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『輪るピングドラム』小論———「ニューエイジ的」宮澤賢治解釈の読み替え

(※この文章は『輪るピングドラム』についてネタバレを含みます。ご注意ください。)

0. 作品について

 『輪るピングドラム』は、2011年に放映されたアニメで、そのミステリー的な仕掛けのによって数々の考察がなされている。知人の人におすすめしてもらって最近視聴し、非常に面白かったので、ここ数日、作中で引用がなされている宮澤賢治を読んだりしていた。

 これは何度も指摘されていることだが、作中で「95年に起きた事件」と呼ばれるものは、オウム真理教による地下鉄サリン事件が念頭に置かれている。だがこの作品の射程は、「オウム事件の再考」に限らない。「こどもブロイラー」と呼ばれる施設は酒鬼薔薇事件を想起させ、また陽毬が迷い込む図書館で探している「かえるくん、東京を救う」は、間接的に阪神淡路大震災への言及であると見做せるだろう。要するにこの作品は、作品の中で象徴的に現れる、二つの矢印から成る赤い円環に囲まれた「95」及びその時代の取り残された謎を再度提示し続けており、それがいまだに語る(考察する)欲望を引き出しているのだろう。

1. はじめに

 とはいえ本論は、次の問いに対して、さして確証もない考察を提供するだけだ。それは、『輪るピングドラム』はなぜ賢治を読み替える必要があったのか?というものであり、『ピングドラム』が提示する宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の解釈は、1970-80年の反原発運動の中で参照された賢治のニューエイジ的な解釈に対抗するものとしてある可能性を示す。その過程で、賢治のニューエイジ的な解釈がオウムと通底していることを示す。

 この論の動機は、初めは「『ピングドラム』はもっと社会運動的な文脈から語られてもいいんじゃないか?」と思っていたことで、次に宮澤賢治の解釈が市民運動に用いられていたことを思い出し、絓秀実『反原発の思想史』を読んでいたところ、思いついたのだった。流石に先行研究はないだろうと思って一応調べたところ、驚くことに一つ、あった。木村長永 「日本のアニメとニューエイジとの関連についての一考察 :アニメの中に生きるニューエイジ的思想 」が、それである。ただこれは、論の終わりで『ピングドラム』が「ニューエイジ的な要素が色濃く現れており、結末もグノーシス主義的で、 とても興味深かった。 」と触れられるのみだった。


2. 本論

2-1. ニューエイジとは何か?

 長くなってしまったが、本論に入ろう。まずいくつかの前提を確認しなければならない。ニューエイジについて、前出の絓秀実『反原発の思想史』は次のように整理する。

ニューエイジとは、1960年代ヴェトナム反戦運動下のアメリカ合衆国に期限を持ち、1970年代-80年代にかけて展開されたスピリチュアルなカウンター・カルチャー運動である。

絓秀実『反原発の思想史』pp.150

 しかしそれは、たんなる近代合理主義の排除を意味しない。絓は島薗進『精神世界のゆくえ』に依拠しつつニューエイジの次のような特徴を挙げる。

(1)自己変容あるいは霊性的覚醒の体験による自己実現。(…)(5)死後の生への関心。(6)旧来の宗教や近代合理主義から霊性/科学の統合へ。

『反原発の思想史』pp.156

 そして『ピングドラム』に影を落とすオウム真理教とは次の点で接する。

オウム真理教は、明らかにニューエイジの影響下で生まれた宗教だが、その『ハルマゲドン』がニューエイジからの逸脱であったわけではないだろう。そして、ニューエイジは(…)過激なコミューン主義も浸透している。

『反原発の思想史』pp.157

この整理に依拠して、「ニューエイジ下のオウム」の要素を取り出しておこう。
①アナキズム(テロリズムに向かうものとしての)
②コミューン主義
③オカルティズム

2-2. 「賢治のニューエイジ的な読み」とは何か?

 では翻って、「宮澤賢治のニューエイジ的な読み」とは何か。ここではその代表者として、物理学者であり、また「市民科学者」として70-80年代の反原発運動を先導した高木仁三郎の「宮澤賢治をめぐる冒険」(『高木仁三郎著作集 第九卷』)を参照する。

 高木は原子力開発に携わり始める1961年から、「自分の中の人間的なものがそういうところ[原子力開発のプロジェクト]で、どんどん殺されてい」き、「科学そのものも人間から離れていく」と感じる中で、「科学をどのようにして人間的な場に戻すか」という問題意識を自覚する。そして、賢治の次の言葉に出会い、衝撃を受ける。

われわれはどんな方法で
われわれに必要な科学をわれわれのものにできるか

高木仁三郎「宮澤賢治をめぐる冒険」(『高木仁三郎著作集 第九卷』)pp.210からの孫引き

 彼は自身を理論科学者ではなく試行錯誤を重視する実験科学者に位置付ける。つまり、科学の反復可能性ではなく、実験の中の偶然的な発見に、「冷たい科学」からの脱却の道を見ている。そして、賢治も自分同様「典型的な実験科学者」だという確信のもと、「グスコーブドリの伝記」を読み解くのである。

 宮澤賢治の童話「グスコーブドリの伝記」は、冷害に見舞われる農村の温暖化を図るため、火山局局員であるグスコーブドリが一人で火山に入り、爆発させるというものである。高木はこの死は「新しい生につながるような死に方」であり、それは「仏教的な輪廻」だと言う。そして自分はこの死を「エコロジーの循環という文脈」から読みたいのだ、と書く。

 もう明らかだろうが、この高木の立場は、上記の「(5)死後の生への関心。(6)旧来の宗教や近代合理主義から霊性/科学の統合へ。」にそのまま当てはまる。

 高木のニューエイジ的な賢治解釈は次のようにまとめられる。今まで科学は、エリート科学者による理論的な面を重視しすぎた。しかしそのような冷たい机上の科学は、実際にいる「人間」からの遊離をもたらしたのであり、今日の巨大開発や原発に繋がっている。しかし賢治の作品・生涯には、それとは別の科学のあり方の萌芽が見られる。すなわち、人と人とをつなぐエコロジー的循環の中にある科学である。そこでは、人々のために火山に飛び込み死んだグスコーブドリのごとく、死者の霊と科学とが、循環の中で統合される。

 もっと短くいこう。ニューエイジの賢治解釈の要点は、「罪のない科学もある(そのような科学を目指そう)」だった。

 そしてニューエイジ的解釈は、おそらく「銀河鉄道の夜」でのカムパネルラの死も同様に読み解くだろう。カムパネルラの死は、より大きな循環の中にあって、「あの世」にいくことのできる特別なチケットとして、ジョバンニに引き継がれていく…

 だが、そのようなニューエイジの賢治解釈の論理は非常に危うい。地下鉄サリン事件を支持する論理ですらあるだろう。サリンという「科学」によって被害者を「ポア」し高い世界へと転生させることは、ニューエイジ的賢治解釈が強調する「循環」の一つと解釈することに、何ら違和感はない。(もちろん高木とオウムに関連など全くない。そもそもオウムの信者は誰も賢治のことなど気にしていなかっただろう。ここではあくまで、論理に相同性があるということを言いたい。)

 この点をより明確にするために、「ニューエイジ下のオウム」の三要素を再確認しよう。
①アナキズム(テロリズムに向かうものとしての)
②コミューン主義
③オカルティズム

 これは「グスコーブドリの伝記」のニューエイジ的な読みそのものである。
 まず絓が指摘するように、ブドリの火山への突入とはテロリズムそのものであり、そのようなテロリズムはソルニット『災害ユートピア』で表現されるようにアナキズムと親和的である(①)(『反原発の思想史』pp.215-216)。ブドリはそれを、農村というコミューンのために行う(②)。そしてブドリが自身の命を犠牲にすることによって(=生贄に捧げることによって?)起こす火山の爆発とは、すでに近代以降の「科学」の名には値しない。それは「魔術化された科学」であり、秘術の域にある(③)。

 つまり、賢治をニューエイジ的に読む限り、それはオウムを肯定する論理でしかない。そして、だからこそ『ピングドラム』は、賢治を再解釈することが必要だった。そしてニューエイジの賢治解釈の肝が「循環」(逃れられない運命の環)であったとすれば、『ピングドラム』は賢治を通して「運命の乗り換え」を対置しようとしたのである。

 『ピングドラム』が提示する賢治解釈については、また稿を改めて論じたい。

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