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小説 【月の雫さん】⑤了
――駅前通りの猫カフェ「みゃおはうす」が経営破たんし、猫たちが置き去りにされているとの情報が入りました。明後日の朝九時から保護活動を開始します。皆さん、現地に集合願います――
みゃおはうす?
地域猫メンバーのメールリンクの緊急連絡に私は驚いた。「みゃおはうす」って、マリンを貰うまでの間、数回通っていたあの猫カフェのことだ。
レオンは大丈夫だろうか?
保護の当日、私たちは、外観が寂れ看板の文字が雨水の筋で汚れた「みゃおはうす」の前に立っていた。
いつか感じた漠然とした不安が的中したことに、私は腹が立って仕方なかった。ブームだからと猫を商売にした挙句に、経営が行き詰ったから捨てるなんて絶対に許すことはできない。
地域猫のメンバーは、待ち合わせていた店舗の大家さんと一緒に、中にいる猫の脱走に細心の注意を払いながら薄暗い店内に入っていった。
中にはアンモニア臭が立ち込めている。いきなり灯りをつけると猫たちが驚くので、私たちはそのまま静かに入っていった。
猫たちは怯えて物陰に隠れたり、威嚇したり、ただじっと蹲っていたりと様々な反応を見せた。十数匹はいるようだ。
私は、レオンがどこかに竦んでいるのではないかと目を凝らした。
中は荒んでいた。壁紙は爪でとがれて無残に敗れている。部屋の片隅に猫砂が大量にまかれている。餌は段ボール箱に山盛り入れられ、脇に水の張ったバケツが、いくつか置かれていた。
かつてのおしゃれで明るいカフェの姿は、見る影もなかった。
「隣の自転車屋さんから、2週間くらい前に連絡があってね。猫カフェのオーナーが夜逃げしたらしいって。で、来てみると猫だけ置き去りさ。糞尿も垂れ流しだし、餌はないしで、ひどい状態でね。仕方ないから餌と猫砂だけは持って来たけど。ったく、勘弁してほしいよ。これじゃ、次の借り手がつかないよ」
2週間前まではオーナーがいたとのこと、その後は大家さんが見るに見かねて最低限の面倒を見ていたとのこと、大勢の人間に怯えてはいるが、猫たちの状態もさほど悪くはないようだ。
最悪の状況は免れていて、メンバー一同、まずは胸を撫で下ろした。
「とにかく何とかしてくださいよ。このままじゃ猫らだって可哀そうだ」
「ここの仔たちは人馴れもしてますし、既に去勢や避妊手術をしているようですから、里親探しも比較的スムーズにいくかと思います。一応、カフェの馴染みのお客さんなどのつても頼ってみましょう」
茜さんがそう告げると、大家さんはようやく安心したようだった。
私は猫を驚かさないよう順に保護しながら、レオンの姿を探した。もしレオンがいたら、引き取ろうと思いながら。
しかし見る限りレオンはここにいないようだ。何しろ、もうあれから10年は経っている。誰かに貰われていったのだろうか。それとももう死んでしまったのだろうか。それならどうか、安らかに天寿を全うしてくれていたらと、私は胸の内で手を合わせるのだった。
「ねえ、あなた。廊下の猫トイレ、掃除は終わったの?」
「いや、まだやってない」
「あなたの担当なんだから、早くお願いね。綺麗にしてあげないと可哀そうだから。私はご飯あげないといけないから、お願いね」
夫は返事もせずリビングから出ていき、言われたとおり猫トイレの掃除をしている。
「それが終わったら、部屋に掃除機かけてね。抜け毛が多い時期だから」
リビングに戻った夫に、すぐさま声を掛ける。
「今朝も掃除しただろう。キリがない、もういいじゃないか」
「だって! 猫は綺麗好きなのよ、あなたも知ってるでしょ!」
「あのね、麻紀。俺だって猫は好きだよ。どの仔もみんな、俺らの子どもと思ってる。捨て猫だって、もちろん可哀そうさ。だけど、もうこれ以上猫を増やしちゃだめだ。俺たちの暮らしが猫に侵されて、身動きとれなくなってる。これじゃ本末転倒だよ。麻紀だってわかっているだろう?」
そう言って、夫は憐れむようなまなざしを私にあてた。何も言い返せない。そうねと私は小さく呟いて、猫らが爪をといで傷んだ壁を見つめた。
――隣町の民家で、多頭飼いの飼育崩壊の緊急レスキューの情報が入りました。今週末、午前九時に駅前に集合願います――
またしても茜さんから、地域猫のメンバー全員に緊急メールが入ってきた。
悪臭や啼き声など、近隣住民から苦情を受けた行政からも協力要請があったらしく、ネコの飼育崩壊の現場へ出向いて活動をするのだという。
私が、茜さんの地域猫グループの保護活動を手伝うようになってから初めてのケースだ。
私は正直なところ行きたくなかった。捨てられた子猫の保護や、公園での猫の世話とは次元が違う。
「茜さん。私不安なんです、怖いんです。酷い状況で猫がいっぱいいるんですよね。現場、ゴミ屋敷みたいになってるんですよね」
「麻紀さんの気持ちはよくわかるわ。多頭飼育崩壊の猫だと、病気を持っていたり警戒心が強かったりで、譲渡会に出せない場合も多いし、かといって、私たちボランティアが引き取るにも限界があるから、あなたの心配は当然よ。全部の猫を保護するなんてできないもの。そんなことしたら、ボランティアの私たちが潰れちゃうものね」
「保護した猫たち、どうするんですか?」
「愛護団体にお願いして去勢手術もやってもらって、そうそう、うちの病院も篤志家の寄付金に頼りながらだけど、ほぼボランティアで手術やってるのよ。だから全然儲からない。あはは。ま、夫婦とも好きでしてるんだから仕方ないけどね。で、そのあと里親探しをするの。大事なのは、まずは衛生状態を改善して、これ以上増やさないよう飼い主を指導することなの」
「私、怖いんです」
「麻紀さん、無理しなくていいわ。とりあえず、あなたが出来ることでいいのよ。猫を救うのも目的だけど、とにかく人が住めるような状況に戻すのが大切なんじゃないかな。こういう場合、猫も可哀そうだけど、飼い主が悲鳴あげてるのよ」
「悲鳴?」
「そう、結局は猫じゃなくて人の問題。アニマルホーダ―の飼い主から猫を全部とり上げても、また同じこと繰り返しちゃう人もいるからね。状況によっては、たとえば障害があって貰い手がいない仔は、飼い主の責任のもと引き続き飼育してもらう。結局こうなってしまう人は、高齢だったりひとり暮らしだったり心を病んでいたり、生活が苦しかったり、そのうえ地域で孤立している人がほとんどなの。どの人もみな、拠り所がない迷い猫と同じね」
目的の民家は、高層団地を真ん中に周囲をぐるりと囲んだ住宅地の一角にあった。ほぼ同じ造りの三棟の建売住宅の真ん中の家だ。築50年以上は経っているだろうか、両隣は古いながらもそれなりの手入れがされている。
が、「藤原」と表札のかかったこの家は、世間はもちろんのこと、当事者の住人からも、ただただ打ち捨て置かれているのが一目で見て取れる荒廃ぶりだ。
家全体を、何者の干渉をも拒むという意思そのもののように、糞尿の強烈な臭いが見えないバリケードとなって覆っている。
外壁のモルタルは所々矧がれ、壊れた雨どいからは錆が筋状に伝ってこびりついている。玄関先に置かれたプラスチックの劣化したプランターは、何かの植物が干からびたままいくつも積み重なって野ざらしになっている。
ブロック壁の内側には、壊れた傘やチェーンの外れた自転車や埃まみれのサンダルや捲れたベニヤのカラーボックスや脚の折れたイスや食器や鍋などの廃品が雑多に転がっていた。窓ガラスから透けて見えるのは、千切れたカーテンに歪んで垂れ下がるブラインドの影……。
まるで、化膿した傷口が赤黒く盛り上がり、内側から膿が今にも皮膚を突き破って溢れ出そうになっているような様相に私は怖じた。
市の男性職員が玄関のベルを押した。
「藤原さぁん、いらっしゃいますかぁ」
しばらく待っても反応がないので、彼はもう一度ベルを鳴らした。
辛抱強く待っていると、やがて女性の細い声で「はい」と返事があり、ようやく赤茶けた木製のドアが開けられた。
と同時に、内側から強烈な悪臭と共に毛束や埃が転がり出てきた。
それらと一緒に、太った女性が俯き加減に現れた。
「あ、月の雫さん!」
私は叫んだ。
添田さん、月の雫さん! あなただったの!
いつだったかブログで見た、月の雫さんの部屋の光景が頭をよぎった。部屋を占領した夥しい数の猫猫猫猫猫……。
苦痛に歪み軋む飼育崩壊の家の住人は、月の雫さん、あなただったのね。
「あらぁ? マリンママさぁん?」
添田さんは、市の職員やボランティア仲間の一番後ろに、隠れるように立っていた私に気付くと、親しげな笑みを満面に浮かべてふらふらとこちらへ歩み寄ってきた。
私は身動きできなかった、ただその場に突っ立っていた。
「本当だぁ、マリンママさんだぁ。私の猫ちゃんたちに、会いに来てくれたの? また里親になってくれるのぉ。良かったわぁ。ほら、あなたの好きな鉤尻尾の仔も、いっぱいいるのよ。マリンママさぁん、あなたには本当に感謝しているのぉ。ありがとう。本当にありがとう」
月の雫さんは甘ったるい口調でそう言うと、丸い顔を綻ばせて私に抱きついてきた。私は、恐る恐る月の雫さんのぽってりとした身体に手を回した。
彼女は初めて会った時より、かなり肥満していた。母親に甘える幼子のように、私に身体をもたげてきた月の雫さんの背中は、脂っぽい汗で湿っていた。私の脳裏に、前に彼女のブログで見た、何枚もの殺伐とした食卓の風景が思い起こされる。
月の雫さんの髪や首筋から、猫らの暴力的な臭いが立ち上っている。
その臭いに私の脳は痺れた。彼女の全身に、無数の命の粘り気のようなものがこびり付いていて、それらが月の雫さんをがんじがらめにしているのかと思い、私はただ、彼女のこんもりと脂肪の付いた背中をさすることしかできないのだった。
了
★この作品は、すべてフィクションです。実在の人物や団体などとは、
一切関係ありません。
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