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〈大日本膨張論〉の時代への反逆          大日本帝国と史論家山路愛山の時代27 

荻生徂徠という理想的人格

 山路愛山の言論活動は、徳川文化の名誉回復から始まった。その作品が『荻生徂徠』と『新井白石』の出版であった。前者が二六(一八九三)年で、後者がその翌年で日清戦争の開戦があった。前者出版の年に愛山は二八歳を迎えている。三十直前の「若書き」だが、独学で苦労したために一定の成熟を感じることができる。

 戦争間際で国事が騒然としたこの頃、盟友蘇峰は『大日本膨張論』(二七(一八九四)年七月)を発表しイケイケどんどんをやっていた頃、愛山は独り黙々と時代外れにも見える「徂徠」や「白石」について執筆を続けたことは驚きである。向いている方向が全然逆なのだ。

 徳川時代が誇る双璧の学者を呼び起こし、その思想的伝統を復権させようという。明治時代は盟友蘇峰のように徳川時代を軽視し、見向きもしない風潮があった。過去との一方的な切断は、愛山個人のみならず、日本国民にとっても不幸な話であった。

 愛山の主張は、歴史は繰り返すというものである。ということは、今の明治時代の文明開化の世もまた、過去の歴史と似た展開があるはずだ。彼は元禄時代(一六八八~一七〇四)を寸評し「まさに進歩の頂点に達したるの時なり」と述べて、「人心は智識」に向かい、「文明の大潮」は防ぎきれない状況になっているとした。

 愛山は明らかに元禄時代を明治時代と重ね合わせて理解している。愛山の明治観は、既にそのルーツが徳川時代にあったというものであり、それを肯定的潮流とだけ見ていたのではない。現在に問題を見るように、単純に評価しえない側面を見ていた。

元禄時代の様子

 言うまでもなく文明の進歩は弊害も生む。「空文徒辞」が人々の心をとらえ始めたのである。「学問の手段は目的となれり」、「思想を表はすべき文字は技巧を競ふべき材料となれり」という状況が深刻化した。「花をたばねて花輪を作るごとく文字をたばねて詩文を造る技術師」が生まれ、徳川時代の文学は十分に健全なるものとはならなかったとさえいう。「精神よりも体裁、議論よりも結構に、事実よりも排列」に、人々の才能や思考は捉われていったからである。これは愛山が明治に見た光景そのものではなかったか。徳川時代の儒者は朱子学の教説を墨守し、明治時代の学者は欧米の学説を受け売りするという知的状況にある。愛山はこのいずれもが、似たように見えたのではなかろうか。だからこそ、余計に朱子学を根底から否定した徂徠が輝いて見えたに違いない

『荻生徂徠』を読めば、透谷との論争(人生相渉論争)で同じ主張がここでも繰り返されていることが分かる。明治の愛山が「空文徒辞」を嫌ったように、もう一人そうした潮流に立ち向かった人が徳川時代にいた。それは儒者の荻生徂徠であった。愛山曰く、江戸の世は徂徠の声に驚くばかりで、彼の仕事の意味に注意しなかった。そして世は徂徠を「徳川文学の罪人たらしめぬ」という冷遇をしたという。こうして透谷論争において「悪者扱い」された自己と徂徠とを重ねているのは明白であろう。

 だが、当時より名声高く自らの学派を築き絶大な影響力を持った徂徠が「徳川文学の罪人」となったという愛山の説明は大げさという感じが否めない。無理矢理自己に引き寄せて徂徠を掴み取ろうという気持ちが前に出過ぎている。

 徂徠の人となりを一言でもって覆えば、徂徠は一章で述べた「田舎の碁打」の元祖だということだ。寛文六年(一六六六)に江戸に医者の子として生まれた徂徠は、延宝七年(一六七九)に本納(現千葉県茂原市)に流されている。父が主家の怒りを買ってしまったのである。一三歳であった。元禄三年(一六九〇)になってようやく許しが出て江戸にもどることができた。同じく江戸から追放された経験を持つ愛山は、徂徠に対して無上の親しみを感じずにはいられなかった。愛山の静岡時代と同様、徂徠の学問や人格の基礎は、南総の時代に築かれた。この田舎時代に本当の苦労を知り、人生の何物たるかを理解するに至った。徂徠こそは「艱難汝を玉にす」の典型である。


荻生徂徠

「官医の家に生れて、温飽の中に生長したる小児は、たちまち人生の極苦をなめざるを得ざりき。天は英才をして艱難と戦はしめたり」

「まづ彼れを苦しめたる者は寂寥なり。彼れの家は親戚と朋友とに乏しからざるしかども、みな幕府の嫌疑を恐れしかば誰れも音信を通ずる者はなかりき」

「彼は田舎に人と為りしかば、日本国の実況を知るを得たり。彼れ風俗に染ずして地方民間の事情に通ずるを得たりき」

そんな徂徠の人格は

「・・・世の所謂「完全なる紳士」「道学先生」にあらざりき。彼れは礼法を守るの人にあらざりき・・・彼れはどこまでも野人なり、天の成せるままにして毫も修飾する所なかりしなり」

という田舎者を失わない、豪放磊落な人物であった。「儒学は道学である」とのイメージを覆し、礼法に捉われるべきではないとしたというわけである。これは徂徠の思想で最もよく知られている点であり、批判の対象となってもおかしくはないが、愛山は疑問視していない。

「彼れの口は極めて悪しかりき、然れども彼れの心は極めてやさしかりき」とその性格を称え、「彼れは傲慢なるが如く見えたり、然れども人才を愛するの情に厚かりき」と門弟に優しくしたことに触れている。

 徂徠は朱子学のように道徳の完成や、聖人を目指すことなどナンセンスだと考えた人である。「米は米、豆は豆」と言い放って、演繹的な徳目によって人を縛るよりも、社会に合わせて人間を活用していくのが良いとする思想性を持っていた。

 愛山もまた「知らずや命令は唯人の外形を変ずるのみ、その本心を易ゆる能はざるなり」(明治二四「忠君論」)と述べていた。対して蘇峰はこう述べているので注目しよう。

「・・・吾人は人性を完全善美ならしむる所の教育をもつて。我邦人民の標準たらしめんヿ(こと)を希望するなり」

「学問および教育の目的は人性を完全ならしむるにあり。」(『新日本之青年』)

初期の蘇峰は、「知徳」を重視し、人間性の完全を目指していた。こうした表現は蘇峰が嫌う朱子学の聖人思想(学問は聖人になるために学ぶものだという考え)から抜け出ていないように思われる。愛山の場合は人間性が完全であれとは思いもしていないようだ。むしろ不完全性を長所として生かす社会を理想とした徂徠を支持したのである。

 愛山の見る徂徠は豪快なだけではなく、飲食居所より出入動作に至るまで健康に害ある物はしなかった。徂徠の思考は大であるが、小を忘れることなき人物であったというわけである。このようにして愛山は、徂徠を通じて理想的人格を発見したのであった。

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