「吉田 豊川橋」−櫓からスルスル降りそう、、−『東海道五十三次』
ズボンの腰紐が片方だけに偏って長く出てしまうことってありますよね。
そんなことが私にも起こり、よくある解決策としてボールペンに引っ掛けて直そうと思いましたが、なぜかボールペンが紐の通るべきところから外れてなかなか出てこなくなりました。
どうにかこうにか30分、たかが腰紐のために試行錯誤を重ねてやっとの思いで紐を通すことができましたが、私はいつもこのように解決しようと試みた時、なんで物の構造を理解してから手をつけなかったんだろうと反省します。
今回もこうすりゃ治るだろと解決策を一通りしか想像せずに、これでイケると甘んじていた結果です。
「こうすりゃ治る。だろうけど、今回はこうした方がいいのか、それとも例外なのかな」と再考することがたかが腰紐に対しても必要なのだなと数日経った今でも実感しています。
もう絶対に腰紐が左右どっちかだけ長く出てしまうようなことはしない!と誓った今日も広重。今回は『東海道五十三次』の「吉田 豊川橋」です。
◼️ファーストインプレッション
これは!こればかりは!北斎の『富嶽三十六景』の「東都浅艸本願寺」(1830-1832)を頭に入れて描いていますね!
画面右のお城の修復の場面を描いていますが、そこで人間がまるで動いているような印象を与えます。
あまりにリアルに描きすぎないことでジオラマを見ているようでもあり、ちまちま動いていそう。
このお城、頂点に君臨する鯱鉾みたいたモチーフが特徴的ですね。
副題の豊川橋というのが城の正面の大きな橋なのでしょう。
隅田川に架かる幾つかの大きな橋がありますが、それよりもかなり大きそう。
向こう岸の家の並びである宿場につながっているのでしょう。
橋の横長に広い感じと、大きな川の水面、城の人間と比較した時の大きさが、画面を実際よりもずいぶん広く感じさせていると思います。
今回はこの豊川橋とお城について見ていきたいと思います。
◼️豊川橋
吉田がそもそも愛知県豊橋市に該当するので豊川橋という名称も少し間違えやすかったです。
赤ピンの吉田城鉄櫓とあるところがまさに今回の絵で手前に描かれているお城です。
名称の下に「1500年台の未完の城跡」と書かれているのが気になりますね。
それは後ほど。
今回の副題にある豊川橋という橋は画面左に赤線で示した大きな橋のこと。
こう見ると、距離がかなりあります。
当時も同じような洲があったかわかりませんが、絵からしてちょっと遠すぎるし色々省かれていないかなと思いますよね。
参考書を参照すると、この絵に描かれる奥の橋は「吉田橋」という橋らしい。
なので副題の豊川橋は関係ないということになります、、。
こちらの地図が正しいかもしれません。
真ん中に赤ピンで示されているのが吉田城鉄櫓です。
そこから左の吉田大橋と描かれた橋を眺める構図ということです。
そしたら距離的にも理にかなっている。
そして橋の上には大名行列がいるらしい。
確かによくよく目を凝らして見ると米粒レベルの人間が列を組んでいます。
それを無礼と指摘されないくらいの距離から見下ろしている人がいて、ちょっと清々しそう。笑
大名行列をこんなに上から、しかも手をかざして眺めるなんてこんな距離じゃなきゃできないですよね笑。
◼️吉田城
豊橋市のページにこんな記事が。
確かに地図に1500年代の未完の城跡とありましたので、1500年代が何かの契機だったことは勘付きますね。
その1500年代には今橋城があったということで吉田城の歴史をしっかり見ていきましょう。
ということで1500年代には宝永の大地震により崩壊し、その後も再建もされなかったことから「未完」と言われたのですね。
私はいまいち城の歴史などについて詳しくないのであまり多くを言及できませんが、かなり東海道に近く、宿場町にも近接したお城だったことがわかります。
この櫓は現在も残っているのでしょうか。
今でも鯱鉾のような飾りもあるようですね。
平城ということでそこまで大きくないのかな。
あまり大きくないお城に組まれた櫓に登って遠くの大名行列を眺めている人も、橋からの距離で見ると高そうでが、スルスルと降りると意外と低いのかもしれませんね。
彼が行列を眺め終わって、行列が近くを通りそうになったら猿のようにするする降りて先ほどの態度と反対にしっかりと頭を下げるのかな。
今日はここまで!
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