『月岡芳年 風俗三十二相』月岡芳年の略歴おさわり程度、、。
今日は高校の友人の誕生日を祝ってきました!
六本木のインスタ女子がよくいるようなところだったので緊張していましたが意外とぬるっとバースデープレートが出てきて笑えました。笑
その後にミッドタウン行ったので今回のサントリー美術館の展示のポスターを見かけました。友人と一緒にいながらも友人と解散した後に一人で行こうかと思ったほど行きたかった、、。
近いうち一人で行こう、。
一応これで今月の誕生日のある友人の祝い会はおしまい。本人はどう思っているかわからないけれど祝っている私が楽しいものでした笑。
来月は彼氏と母親の誕生日!
お金がねええ、、!^^;
アンケートかなんかの謝礼出るやつで小遣い稼ぎしようかな笑
お金の無さに焦っているようなこんな夜も日本絵画です。
今日から新しいものをやりたいと思っていたのですが何をしようか何をしようかと本棚を見つめて考えていました。
今日は以前太田記念美術館で買った「謎解き浮世絵業書 月岡芳年 風俗三十二相」という本です。
一読しましたがきちんと読んでいないのが事実。
今日から一日一枚この本を参考に解読していきたいと思います。
昨日まで鏑木清方の美人画やったので美人画の続きとしてやってみたいと思いました!
その前に私が知っている芳年についてのことをリストアップします。
・歌川国芳に師事した。
・大首絵はじめ美人画、役者絵を描く。
・江戸最後の浮世絵師とりわけ美人画。
・血みどろ絵を描く。
、、くらいです。
私の持っている浮世絵師特集の本を参照してもぎりぎり芳年だけ載っていなかった。国芳まではありました、、!
だからWikipediaよりも信頼を置いているコトバンクに頼ります。
江戸末期から明治の浮世絵師。江戸に生まれ、本名は吉岡米次郎。別号には玉桜楼(ぎょくおうろう)、一魁斎(いっかいさい)、魁斎、咀華亭、子英、たいそ、大蘇(たいそ)などを用いた。1850年(嘉永3)12歳のとき歌川国芳(くによし)の門に入り、3年後に早くも処女作を発表。1866年(慶応2)に兄弟子の落合芳幾(よしいく)とともに描いた『英名二十八衆句』の残酷絵シリーズで一躍人気絵師となった。多様な画風をこなしたが、幕末から明治初年にかけては歴史画に傾注し、維新後は時事報道の分野に新生面をみいだし、『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの新聞挿絵に活躍した。またこのころ100枚に及ぶ『月百姿(つきひゃくし)』をはじめ『風俗三十二相』などの美人画の大作も発表している。水野年方(としかた)など多くの門人にも恵まれた。1872年(明治5)ころに精神に障害をきたし、その後、快癒(かいゆ)することなく没した。
残虐絵→歴史画→新聞挿絵→美人画というように絵の部類が変わっていきました。
そして多くの門人に恵まれながらも1891年に精神に障害をきたしたものによりそのまま没したと言います。
「月岡芳年 風俗三十二相」が刊行されたのは明治21年つまり1888年です。
それを日本橋区馬喰町2丁目14番地の網島亀吉という版元から出版されたと言います。
今日はちょっと疲れているのでここまでです。
明日は「月岡芳年 風俗三十二相」の1からみていきたいと思います!
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