズにしているんだとか。
これもしかしたらガセ豆知識です。
おやすみなさい。
面白く無ければいりません!!!!