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『あぶなさう』−船酔い酒酔い、、もういい、、。–『風俗三十二相』
あーー、クリスマスイブかあ。今日は飲食のバイトが夜に入っていましたああ、、。
絶対混むなあ。今日は平日だからあまり気にせずシフト願いを提出してしまいましたが、やっぱりクリスマスは問答無用で混む気がするううう。
気が重いけれど黙々とこなして時を忘れようと思います。。。
さ、そんな気が重いバイトの前に気持ちを上げるためにも月岡芳年。
今回は『風俗三十二相』の第二十八「あぶなさう 明治年間 当時芸妓の風俗」です。
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なんでこんなにも足元がおぼつかないことが伝わる程にふらふらしているのでしょうか。
芸妓とありますのでお客と酒を飲んでいたというのが想像しやすいことではありますが、食中毒とか乗り物酔いとかあり得そうですね。
左手にノートのような紙を巻いたものが挟まっているので一応理性でものを考えることができるような印象を与えられますね。
この女性がいるのは船から桟橋に降りようとしているところだそうです。
だからこの気持ち悪そうな表情も船酔いですかね。
きっと屋根船での宴会が終わって船から降りてくるところで、めちゃくちゃ気持ち悪いのを我慢していた直後なのかもしれないですね。
宴会での飲酒と船酔いがかけ合わさって最悪な状況、お客さんにゲエしちゃうところだったのかな。
かろうじて手で捕ま得られた柱に寄りかかって裾を手で持ち上げて船から桟橋に降りることすらままならないような状況です。
芸妓がこんな大変な出張もしないといけないなんて大変な仕事ですね。
お稽古をこなして、覚えること多くて、苦手な乗り物にも乗らないといけない、、。
でもやはり芸妓というのは男性からも女性からも憧れの的として人気を馳せていたようです。
1842年、天保の改革の影響で深川岡場所は撤廃させられてしまいました。ここは政府非公認の芸者の街でしたね。
そこにいた芸者たちはいきなり追い出されても行き場がないので柳橋という場所に移り住みました。
この場所が花街になったのは、江戸時代の1824(天保13)年頃のこと。老中・水野忠邦による天保の改革で深川の岡場所(幕府非公認の私娼街)が禁止され移住してきた芸妓(げいぎ)たちによって形成されました。
深川は岡場所でしたが、同時に芸を売る芸妓たちも多くいました。深川は材木商人たちが多く集まっていたこともあり、当時の商談において芸妓はなくてはならない存在だったからです。
柳橋は台東区にある場所で、もともとあった深川からはほど遠くない場所にあるようですね。
江戸時代は遊女が江戸一の女として人気でしたが、明治時代になると吉原遊郭が衰退していくことで柳橋、新橋、赤坂が賑わうようになったようです。
江戸時代は先ほど述べた通り遊女の、とりわけ花魁が憧れの対象でしたが、明治時代に入ると一流の芸妓がその代わりとなり流行の最先端をいっていました。
ちょっと前でいう昭和アイドルのブロマイド、今でいうジャニーズの団扇?のような推しを手元に置いておく文化の前身として、絵葉書で売られているブロマイドになる美人芸妓が多かったそうです。
どんな商売でも接客は大変ですね、、。
今も昔も変わらず、お金に見合わない仕事をしなくてはならないのが世の常です。
今日はここまで!