小説 【月の雫さん】③
マリンは四歳、お友だち猫のごまちゃんは一歳となって、2匹の猫はいかにも猫らしく、付かず離れずの微妙な距離を持って、私たちの暮らしの大切な一部となっていた。
私は、そんな猫らとの暮らしぶりを、久しぶりに添田さんに近況報告をしようと思い立った。
彼女のメールアドレスに、マリンとごまちゃんのツーショット写真を添付して送信した。と、メールが瞬時に戻ってきてしまった。添田さん、アドレスを変更したのだろうか。
そうだ。彼女は確かブログを開設していたはず。そこにコメントを入れよう。そう考え、私は彼女のハンドルネームの記憶を辿った。
月の光? 月の影? そう、確か「月の雫」さん。
私は、検索エンジンに表示された「月の雫」と表示された部分をクリックした。
あれ? テンプレートが違う。
しばらくして立ちあがったブログは、以前訪れた時と背景のデザインが違っていた。写真に映る部屋も、前に見た洋室ではなく畳敷きの部屋だ。畳の上に、パラパラと散らばった猫砂らしきものが見える。採光の具合なのか、どことなく薄暗い。
ブログにはやはり彼女らしく飼い猫の写真と、その日に彼女が食した食べ物の写真がアップされている。
他にギャラリーとして、彼女が描いたというイラストの写真も貼ってあった。その上、イラストにはいくらかの価格が表示されていた。
しかし、売り値の付いたイラストはお世辞にも上手いとは言えない。違和感を覚えた私は、彼女の過去の日記、包帯姿のマリンの写真を送った頃まで遡って読んでみることにした。
すると、なんとしたことか、彼女はあの優しそうな旦那さんと離婚していたのだった。現在は、両親亡きあとの実家へ戻ってひとり暮らしをしているとのこと。甲と乙、元親と里親として譲渡契約を交わしたあの日から、一年半後のことのようだ。
なぜ? 私はすぐには信じられなかった。ふたり揃って我が家にマリンを連れてきてくれ、猫の話に興じていた添田夫妻に、離婚という現実がどうにも結び付かなかった。もちろん、夫婦のことは当事者でしかわからないこと。私が、あの夫婦に相まみえたのはたった数時間のことだったが、似た者同士の仲睦まじい姿しか思い起こせない。
月の雫さんのブログを読み進めるうちに、離婚したあとの彼女の変遷がおぼろげに見えてくる。
離婚直後、月の雫さんは、飼い猫7匹のうち四匹を手放して引っ越しをしていた。手放した猫たちは別れた夫が引き取ったわけでなく、里親を探して預けたのだという。4匹もの成猫の里親探しは、おそらく簡単ではなかっただろう。
そう思うと同時に、赤く盛り上がった湿疹を、始終ポリポリと掻いていた旦那さんの姿が浮かんだ。今頃彼は、猫アレルギーから解放され症状が軽快しているのだろうか。
現在のブログには、猫とのエピソードの他に、絵を描いている時が一番楽しいとか、ひとりで前向きに生きるという言葉がしきりに書かれている。
が、そうかと思うと、朝起きられない、食欲がない、頭痛がひどい、吐き気がする。夜中にお腹がすいて、昼間に食べたマーボー飯が、また食べたくなってコンビニに行って買ってきて食べてしまい、そのことで自己嫌悪になって眠れない。アルバイトの面接の当日寝坊をしてドタキャンしたなど、ネガティブな書き込みも多くされている。
しかもなぜか、今日は調子が悪いと呟いている時ほど、日に何度も更新しているのだ。月の雫さんは、気分の良い日と悪い日を行きつ戻りつしているようだった。
毎日のようにアップされる、彼女の朝昼晩の食卓風景の写真を見ていたら、私はひどく哀しくなった。
月の雫さんの食卓は、ネットにアップするというのに何も取り繕っていなかった。花を飾るとかランチョンマットも敷かれていない。それどころか、食べ物はいつも同じ器に盛られている。その上、お皿も丼もマグカップも何かの景品のような代物だ。箸はどの写真を見ても、ただ放り出されたように無造作に転がっている。
尚も写真をよくよく見るとテーブルは薄汚れていて、ある写真などは、こぼれた何かの液体のような物まで写っている。
コンビニで買ったと思しき紙袋に入ったままのコロッケに、冷凍保存してあったのを電子レンジでチンしてラップから解いたままの形で盛られた四角いご飯の塊とふりかけだったり、一度に茹でた五百グラムもの大量のスパゲティを、昼は生卵としょう油で、夜はツナとマヨネーズで和えたものだったり、今日はバランスよくとコメントの入った写真には、皿の上にウィンナー三本とミニトマト三個にキャベツのぶつ切りが転がっているだけだったり……。
いわゆるリア充とは間逆の生活が、生々しく綴られているのだった。
私は少し迷ったが、マリンの近況をコメント欄に入力した。あれから数年経っている。月の雫さんから、返信があるかどうかわからなかったけれど。
――月の雫さん、ご無沙汰しています。鉤尻尾のマリンの里親「マリンママ」です。マリンが我が家に来てから三年ちょっと経ちました。とってもやんちゃで、可愛らしいですよ――
――お久しぶりです、マリンママさん。あなたには本当に感謝しています。ありがとう――
――こちらこそ。また折々にご報告させていただきますね――
月の雫さんが私に感謝しているというのは、私が鉤尻尾で虚弱体質の仔を貰い受けたことを言っているのだろう。彼女は保護活動をしながら、日々殺処分される猫たちをたくさん見てきた人だから。
ブログを読んでいると、彼女の孤独な暮らしに猫の存在がいかに大きいのかが伝わってくる。が、察するところメンタルが不安定な中、充分な飼育ができない状況もまた進みつつあるようだった。
私は、折々に報告をすると一応返事をしてみたものの、そのあと月の雫さんにコメントを送ることができずにいた。彼女とは猫を介して袖すり合った仲、それ以上でもそれ以下でもない。インターネット上で深入りすることは避けた方が賢明だし、加えて彼女の壊れかけた心に怖れのようなものを感じたからだった。
『ごめんね。ポコ、メリー、プク。あなたたちまで手放すことになっちゃって、ママを許してね』
ある日の日記に、月の雫さんが、とうとう残った3匹の猫を手放してしまったと書かれていた。『ごめんね』のタイトルの記事に、私は胸が痛んだ。
猫は彼女の子どもも同然。その子どもを断腸の思いで手放した月の雫さん、正真正銘ひとりぼっちになってしまった月の雫さん。
そのあと、月の雫さんの日記はぷつりと更新が止まってしまった。目の前のウィンドウは、『ごめんね』と言ったきりフリーズしたままで。
それでも私は月の雫さんのことが気になって、それからしばらくの間、時々に彼女のブログを覗いていたのだが、いつ訪問しても『ごめんね』のままなのだった。
そのうち、日々の暮らしの中でしだいに彼女のことを思い出すこともなくなり、ブログを訪問することもなくなっていた。
「それじゃ、潤子さんは北側の児童公園、ユカさんは東側の公民館の裏、麻紀さんは南側の噴水の周辺を回ってくださいね。私は西側の歩道橋のあたり担当しますから」
今日の活動は餌やりと掃除、他に異変がないかの見回りだ。いつものように、ファニー動物病院院長夫人の茜さんの号令で、私たちは緑地公園内を東西南北に分かれて散っていった。
来週からのゴールデンウィークを前に清掃も念入りにしなければならない。手提げ袋には糞を始末するためのスコップとビニール袋、キャットフードが入っている。
私は、ごまちゃんが縁でファニー動物病院の茜さんと親しくなっていた。そしていつの間にか、茜さんが代表になっている地域猫の活動を手伝うようになっていた。
茜さんは病院で保護した子猫の里親探しをする一方で、緑地公園の野良猫の保護活動も熱心に行っていた。私たちボランティアは交替で、近隣の住民の迷惑にならないよう、去勢の済んでいない猫は捕獲し手術を施し、地域猫として放したあとは餌やりをし、糞の始末をする活動をしているのだった。
私は噴水を囲むように設置された花壇や植え込みの茂みを、慎重に覗き込みながら猫を探した。
いたいた、白猫と三毛猫だ。
「シロ、ミィ」
大体、自身に付けられた名前を野良猫が認識しているかも怪しいのだが、一応それぞれに付けた名前で呼びかけてみる。
三毛猫のミィはさっと茂みに隠れた。白猫のシロは微動だにせず、しかし、じっとこちらを窺っている。警戒心の強さは全身の筋肉の緊張が示している。私はキャットフードを手のひらにのせ名前を呼んだ。
「シロ、ミィ。おいで、ご飯だよ」
根気強く呼びかけていると、シロがゆっくりと近づいてきた。私は手のひらのフードを花壇のブロックの上に置いて、シロおいでと言って数歩下がった。シロはフードに鼻先を付け匂いを嗅いでいる。ようやくカリカリと音を立てて食べ始めた。そのうちシロの様子に気を許したのか、ミィもそろりと茂みから姿を現した。私はミィのためにもフードを置いた。
「コムギはどこ?」
この噴水まわりにはもう一匹、コムギと名付けた猫がいる。私は、無心に餌を食べている二匹の猫の、丸くていじらしい後頭部に聞いてみた。
あはは、わかんないよね、猫だもんね。コムギのやつ、気まぐれにそこいらを散歩中か、眠りこけているのか……。私はコムギが現れるまでの間、噴水まわりのごみを拾っていた。
ふと気配を感じ目を上げると、遊歩道わきのベンチの下の陰にサビ色のコムギがいた。いったいいつから私を見ていたのか、「コムギ」と私が声を掛けると、ニャと啼いた。
コムギと初めて出合った時に恐る恐る触れた、まるで雑巾のような鼈甲猫だが、この仔が一番人懐っこくて賢い。
この三匹の猫は、殺処分の対象にならないように既に去勢手術を済ませてあり、その印に耳に三角の切れ目が入れてある。が、生粋の野良猫を家猫として飼うのは無理だ。特に先住猫がいる場合、不用意に引き取ることは避けた方がいい。
「ちょっとあんた、いい加減にしてくれや」
声を掛けられ振り向くと、そこにおじいさんが立っていた。
「そうやってあんたらが勝手に餌付けなんかするもんやから、野良猫が増えるんや。無責任なことしやがって、ほんま迷惑な話や」
「いえ、ただ餌をやっているだけじゃないんです。有志でお金を出しあって去勢手術を受けさせていますし、こうして定期的にお掃除もしています。私たち、これ以上不幸な猫を増やさないためにやっているんです」
「ふん、だからや。この公園に捨てれば何とかなる思って、捨てに来るやつが後を絶たん。そやから余計に猫が増えるんや」
「おとなしい猫や子猫の場合は、里親探しもちゃんとしています。殺処分される猫を、少しでも減らせたらと思って活動してるんです」
「そんなん、偽善や。ただの自己満足や。あんたら、猫を保護して自分で飼うんならまだいいけど、結局はその猫だって野良のまんまやんか。それ、無責任ちゅうもんやないんか。世の中、猫嫌いなもんもいっぱいおるんやで」
「だから、これ以上増やさないように去勢しています。この仔たちは一代限りの命なんです。この仔たちからは増えません」
「大体、役所にちゃんと届けないかん犬と違うて、猫なんか所詮貧乏人のペットやないか。放ったらかしでも生きてける下等な生きもんや。そんなもん保護しても意味ないわ」
「そんな……、犬でも猫でも、命に変わりはないですよ。それに放っておいたら、益々環境が悪くなるだけです」
私がやっと一言そう言い返すと、おじいさんは、ふん偽善者めと言い捨てて立ち去っていった。私はおじいさんが見えなくなっても、その場所に突っ立っていた。
「麻紀さん。大丈夫?」
集合場所に戻らない私を心配して、茜さんたちが迎えに来てくれた。私は、今さっきおじいさんに言われたことを仲間に報告した。
「仕方ないわ。物事には、いろいろな考え方があって当たり前よ。それを承知でやっているの。一生懸命保護活動やっているのに、犬猫を無責任に捨てる人や飼う人がいっぱいいて、キリがない、本当にキリがないわよね、私も時々空しくなる。でも、麻紀さん、だからって私たち、こうしないではいられないじゃない?」
茜さんの揺るぎないまなざしに、私はただ頷く。
★この作品は、すべてフィクションです。実在の人物や団体などとは、
一切関係ありません。
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