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掌編小説【賃金さんの休日】②了

 いくつかの駅を過ぎると、乗客がまばらになってきた。西日の当らない通路の向こう側の座席が空いたので、私はそちらの席に移った。

 隣には、ちょうど両親と同じ世代と思しき、品のいい老夫婦が座っていた。私のすぐ横には、ベリーショートのグレーヘアーのお婆さん。重ねた白い手は皴ばんではいたがシミもなく、両の指には色のついた石の指輪がバランスよく三つ光っている。膝の上に乗っているのは、誰もが知る有名なブランド物のハンドバッグ。

 その向こう側に座るお爺さんは、足の間に立てたステッキに両手を乗せてまっすぐ前を向いていた。仕立のよさそうなアイボリーのジャケット、履いている靴も清潔で、見るからに悠々自適を地でいっているのが見て取れた。  
 身なりに頓着もせずパートを掛け持ちしていた母や、損得勘定など何も考えず、子どもたちに囲まれて目尻を下げていた父とは180度違う種類の人たち。

 きつい日差しから逃れたら、いつのまにかうっすらと眠くなってきた。電車の揺れと多少の雑音は心地よいもの。少し遠くの赤ちゃんの泣き声も気にならない。空調もほどよく効いている。
 夕方の電車がゆっくりと各駅に停まりながら、乗客をひとりふたりと降ろしていく。停車駅のアナウンスが聞こえたり聞こえなかったり……。

 開いた映画のパンフレットはそのままで、睡魔に身を委ねる。そのうち身体が左右に傾く。いけないいけないと、一部覚醒した意識の底で思うのだけれど抗えない。

 横に座るお婆さんの肩にこつんと当たり、すみませんと頭を下げた。が、また抗えず寄りかかり、体を真っすぐに立て直す。が、また寄りかかり、隣に座るお婆さんに、すみませんとまた頭を下げ……、
 ゆらりゆらり……、いけないいけない……、ゆらりゆらり……。
 
 と、いきなり左の側頭部に衝撃が走った。
「すみません」私は反射的に痛む部分を押さえて、左側に顔を向けた。

 真横に座るお婆さんの、「まったくもう」というつぶやきと大きな溜息、お爺さんの「このやろう!」という怒声と私を睨みつける引きつった顔が目に入ってきた。お爺さんの右手は固く拳に握られていた。

 突然のことに何が起きたのか面食らったが、さすがの爆睡女もいっぺんに目が覚め呆けた頭がクリアになった。
 つまり私は、お婆さんの向こう側に座るお爺さんに殴られたのだ。お爺さんは愛する妻を守るために、迷惑な爆睡女に鉄槌を下したのである。
 
 私はもう一度、すみませんと頭を下げた。

 車内は私たちの他に乗客が数人、皆、今起きたことに気付かなかったのか、見て見ぬふりなのか何事もなかったかのようにそれぞれに座っている。

 私は、ふたりが下車するまで席を替えなかった。
 ちゃんとすみませんと謝ったし、いきなり殴られるという制裁も受けたのだからと、敢えてそのまま、3人仲良く(・・・)並んで座っていた。
 その間、隣の老夫婦は微動だにしなかった。腕と腕が触れ合う真横のお婆さんが、怒りに身体を強張らせているのが伝わってくる。
 
 そのままいくつ目かの駅が過ぎ、やがて、品のいい老夫婦は寄り添って電車を降りていった。
 
 ふたりの姿が見えなくなると、しかし、私の胸に猛烈な怒りが込み上げてきた。
 これって、車内暴力? 老人だからって、何をしても許されるの? そう、なにも殴らなくたっていいじゃない? 迷惑だと、言葉で伝えてくれればいいじゃない?  

 お爺さんの向こう側は数人が横に並んで座れるほど余裕があったのだから、爆睡女を避けて1人分のスペースを横にずれて座ればいいこと、なにしろ席は他にいくつも空いていた。私たちの真ん前の長椅子にも、誰も座っていなかったのだから……。

 けれどお爺さんは、迷惑を掛けられているのは自分たちだから、先に座っていた自らが席を替え移動することなど絶対にしたくなかったのだろう。

 そのうち、何度も謝った自分自身にも腹が立ってきた。
 私、何もあんなに何度もぺこぺこと卑屈に謝らなくてもよかったのに! ことなかれで、とりあえず謝っておけばいいという習性が、居眠りしているときさえ意識の奥底にこびりついているのが情けなかった。

 確かに、電車内の居眠りは迷惑行為だ。けれど、いきなり殴るなどありえない。こういう場合、たいていは黙ってそのままじっとしているか、肘でそれとなく押し返すか、もしもし頭が当たってますよと注意をするか、席を立つかのどれかだ。
 居眠りし寄りかかった私に非はあるが、それが気に食わないと、いきなり殴ったあなたにも正義はない。老人だからって許されないはず。
 
 最寄りの駅まであと二つ。暮れなずんだ風景が車窓に流れていくのをぼんやりとみていた。

 ーお身体の不自由な方、小さなお子様連れの方、妊娠されている方、お年寄りの方に席をお譲りくださいー

 こんなにいっぱい席が空いているというのに、車内アナウンスがのんびりと流れてきた。


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