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堕落した江戸侍たちの惨状 大日本帝国と史論家山路愛山の時代9

堕落した江戸侍への嘆き

 

明治大正に活躍した思想家、史論家山路愛山(1865~1917)


 歴史家になる夢も、文筆で世を変えようとする希望も抱いた山路愛山であったが、青年期を過ごした静岡時代は甘くはなく、悲惨であった。

「余は「軽蔑せられたる静岡人士」の境遇に身を置きたるがゆえにすこぶる敗者の運命を会得せり。頼む木陰に雨の漏るゝ悲境に身を置きたるがゆえに戦勝者の子の味はざる味を甞めたり。独り余のみならず「間抜けの旗本八万旗」と罵られたる徳川武士の子はみなこの味を甞めたり。これ実に熊の肝よりは苦き味なり。敗軍の将の子は先天的に無能者なるが如く思ふ世間において空拳を奮つて起ちし我儕は如何ばかりの苦痛を要せしぞ」 [i]

と残している。

「余は九州男児が江戸の社会の主人公となりしより、江戸は一たび野蛮に還りたるを信ずる也」

「江戸が九州人士の為めに攪乱されしに反して、静岡は江戸人士に高められたり」

 と「江戸文化」と、「九州文化」の比較をしている。愛山にしてみれば、野卑な文化がこの時代を席巻しているようにしか見えなかった。彼が『西郷隆盛上』で、薩摩文化の特異性について高い評価を与えるのは明治43年(1910)のことである。

 こうした敗者側の思いは愛山だけではなく、弘前藩出身の政教社同人にして思想家であった陸羯南も共通している。
「東北人は維新戦乱の敗北者なり」
「東北人は実に維新後の失敗者なり、明治初年の日陰者なり」
「東北の侮られ、無神経といはれ、一山百文といはれたる、亦た久しとせざるか」[ii]
 と嘆き、東北と同じ辺境である九州の気風を研究している 。


明治の大ジャーナリストであった陸羯南(1857~1907)

 「羯南は雪嶺、蘇峰、知泉(朝比奈)、三山(池辺)、日南(福本)、愛山(山路)らとならぶ明治中期新聞界の巨峰」

 であったが、愛山にせよ、羯南にせよ不遇から発したがゆえに、後世に名を残すジャーナリストの一角となった。なぜ旧幕臣が言論で活躍したのか。露骨に言えばそれは屈辱を与えた薩長政府へのリベンジでもあったのは否定できないだろう。

 マイナスこそが伸びんがためのバネとなろう。青年時の不遇は成功への道だと、愛山は記している。

 「貧を恐ること勿れ。貧は人をして事を為さしむる一大刺撃也。・・・余は信ず人の最良なる資本は勤業のみと。愚人は宮殿に長じ哲人は白屋に生る。貧は人生成功の途に於ける超ゆべからざる障壁に非る也」 [iii]


愛山の青少年期をうかがい知ることができる作品

 愛山は欠乏や悲境という状況を「持っていた」。苦難を「味わい」、負けずに立ち向かうからこそ強者なのである。

 だが落ちぶれた境遇により心まで腐らせたら救いようがない。愛山において、目の前にいる士族は、同情の対象だけではなかった。士族は、「本来の姿」を失い徐々に変貌を遂げていく。静岡という小さな都会は、江戸人種を胆の小さき者とし、中途半端な成功で満足を得る人間とした。彼らの一部分は山林と些少の金銭を有する小富人となり、高利貸しや、小さき官吏、学校の先生となった。誇るべき「三河武士」たることを捨て、畳づけの駒下駄、甲斐絹のこうもり傘で市中を漫歩している。彼らは小さき天地で、小さい満足で終わる人たちとなった。

 愛山は、「物質的人間」を軽蔑し、常に「人物養成の必要」という言葉を口にして、「英雄」といった観念にそれを求めていくが 、それは青年時に目に飛び込んできた矮小化し、変わりゆく静岡移住後の人々への反発だった。
堕落する武士の姿は、父一郎のことでもあった。

 「呑太郎が金弥(愛山自身がモデル)に対する情は尋常父子の理をもつて推すべからざる也、金弥は世間の父らしくするをもつて呑太郎に求めたり、しかれども呑太郎は金弥を見るを世間の父が子を見るが如くすることあたはざりき。そのつれなくせしが為に終に死を致せる婦に生ませたる子、しかも二十余年棄てて顧みざりし子はいかで我手しほに掛けし子の如く見るを得んや」 [iv]

 愛山にとって「父」は、家庭を省みず、小説の名に現れているように「呑んだくれ」という印象しかなかったようである。静岡に来た一郎は、「上野の山が晩まで保てば、天下はおいらのものだった」と叫んで酒乱になり、大きい刀を振り回すこともしばしばであった[v]。しかし、そんな愛山も、親への「孝」を説く「儒教主義」については頭を悩ませた。儒教において父は子に絶対的である。例え過ちを犯そうが、家産は父が受け継ぐべきものだ。  
しかし、「金弥」は「儒教」に逆らった。

 「金弥は父に譲るの不可なるを認めたり、何となれば彼の品行は毫も悛まらずして、若し家を譲らんには直ちに之を破毀すべければ也」

 父の存在より、「イエ」の維持が重いと見た。儒教主義を破ることが、明治という新時代の価値観から生まれた態度と即断してはならない。愛山が『人生』を発表してすぐ、明治二六年六月(一八九三)『国民の友』誌上において「家族的専制」との一文で徳富蘇峰がその破壊を叫んでいた。それぞれが自主独立の人格を保持する家族像が理想だという。これは明治期になり逆に家父長主義が強固になったということだろう。それ以前の日本では農耕社会における母系制も見られ、儒教主義的な家族観念が日本史の主流ではなかったということも踏まえなくてはならないだろう[vi] 。日本は伝統的に父母の権力がそれぞれ強い双系制であった [vii]。


日本民俗学の大家宮本常一の一冊

 ちなみに一郎は、明治二一年(一八八八)の六月に亡くなるが、愛山との関係は徐々に和解したようだ。一郎は愛山の勧めもありキリスト教に入信し酒もやめた。晩年は「徳川武士の典型的老士」そのものであったという。愛山は父を許すことで、初めて人を根源的受け入れるということを学んだのだろう。

 愛山が評価したのは、徳川時代の武士ではなかった。「戦国武士を論ず」において「彼らは個人として戦はず一家として戦へり、当時の社会が大地主の各一家をもつてその単位としたるが如く当時の軍隊もまた大地主の各一家をもつてその単位としたり」 と述べ、一家が〈共同体〉を形成して戦ったことを強調する。江戸の武士は土地から離れてゆき、分業的な社会形成の一大メンバーとなった。愛山は江戸社会が個人主義化した傾向を批判する。

 「されど武士階級はその領地に住む能はずしてその主人の城下に住ひ、なほその所に止まる能はずして主人の参勤交代とともに主人の江戸屋敷に往来し、多く江戸住居をなさざるを得ざりしがゆえに、武士はほとんど全くその領地に対する地主たる意義と興味を失ひ、単に一定の土地より一定の租税を収め、若しはその主人の倉庫より一定の禄米を受くるに過ぎざるものとなり果てたり。此の如くにして武士は復た何等の生産機関に非ず、わずかに他の人民の供給に衣食する人間社会の雄峰たるに過ぎざるに至りき」

 「土地から離れた」江戸侍の生活は「生活をして多費ならしめ」、「身体をして不健全ならしめた」るものであったという。

 愛山が静岡で見たのはかつての江戸武士が、更に小さくなった姿であった。この静岡体験が、武家時代衰亡の歴史を書かせるきっかけとなり、江戸時代における町人階級の勃興=都会文明の発展といった洞察につながっていくのである。



[i] 石上良平他編「命耶罪耶」『人生・命耶罪耶』(影書房)昭和四〇 六三頁
[ii] 小山文雄『陸羯南』(みすず書房)平成二 一三頁
[iii] 丸山真男「陸羯南―人と思想」『戦中と戦後の間』 みすず書房 昭和五一 二八二頁
[iv] 「命耶罪耶」前掲書 三一頁
[v] 「命耶罪耶」前掲書 三三頁
[vi] 宮本常一『庶民の発見』(講談社学術文庫)昭和六二
[vii] 尾藤正英『日本文化の歴史』(岩波新書)平成一二

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