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「京橋竹がし」−そういえば橋だった、、!−『名所江戸百景』
期末課題がてんこ盛り。
頭がわいわいしてます。
糖分が足りてないかも。
食べちゃえ食べちゃえ。
めちゃくちゃ語呂良さそうだけど、読んでみると意外とそうでもない。
でもこの課題提出終われば春休み!!
今日はセンター試験だったようで、自分が受験生だった時を思い出したり。
でも当時の自分と今の自分ではかなり変化があるから「懐かしい〜」で終わってしまいます。別人の思い出を回顧しているような感覚。
当時の不細工おデブプライド高い口達者な私とはかなり変わることができ他ので受験が成功しようと失敗しようとマルです。
思い出を巡って期末課題から逃避しているそんな今日も広重。
今回は『名所江戸百景』の「京橋竹がし」です。
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京橋の岸でありますが、竹が林立しています。
また透視図法が使われているのかな?
橋の上で列をなしている黄色の袋か何かを持った集団が気になります。
太陽かと思ったけれど頭上で白く光っているのが月。輪郭を青く縁取ることで月であることがよくわかる表現になっています。
そっか、京橋って今でも地名に残っているから何の違和感もなく言っていたけれど、当時は橋として第一に機能していたんだと再認識しました。
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今はこの区画一帯が京橋でありますが、当時は絵の正面の橋のことを指していたのですね。
その奥の橋が三年橋。そのまた奥が白魚橋という橋。
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三年橋については検索しても出てきませんでしたが、白魚橋は赤ピンの料金所にのみ名前が残っていました。
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/images/upload/kyodo_168.pdf
こちらの京橋図書館発行の記事に京橋川に架かる橋についての記載がありました。
橋の西側から比丘尼橋、紺屋橋、京橋、炭谷橋(三年橋)、白魚橋という順で架かっています。
京橋は日本橋と同時期に架けられたもので、明治に石橋に架け替えられています。
炭谷橋は別称三年橋や呉竹橋と言われ、戦後に撤去されたようです。
白魚橋はのちに牛之草橋とも言われ、他にも牛糞橋や戸越橋とも言われていた記録が残っているそうです。幹線道路が近くにできたために関東大震災後に撤去されたそう。
この川の沿いには竹問屋が多かったために竹材がよく京橋川を運ばれていったらしいです。
竹は千葉から高瀬舟に乗せられて、また群馬から筏に組んで送られてきた。年末には大根河岸から門松に使う松が荷揚げされ、竹河岸の笹竹と一緒に売られ、人々は正月の用意をしたという。
正月のためであるのが一番で、季節ものであったのでしょうか。絵の左に立てかけられている竹は正月が明けるとひらけた景色になってしまうのでしょう。
私が気になっていた橋の右を歩く紫の着物を着た男性たちの列は大山詣りの山帰りの列であるそう。
相模の雨降(あふり)山大山(おおやま)石尊大権現(阿夫利神社)へ参詣(さんけい)した江戸の勇みの男の帰途を描いたもので,木太刀や梵天(ぼんてん),わら細工のらっぱ等の小道具を使う。
歌舞伎の演目に山帰りというものがあるそうで、大山詣りと調べないと出て来なそう。
めちゃくちゃ好みなデザインのサイトで上がっている私。
悠久の歴史のなか、変わることのない端麗な姿で、人々の心を魅了し、癒してきた、ふるさと伊勢原のシンボルである大山。 平地から見ても存在感のある大山は、古代から信仰の対象となり、「大山詣り」として、江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。
(中略)
「大山詣り」の参拝者の多くは「講」と呼ばれる町内会や同業者組合による団体で、皆で費用を積み立て、お参りツアーとして「大山詣り」に出かけていたのです。その風習は現代まで引き継がれており、春先から夏にかけて多くの講が参拝に訪れ、行衣という白装束を纏った方々が参道を登る姿は江戸の風景を想起させます。
講をお迎えする宿坊の主人は、「先導師」と呼ばれ、先祖から代々引き継がれています。今では個室を備えた宿坊も増えており、一般のお客様も安心して泊まることができます。
確か『日本霊異記』でも嫁が大好きな防人の息子が同行している母と講に出かけるふりをして邪魔になってきた母を殺そうとした話がありました。それは古代の藩士なんですがね。
そんな昔からある講を、江戸時代では楽しみなイベントと化して楽しみなものになっていたのですね。
そんな行事今でもあるそうで、ルート案内などしっかりされていました。
気力ある時に参加してみたいです。
今日はここまで!
#歌川広重 #名所江戸百景 #京橋竹がし #京橋 #竹 #大山詣り #講