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大日本帝国と史論家山路愛山の時代1  「日本人とは何ぞや?」一貫して問い続けた史論家山路愛山復権の試み   


山路愛山(1865〜1917)

 「日本人とは何ぞや?」一貫して問い続けた史論家山路愛山復権の試み

 最近、とある著名なジャーナリストが

 「岸田文雄首相には国家観がない。だから何をしたいのかが明確じゃない。歴史上もっとも薄っぺらい首相だ。」

 と発言をした。この手の言はいわゆる〈保守派〉の論者に多いのだが、しばしば登場する〈国家観〉という言葉は何なのかかねてから疑問であった。というのはそれを論者が一向に明らかにしないためである。ただ何となく、こういう共通了解はありそうだ。先の大戦について日本は
「自衛戦争を戦った」
という論者の歴史観や国家観はしっかりしたものであると好意的に評されることがしばしばあるように思われる。日本の歴史に対して誇りを持ち、肯定的な見方を持っている論者こそ、国家観があると〈保守派〉から言われる傾向がある。このように歴史観と国家観は密接不可分なものとして受け止められているようなのである。

 しかしながら、そういう思考態度は右翼的と見なすべきで、保守の立場は、自国の歴史の長短を客観視しようと努め、その上で自らの存在そのものを形作る自国を愛し、国を保守する態度を持っている人のことを言うのではなかろうか。
「あの戦争は自衛だ」
「いや侵略だ」
 と二項対立的な認識を振りかざす論者には疑問がある。筆者はこういう人たちを〈極端主義者〉と呼んでいる。多面的な要素が人間の歴史の中にいくつも併存していることを認められない論者は、偏頗的な〈ウヨク〉か、日本史を真っ黒に染めて良しとする〈サヨク〉ではなかろうか。また日本人の多くは〈ウヨク〉と〈保守〉を混同し誤認している現状もある。保守は矛盾を矛盾として受け止めるのであって、極端主義ではないだろう。

 このような思想的な混乱状況にある中、これからますます、保守の歴史観、国家観とは何かを模索していく必要がある。この両者は密接不可分であり、日本の歴史を踏まえない国家観はあり得ない。
 かつて坂本多加雄は『国家学のすすめ』において、国家を考えることの意味をこう述べた。

「国家を私たち自身の心のあり方として改めて捉え直すということは、国家に関わる事柄を、ともすれば政府の仕事だと考えてしまいがちな私たちの習慣を払拭することを意味する」

 筆者のように一〇年近く海外で生活をしていると、中韓両国民をはじめ、歴史の議論を吹きかけられることがある。決まって日本は〈悪役〉である。こういった場面において、日本国民であることを背負い、戦わざるを得ない場面を少なからず経験した。佐伯啓思の言う
 〈倫理としてのナショナリズム〉
 が求められているのである。それには日本史に接近し、自国の歩みについて最低限の知識を持ち周辺国国民と対話する想定もすべきであろう。

 坂本が国家学の必要を訴えて以後、その重要性は増していると言えるが、明治の国民国家成立以後の思想家の国家観は振り返られることはすくない。それは骨董趣味の世界になっている。しかし、思想は抽象的な価値だから、人々が意識していないだけで水面下に現れていないだけで依然として我々はその影響下にあることを忘れてはならない。ある論者は無意識に政治家に対して「国家観がない」などというが、彼らにそういう言い方をさせているのは日本思想の歴史に根拠がある。そして何より肝心なのは、そういう言を発する当事者自身に披歴するほどの国家観があるのかということではないか。筆者には到底そうは感じられなかったのだが。

 そこで紹介したいのが山路愛山の歴史観、国家観である。日本近代が生んだ大歴史家の一人といえる。愛山の『源頼朝』、『足利尊氏』、『豊臣秀吉』、『徳川家康』といった史書は今もなお生きているが、
 「いまの若い読者にとって、とっつきやすい文章ではない」
 とも言われ、なじみがない人がほとんどであろう。実は先の坂本多加雄は山路愛山の研究者であった。坂本は愛山の思想に触れることにより、国家学の必要を感じ取っていったのは間違いがない。しかし坂本は愛山の史論に触れることは少なく、どちらかというと愛山の社会批評に注目した。しかしそれは、愛山の国家観を問ううえであまりにももったいないと言えた。愛山の描いた日本論は、日本人とは何かを再認識させる内容であり、決して古ぼけてはいない。また、独学で知を築き上げた自負を持ち、徹頭徹尾自身の頭で考え抜く姿勢は、ヨーロッパの思想家の発言を真に受けて日本のありようを論じる思想家とは一線を画している。国家は政治制度の産物だけではない。日本史の文脈から生まれた存在として国家を意識すると、政治のみがこれを代表するものでないことがわかる。愛山は日本民族の歴史に精通した史論家だが、彼の手作りの国家構想は、政治・経済・文化といった国民性への知見が盛り込まれた内容となっている。国家観が希薄となり
 「日本人自身が日本のことをよく知らない」
 といわれる日本だからこそ、彼の思想を参照することは、有意義である。 これは、手前みそにはなるが、筆者がかつて評伝で描いた
 「日本近代史上、最高で最大」
 と言われる歴史家、津田左右吉にも言えることである。彼らに共通しているのは、現代の学者が失いかけている情熱であり、国家を背負う気概である。こういう思想家にこそ、語り継ぐべき日本保守主義の源流があるように思われるのである。

山路愛山(元治元-大正六 一八六四-一九一七)は、幕末に生を受けて、明治中期から大正前期に活躍した思想家である。愛山の同時代人の評価を見てみよう。

「現代におけるもっとも卓越せる史論家として一代の声望を負つてゐた愛山山路弥吉氏は、(注:一九一七年)三月十五日病をもつて東京府下渋谷の自邸に逝いた」

この一文は訃報であるからその人物評価は割り引く必要はあろうが、愛山を当代一流の史論家とするのは衆目の一致するところであった。多くの明治近代の大学出身の学者の史論が顧みられない今日、いずれが高い評価を受け続けてきたかは明瞭であろう。

愛山は野人とも評された。明治四五(一九一二)年にはこのように描かれている。

「愛山氏が人と話しをする時には必ず何か持つている。もし何にもなければ鼻へ指を突つ込んで天然丸薬を造り出し(注:鼻くそを丸める)「ベランメー彼奴等に歴史などが解つて堪るもんか」と興に入ると口から夕立を降らすのでお客の頭がビツシヨリ。そこへ令息が来て頭をピツシヤリ。愛山氏それでも何とも云はないで、大気焔それが細君の前へ出ると鳴海絞(注:愛知県名古屋市緑区で有名な絞り染め)の如く縮み魚の如く一句も出さず金槌の川流れの如く頭が上がらない」

漫画であるから誇張も多いが、いかにも彼の人となりを伝えるのにユーモラスで興味深い一文であろう。人から愛されていたことがよく理解できる。

彼は、明治近代化の歪みと資本主義を批判した〈社会主義者〉であり、日露戦争で日本軍にエールを送り続けた〈帝国主義者〉でもあり、家族国家の理想を説いた〈国家主義者〉でもあった。まるで思想の「寄せ鍋」のようである。人々を混乱させる外観を持つ彼は、今や明治、大正時代に活躍した偉大な〈史論家〉(後述)として振り返られるだけだ。筆者には〈寄せ鍋〉だからこそ興味を感ずるところがある。愛山には、明治時代に登場した数多の思想を一身に背負う雰囲気すらあるといってよい。個性的な思想家が百花繚乱したこの時代においてもユニークで、 彼を研究すれば日本近代がいかなる困難に直面したかが見えてくる。

日露戦争が終結した明治三八年(一九〇四)一二月五日には、愛山は、自らが経営していた『独立評論』で、「国家社会主義梗概」を発表し、独自の政治思想を世に訴えた。彼がここで強調していることは
「共同生活は日本王道の根本義」
 であり、日本国民は、家族のような紐帯により、結ばれていなくてはならないと力説した。日露戦争の戦勝に浮かれる国民を尻目に、日本の個人主義化を憂慮し、その前途に不安を感じていた。反時代的で、天邪鬼的ですらある。彼が、〈国家社会党〉を組織したのは、この年であり、これ以後も、彼の活躍は続くのだが、この辺りが彼の思想的な活動のクライマックスだった。彼の思想的な長短は、この国家社会主義構想に収斂されている。 あらかじめ断っておくが、愛山が説いた社会主義は、明治になって深まり続けた産業文明への批判の手段として強力ではあったが、皇室を否定した共産主義や、二・二六の青年将校に影響を与え、国家改造に向かった北一輝の国体批判論的社会主義とは性質が違う。彼らの中にはテロリズムに走ってしまったものもいた。


北一輝


いくら愛山を読み込んでみても、彼には過去に対するルサンチマンや被害妄想的な感情が少なく、むしろそれらに縛られることを意識的に警戒していた。したがって、負の感情が過激な政治的行動に結実していった人々とは異なっている。政治的な影響力を持つには その要素があまりにも 希薄だったのである。

愛山は得意の史論においてこう言う。

「秀吉の一生を見るに心も軽く気も軽く、怨を忘れ、讐を思わず、くるくると廻りて諸事はかの行くこと、誠にかゆき所に手の届くが如し」

この秀吉についての評価はそのまま愛山の理想とする英雄像、人物像に結びついているように思われる。こうした彼の思想の底流には、人々を陽気にさせ、激励する平民主義が一貫して存在していた。そういった意味において彼は啓蒙主義者である。その平民主義の終着駅は、日露戦争の戦闘が終結を迎えた明治三八年(一九〇五)における『国家社会主義梗概』でピークをむかえた。彼は、国家社会主義でなければ、産業文明社会の主役たる資本家階級が勃興して平民の立場を脅かしている現状から、彼らを擁護することができないと考えるにいたったのである。平民主義の帰結として出現したのが国家社会主義であったと言ってもよい。全ての彼の掲げた主義は〈平民主義〉に帰一するのであり、 

愛山研究の第一人者、大久保利謙は

「愛山の思想はこのあたりが頂点で、その後は自分の国家社会主義思想の周辺をぐるぐる廻っておわった」(A四三三)

と述べている。平民主義は、愛山によれば、福沢諭吉を始祖とし、明治時代の思想家たちが自己の立ち位置を決める際の最も典型的な「看板」となった思想である。その定義は思想家個人によって異なり、幸徳秋水らの『平民新聞』に依拠していた人々から、本論で扱う山路愛山まで実に多様な姿を持っている。従って「山路愛山の平民主義」といったように、その内容を明確化していく必要があろう。

山路愛山の国家社会主義とは明治時代に出現した〈家族国家〉思想の一種である。これは、いわば、戦後民主主義(丸山真男ら)に立脚する者たちから「日本的ファシズム」の一種として手厳しい批判を浴び、なかば棄てられた思想となっている。また、彼らに反発して戦後民主主義の克服を訴える人も、戦後の中心的な政治思想である「自由・民主主義」を批判することには熱心であるが、では自由・民主主義の席巻により喪失の対象となった戦前の政治思想とは一体何であったのかといったといったことをあまり問題にしていない。どちらも、戦前か戦後に対して偏見を抱えて目が曇っているように思われる。

山路愛山は、公と個人の間にバランスを持たせようとした稀有な思想家であった。個人が時の政府権力に対して無抵抗にいることも嫌えば、いたずらに政府へ逆らうことだけをよしとする社会主義者の言説にも抵抗した。政府を批判もし、個人主義も批判した。だからこそ、〈国家主義〉にして〈社会主義〉である。ユニークという他なかろう。

目次 序章 忘れられた歴史家山路愛山 

「日本人とは何ぞや?」一貫して問い続けた史論家山路愛山復権の試み 

〈史論家〉こそ真正の歴史家 

明治第二世代の思想家たち 

〈凡人の極楽の時代〉と思想家たちの危機意識 

第一章「呪われたる敗者」としての山路愛山 

山路愛山の活動時期 

受けつがれた武士道精神 

静岡人の誇り。愛鷹山から愛山と号す 

〈田舎の碁打ち〉の精神とは何か 

懸賞金を狙って史論家を志す 

堕落した江戸侍への嘆き 

堕落から破滅へ。静岡事件の悲劇 

精神的革命は多くは時代の陰影より出づ 

矛盾と葛藤に人間の真実がある 

明治第二世代徳富蘇峰による〈天保の老人〉への批判 

愛山の近代文明への批判 

法治主義への反発 

山路愛山VS徳富蘇峰 

二章 平民主義と史論 

「平民」としての福沢諭吉に敬意 

勝海舟論で意気投合した福沢と愛山

「文体を破壊せよ」 

小英雄と田舎青年 

久米邦武の英雄論と愛山 

実証主義と対決する史論家 

平民主義史学と「貴族」的史学の対立 

三章 〈徳川近代〉の子山路愛山 

老化してきた明治日本 

元祖〈田舎の碁打〉荻生徂徠という理想的人格 

「学問は歴史に極まり候事に候」の真意 

強烈な個人主義者新井白石 

国家主義の祖型としての白石と徂徠 

グローバルな「徳川近代」とエスノセントリズム批判 

大都会の発達と最暗黒の江戸 

徳川時代の自治とその限界とは 

徳川幕藩体制は純然たる封建主義ではない 

武家時代はなぜ衰亡したのか 

「歴史」の創作者としての史論家 

四章 日本史の本質とは何か 

皇室の尊厳は〈万世一系の血統〉にあるのではない 

山路愛山筆禍事件へと発展 

応仁の乱は「古今の一大界線」の時期なり 

日本の歴史に人権発達あり 

日本史を動かしてきた原理原則 

日本の歴史は三元論 

日本とシナの違いとは何か 

徳川時代と日本的〈公〉の成立 

五章 国家社会主義の誕生 

西洋文明の行き詰まり 

〈東洋的社会主義者〉たち 

平和主義と道徳観 

日露戦争終結後の新たなる日本の自画像 ‐政体と国体‐ 

日本的権利観念の歴史 

朱子学的家族国家論と衝突 

政商が政治的自由を圧迫する 

金持ちへ与える新道徳  ―世間の回復― 

日本史は三元論  ―国家と平民を媒介する自生的共同体― 

終章 〈英雄〉論に回帰した山路愛山 

「矛盾は人間の天性である」 

人類社会の進化について 

人間は幸福よりも偉大なることを求める生き物である 

人間は暴力を好む 

おわりに 日本人の〈被害者マインド〉の超克

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