疑心暗鬼食事会

 人前で話すのが苦手な人間は逃げるか挑むかの選択を強いられる。
 神経質な人間の緊張癖とでも言うべきか、人前で話すときの無意識的な反応というのは困ったもので、ヤギが話してるのかと思うほど声が震えたり、話すことに集中しすぎて呼吸を忘れ意識が飛びそうになったり、そういうのが意識せずして起こるので話せば話すほど話すのが嫌いになるという悪循環が起こる。

 随分詳しいな、そう思った方はお察しの通り、私の苦い思い出から引用しただけである。しかしまあ、小動物が毒を持ったりトゲを生やしたりして身を守るように、話すのが苦手な人間も苦手なりに対策はしている。
 私の場合、
「目の前に居る人間みんな軽トラで轢けば勝てる」
そう思うことで緊張を和らげている。効果はそこそこだ。

 あくまで私の場合は、緊張も恐怖も「負けたらひどい目に遭う」という想像から生まれるものであって、勝てるなら問題ないのである。どんな批判や反論が飛んできても80㎞/hの軽トラをぶつけたら勝ち、そう思えばこそ入社式の挨拶ですら草花と語らうに等しい。
 この人格破綻者の脳内では軽トラが常に威圧的エンジン音を響かせているのだ。

 

 
 先日、滅多に連絡を取らない同級生から連絡があった。曰く職場の上司が会って話してみたいという。その理由は出身校が同じだったから。怪しい。
 私の頭の中には炭鉱のカナリアにも似た生き物、勧誘マルチのチンパンジーが住んでいるのだが、連絡を受けた瞬間にチンパンジーたちは木の枝を大きく揺らすなどして激しく威嚇を始めた。
 宗教勧誘の匂いを嗅ぎ取ったのである。
 何を隠そう、私は一度宗教勧誘に引っかかって、何かこう、宗教行事専用のアパート? みたいな異質な空間に連れ込まれたことがあるのだ。ゆえに多少だが宗教勧誘の心得がある。

 まず飯に誘う。その際に車での送迎を申し出る。
 飯を食ったら勧誘スタート。クソつまらない話を30分くらい続ける。
 相手はこちらの車で来たので帰りたくても帰れない。
 専用アパートへ連れ込む。帰りたくても帰れない。
 その後相手を送り返せば住んでいる所がざっくり分かる。

 ディス イズ 宗教勧誘。
 これをやる際、大抵2人一組になって勧誘にかかる。Aさんに誘われて飯を食いに行ったら全然知らないBさんが現れて食後に宗教の話をされるのである。相手を威圧するための二人組制度なのか、やられる方からすると気分が良いものではなかった。

 ゆえに、食事に誘われて、知らない人が来るなら、そりゃもう勧誘である。
 私は同級生から送られてきた「車で送るよ!」というラインに「歩いていくから大丈夫!」と返し、約束の飯屋まで炎天下を20分間ウキウキしながら歩いていた。


 日蓮系か、キリスト系か、それとも情報商材か。頭の中のチンパンジーたちは既に軽トラックへ乗り込んでアクセルを吹かしている。やる気十分といったところだ。
 実家を出て二年以上が経ち、すっかり世界の悪意に身を晒す機会が減った。地獄のような労働、宗教家の人格否定、ブラック企業の搾取、足りない、全く以て足りない。生活が穏やかになったからと言って私を散々傷つけてきた世界を許せるわけがない。この世界もまた、私のような人間を許してはならない。

 結局、あれほど忌み嫌ったものを今更欲している。悪意と殴り合って鍛え上げた精神力を全力で振り下ろす対象が欲しい。 
 詐欺師も狂信者も、みんな私と同じ穴のムジナだ。だからこそ同じ苦しみを知ることが出来る。嬉々として頭をカチ割ってやるから、飛び散った魂のどす黒さを直視して狂って欲しい。目を背けていた心の恥部、それを目の当たりにした際の血が滲むような自己嫌悪。それを共に味わってこそ私たちは通じ合うことが出来る。

 彼らの悪意を、大義無き信仰を引きずり出して目の前に晒し、
「お前が信じているものは、つまるところこういうものだ」
そう突きつけてやりたい。
 悪意に満ち、悪意に飢えたチンパンジーたちは暴力的に拳を振り上げ、大盛り山菜ピラフを頼んだ。


 3時間後、途方に暮れ、これを書いている。
 何もなかったのだ。

 宗教勧誘も、マルチも、壺も絵画も違法バイトも。
 何も、なかった。

 ただ大盛り山菜ピラフを食べ、食後にコーヒーを飲んで、解散。
 呆気にとられている。

 楽しい食事会だった。こんな形で知り合いが増えるなんて思っていなくて少し驚いているが、気さくで話しやすくて良い人だな、という印象を抱いた。
 こうやって知らなかった人との関わりが生まれ、食事まで奢ってもらって、久々に世界の善意に触れた頭の中のチンパンジーたちは歯茎を剥き出して威嚇を続けている。奢ってもらったくせにまだ疑っているのだ。これはもう、こういう性格なので上手いこと隠して生きていくしかないのだと思う。


 昔はみんな気さくに初対面の人と食事に行っていたのだろうか。
 宗教勧誘やマルチ勧誘が広まって、そういうのが胡散臭くなったのかもしれない。そういうのが無い平和な世界ではこういう食事会も普通にあるのだろうか。
 
 身の回りがすっかり平和になってしまった。ラスボスを倒した後のゲームみたいに平和だ。ゲームをクリアしたら次のゲームへ行けばいい。だが終わったゲームの主人公たちはエンディングを迎えた後の世界でちゃんと働いているんだろうか。そんなすぐに切り替えられるんだろうか。

 世界平和なんて成し遂げたらその後の人生でそれを上回る出来事なんて滅多にないだろう。ことあるごとに過去の栄光を思い出して物足りなさを感じているに違いない。不幸で絶望的な日々が楽しいのではなく、幸福で平穏な日々が味気ないのだ。
 世界平和など負債を払い終えるようなものだ。草を刈り、耕した土地で何を育てるかが重要なのに。

 私は荒地を拓くことだけ考えて生きてきて、いざ身の回りのゴタゴタが消えたら何ひとつ育てる力を持っていなかった。挙句鎌を携えて雑草が生えるのを待っている始末だ。
 途方に暮れている。この先どう生きればいいのだろう。この虚無感が、幸福よりよほど心地よい。

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