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「日本橋雪晴」−雪と朝日と高札場−『名所江戸百景』

そういえば昨日、サントリー美術館で開催されている『聖徳太子展』に言ってきました!
昨年夏の上野の東京国立博物館で開催された『聖徳太子と法隆寺』の展示があまりピンと来なかったのであまり理解できないんだろうなあと期待せずにいましたが、非常によくて!!!!!

聖徳太子絵伝が何種類も展示されていたので、聖徳太子の生涯を知ることができたこと。
聖徳太子像がいくつか展示されていたのですが、それがいつの太子なのか、どんな様子なのか、なぜそれが銅像となったのかを理解することができたこと。
いかに太子は天子として生きていたかを古文書、歴史書、絵画からわかったこと。
一番気になったものが、銅像で『聖徳太子童形立像(孝養像)』という立像。

こちらの立像は”私的に!”目が離れませんでした。
よく親が「銅像を見てると慈悲深さが伝わって涙が出てくる」と言いますが、その意味がなんとなくわかった気がします。涙は出なかったけど。

この生身が生きていたんだなと思うと、当時から人々が信仰して止まない理由がわかります。

サントリー美術館の展示は1月10日までの残り5日しかありませんがぜ行ってほしい展示でした。


そんな聖徳太子への信仰が積もっている最中、今日は昨日Amazonで頼んでおいたこれを始めようと思います。

楽しみにしてたやつ!!
監修された方は小池満紀子さんという国際浮世絵学会理事を務めている方。
もう一人は池田芙美さんというサントリー美術館の学芸員をされている方です。

今日から百図見ていきますよお〜。一日一図ではなく一日何図かやってもいいですね。


今日一発目は歌川広重『名所江戸百景』の①「日本橋雪晴」です。

これまでの風景画は北斎の『富嶽三十六景』でしたので富士山をまずは見ましたが、今回は市街を見るという行為から始めます。


日本橋が絵の正面真ん中に描かれています。
人々の往来があり、朝の仕事に向かう描写があります。

画面左奥におそらく富士山と思われる山が描かれ、その山が俯瞰するように江戸市街が降って描かれています。
その右には江戸城が描かれます。雲の上から顔を出しているのでまるで浮いているようでですね。まさに天空の城。

その手前の蔵の連なりには雪が積もって、白銀の世界となります。
日本橋の左河岸には高札場があり、そこには高札が掲げられているだけでなく罪人の晒し場もありました。

江戸には、六高札場(日本橋南橋詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外、高輪大木戸)が置かれていた。また、江戸を代表する日本橋の南橋詰には、幕府が法度・掟書・犯罪者の人相書などを板面に記して往来に示す高札場を置いた。
(中略)
高札の掲示板は7枚で、第一には、家業に励み、博打喧嘩をしないこと。第二には、毒薬、贋金銀貨の禁止。第三には、市の内外で発砲することを禁じた。第四には、キリシタンの禁令である。第五・第六には、駄賃や人足の規定である。第七には、防火の諸規定である。
(中略)
日本橋南詰の高札場向いの日本橋交番前の広場に晒場があった。早朝に伝馬町牢屋敷を出て、不義密通の男女が晒場に一定期間民衆の面前に晒される。本来の刑罰に付加される恥辱刑で、心中未遂、女犯僧、主人を殺傷した者などが見せしめとなる。江戸の刑法は、一罰百戒で晒場、刑場、獄門場、市中引廻など見せしめの為、人通りの多い場所に設置された。

かなり多くの場所を抜粋させてもらいました、、。

そもそも高札というのがただ幕府からのお知らせを掲げるもの出会ったと思っていました。しかし役割としては禁止事項を綴り禁令や規定を掲げているものなのですね。

そこで高札場の正面に晒し場を設け、高札に掲げられた約束事を守れなかった人々を処刑しました。
今でいう不倫や自殺未遂なども処罰の対象となりました。
今では不倫だったら両者間でどうにか解消してという形で収まりますが、当時は大衆の面前に晒され生涯、社会的にも殺されたも同然だったようですね。


現在は日本橋には道程が掲げられています。

文字は徳川慶喜によって書かれたものでありました。


朝日に照らされて、それも雪の白さに反射してより真っ白になって眩しくなっているのでしょう。
光の反射の眩しさと共に、人々の活気が湧いてくるようでとても縁起の良さそうな絵でした。

今日はここまで!
#歌川広重 #名所江戸百景 #日本橋雪晴 #高札場

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