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『花見』−芸妓のお出かけwith紙風船−『明治風俗十二ヶ月』
今日は11月に誕生日と、お世話になっている人にキリがいい日に渡したいものを探すために午前中に新宿を闊歩していたので歩数が15000歩超えていました。
それもまた授業の前だったし、バイトの前だったのでたいそう疲れました、、。笑
でもこの時期の百貨店とかその食料品店の雰囲気がすごく好き。
みんな欲しいものを、ものを見ながら決めている感じがふわふわしていてその場の幸福度が高まっている感じが好きです。
そんな歩いて、ちょっと幸せになった日の夜も鏑木清方。
今日は「明治風俗十二ヶ月」の4月です。
これは昨日三月をやっっている時に目に入って目に入ってしょうがなかった華やかさを持つものでした。
題名は「花見」。(著作権があれで絵はなし。)
桜の花が咲き誇っていますが何か凧か風船みたいなものが引っかかってしまっているようですね。花は形をはっきりと持たないものが大半で、桃色の霞が靄をかけているようですね。枝もはっきり輪郭がないので花のキラキラしているのに霞んでいるようでもあります。それを見る二人の女性。赤い着物がインパクトを放っています。草履の鼻緒までも赤い。これもまたおしゃれをして出かける一大イベントなのでしょう。奥の女性がアイマスク的な何かを目に覆っているのが気になります。どんな役目を果たしているのでしょうか。
清方の解説にはこうあります。
「花の名所といへば先づ第一に向島である 長堤は「花」に埋もれ人の山 成島柳北等か植えたといふ染井吉野の最も盛りを見せたのも 其の頃である 目かつら 紙風船共に花時の一興であつた 清方記」
隅田川の長堤に半玉二人を描いています。
隅田川は江戸時代から花見の名所として栄えていました。
吉宗が桜を100本植えたことでそこが名所となったようです。これどこかでやりましたね。
そこから明治時代にもその文化は健在で、花見は一緒でも上のは宴会が禁止だったのに対してこの隅田川沿いでは禁止されていなかったのでどんちゃん騒ぎがあったようです。明治15年あたりまでは、これまで今のハロウィン的な空気があった花見はコスプレや仮装した人々がいたようです。しかしそれ以降は政府によって禁止されてしまったので、それを知らない人が叱責されることもあったようです。
半玉というのは半人前の若い芸妓のことであるらしいです。
関東にいる芸者の見習いで、京都でいう舞妓のような立ち位置のようです。
奥の半玉が目につけているお面みたいなアイマスクみたいなものは「目かつら」と言ってそのお面には武士、町衆、姫君、盗人などの色々な役のものがあったようです。
また、この女性たちの着物の着方が肌脱ぎにしている襦袢姿とあります。
和服の下着。ジバン(ポルトガル語)の転訛(てんか)で,16世紀ごろ南蛮人によりもたらされた。それまでの下着は白無垢(しろむく)の対丈(ついたけ)仕立であったが,これ以後,丈の短い襦袢が流行し,のち半襦袢,長襦袢の別を生じ,江戸時代には華美なものが作られた。現在は肌襦袢としての筒袖(つつそで)襦袢のほか半襦袢,長襦袢が用いられる。
様相のことではなく、その着物のことなのですね。
襦袢という言葉がポルトガル語から由来したものであるのが驚きです。
桜の木には紙風船がひっかかってしまっているようです。とは言っても今の紙風船ではなく、パラシュートのこと。当時は「紙風船」という名前で大流行したようです。
解説の染井吉野についての記載のある記事を見つけました。
成島柳北という文字は見つけられなかったものの、奈良県の吉野からとった名前であり、江戸時代の植木職人によって植えられた情報はありました。
成島柳北についてです。
漢詩人、随筆家、新聞人。本名惟弘(これひろ)。別号何有仙史(かゆうせんし)など。父祖代々の奥儒者の子として、江戸浅草に生まれた。家督を継ぎ、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍講などを経て、幕末、騎兵頭(きへいがしら)、外国奉行(がいこくぶぎょう)、会計副総裁など歴任。慶喜(よしのぶ)退隠後、1869年(明治2)隠居して向島(むこうじま)に閑居、新政府には仕えず、自ら「無用の人」と称した。
彼が向島に移住したことでそこに染井吉野が植えられるきっかけともなったのでしょうね。
今日もよく深くしれました!
今日はここまで!