小説 【月の雫さん】①
彼女のハンドルネームは、確か……、月の……、なんだっけ。月の光? 月の影? そう、「月の雫」さんだ。
私は検索エンジンで、「ブログ月の雫」と入力した。すると、同じハンドルネームの人が何人もいるらしく、お目当ての月の雫さんは、危うく見逃しそうになるほど後ろの方に表示されていた。
そう、この人に違いない。
月の雫さんは、私の愛猫マリンの元親だ。私は、彼女からマリンを譲り受けた里親ということになる。
老猫を看取ってから3年ほど経っていた。私は、長いペットロスからようやく立ち直りかけていた。
柔らかな猫の感触が恋しい、ただ癒されたいと、その頃、駅前にオープンしたばかりの猫カフェに出かけては気持ちを紛らわせていた。その猫カフェには、常時15匹ほどの猫がいた。私たち客がここで得られるのは、1時間1,000円、延長10分300円、ドリンクバー300円の対価分の猫とのふれあいだ。
「レオン」
私は、お気に入りのアメリカンショートヘアーの雄猫の名前を呼んだ。
当のレオンは、キャットタワーの台座で毛づくろいに余念がない。そっと近寄って小さな額を撫でると、触らないでというように私の手を煩がり小さく甘噛みをした。そして台座から飛び降りると、しなやかに身を大きく逸らせたあとプイっと行ってしまった。
「邪魔しちゃってごめんね」
丸くて愛らしいレオンの背中にそう声を掛けて、ソファに座り直し温くなった甘いココアを啜った。
そのうちレオンは何を思ったのか、いや猫だから何も思っていないに違いないが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、今度はそうするのが当然といった態度で、私の膝にするりと乗ってきた。温かで愛しい重み。レオンの首筋をゆっくりと撫でる。彼はゴロゴロと音を立てて喉を鳴らす。
私はレオンの肉球の感触を楽しみながら、ふと思う。猫らは、昼間こうして店内で過ごして、夜は、夜はどこでどうしているのだろう。猫の寿命は平均18年、なかにはもっと長生きをする個体もいるだろう。カフェにいるこの仔たちは、ここで命を全うするのだろうか。
見るところ、里親募集をしている様子はない。
ということは、オーナーが最後まで世話をするのであろうか。それはとても覚悟がいることだろうなと、他人事ながらそう思った。
と、そんなことをぼんやりと考えていると、レオンが私の膝から降りて、おやつを購入した客の方へとすっ飛んで行ってしまった。
私は苦笑した。仕方ないわ。美味しいおやつには絶対勝てないものね。
しかし、私は猫カフェで過ごすだけでは飽き足らなくなっていた。私だけの猫をこの胸に再び抱きたい。その思いが日ごとに増していく。
かといって、ペットショップで血統書付きの猫を買うという選択肢は私にはなかった。
やがて私は、インターネット上で犬猫の譲渡を仲介するサイトを、毎日のように覗くようになっていた。ホームページには、さまざまな状況のなか捨てられた犬猫の写真が並んでいる。そんな犬猫を保護した元親たちは命を繋ぐべく、ネットを通じて里親を募集しているのだ。
私は、画面の中の無数の子猫の写真を見比べた。里親募集サイトで紹介されている雑種の子猫たちは愛らしくて、どの仔も心なしか哀しいまなざしをしている。日々無限に掲載され続ける猫の写真に見入っていた。
「黒猫もいいかも。あ、こっちの茶トラも可愛らしい」
「なんだ、また見てるの。毎日そんなに募集サイト見てるんだったら、貰っちゃえばいいのに」
夫が苦笑しながら、パソコンを覗き込んできた。
「麻紀が気に入った猫なら、どの仔でもいいよ」
「そう? 本当に?」
老猫介護の大変さに、再び猫を迎えることにかすかな迷いがあったが、夫に背中を押され心が決まった。私はこれまで以上に真剣に写真を見つめた。
「決めた。この仔にする」
夫に指し示した写真には、10匹ほどの子猫が団子のように固まって写っていた。その中の、一番小さなサバ白模様の子猫に目を引かれた。白い身体にグレーの斑模様、母猫にもたれて無心に眠っていた。
早速、里親を希望する旨の連絡をサイトに送った。
すると、添田さんという、猫を保護している元親のメールアドレスを示された。つまりサイトの役目は元親と里親を仲介するのみで、後は当事者同志の通信となるのだ。
私はこちらの自己紹介と共に、元親の添田さんに初めてのメールを送信した。お互い本名を名乗り住所を交換し合い、そのあと譲渡に向けての交信が始まったのだった。
――はじめまして。私、柚原麻紀と申します。当方、四十代夫婦のふたり暮らしです。里親募集サイトに掲載されていた、サバ白模様の雌の子猫を譲り受けたくご連絡させていただきました――
――柚原様。捨猫の保護活動をしております添田といいます。この度は、多くの猫の中から、この仔を選んでいただいてありがとうございます。夏に生まれたので、仮の名を「なつ」といいます。「なつ」はとても人懐こい仔。これがご縁で「なつ」の里親になっていただけたら嬉しく思います――
――ありがとうございます。先代の猫を亡くしてペットロスの状態でしたが、ようやく、次の仔を迎えようかという気持ちになったところ「なつ」ちゃんに出会いました――
――ただひとつ、柚原様にお伝えしないといけないことがあります。「なつ」は模様も顔もとても可愛らしいのですが、尻尾が真っ直ぐではありません。いわゆる鉤尻尾といって先が変形しています。それでもよろしいでしょうか?――
鉤尻尾? 確かにホームページに掲載されている写真には、「なつ」の正面の顔と丸まって眠っている姿だけで、尻尾の形まではわからなかった。
正直なところ少し残念な気持ちも抱いたが、それを理由にやめるというのは、やはり言いだせなかった。
――それは問題ではありません。我が家の先代の猫も、ボンボンのような丸い尻尾をしておりましたし、これもご縁ですから――
――真っ直ぐな尻尾でないと、と言われる方がほとんどなので心配していました。感謝いたします――
確かに、それはそうだろう。どうせ飼うのなら、可愛らしく美しいペットが好まれるに違いない。雑種なら尚更だ。美醜も含め、少しでも劣っている仔は淘汰される運命を背負っている。
その後、添付で送られてきた写真で見ると、「なつ」の鉤尻尾は、根元から3センチほどの長さで、先端には小筆の先のような毛がちょろりと生えているだけだった。
私はそれを見た瞬間、この残念な鉤尻尾を持つサバ白の雑種の子猫がいじらしくて堪らなくなり、私が守ってあげなくては、いったいこの仔はどうなってしまうのかと思った。
名前は、せめて名前は可愛らしく、そう、夏生まれだし「マリン」にしよう。そう決めたら、鉤尻尾の子猫に早く会いたい気持ちが膨らんでいった。
メールを交換し通信をする中で、添田さんが「月の雫」というハンドルネームで、ブログを開設していることを知った。
早速そのブログを覗いてみると、そこには、少なくとも10匹以上の猫の写真が掲載されていた。記事を読むと、月の雫さんは自身でもなんと7匹もの猫を飼っていた。その上で、何匹もの子猫を保護して飼い主を探しているのだった。
私が「なつ」の母猫だと思った猫は、彼女の飼っている雄の猫だそうで、私が見初めたサバ白の子猫「なつ」は、その雄猫に懐いていつも仲良くくっついて寝ているのだという。
それにしても、月の雫さんの部屋のあちらにもこちらにも猫猫猫。ソファの上や棚の上にも猫猫猫。写真の中から、生き物の息遣いや熱が立ち上ってくるようだった。先住猫と、新たに保護したたくさんの子猫。私自身、猫好きを自負してはいるが、正直なところこの密度に少なからず驚きを覚えた。
こんなにたくさんの猫たち。世話がどんなにか大変だろう、お金もかかるだろう。何より猫の成長は早い。子猫の時期は数カ月、一年絶たずして繁殖能力も備わる。その時期が来る前に、里親に託すなり去勢手術を受けさせるなりしないといけない。それを思うと、とても生半可な気持ちで保護活動は出来ないだろう。
月の雫さんに保護されて本当に良かった。どうか、写真の中のどの仔にも等しく、やさしい里親さんが見つかりますようにと願った。
譲渡の日を十日後に控えて、私は本格的に子猫を迎える準備に入った。ケージ、猫のトイレ、砂、ベッド、爪とぎなど、ペットショップであれこれ吟味するのもまた楽しい時間だった。
ところがある時、添田さんから譲渡延期を知らせる連絡が入った。
――すみません、お願いがあります。お引き渡しの時期ですが、予定より少し先に延ばしていただきたいのですが――
――何か問題でもありましたでしょうか?――
――実は、「なつ」の体重が思うように増えないのです。1キログラムになってから、お渡ししようと思っているのですが、食が細いのか成長が遅いのです。生まれつきの虚弱体質なのかもしれません。お渡しすると、大変ご苦労されると思いますので、しっかりとケアしてからお連れいたします――
虚弱体質? 私は急に不安になった。鉤尻尾は愛嬌のうちで問題ないが、病弱となると話が違ってくる。
18歳で死んだ先代猫の介護の日々が思い出された。
年老いて身動きできなくなり、食事も排泄も人の手を借りなくてはならなかった。自ら舐めて毛づくろいすることもできなくなった老猫の身体からは、すでに死臭とも呼べる臭いが立ち上っていて、死が間近に迫っているのは明らかだった。
そして、いよいよこの時と猫自身が悟った時だろう、身動きできないはずなのに、よろよろと起き上がり玄関へと歩み出したのである。外へ行くつもりだ。今外へ出たら、もう二度と戻ってこなくなる。そう思った私は、急いで猫を抱きあげベッドへと戻した。
その数時間後、猫は浴室の脱衣場で死んでいた。これまで一度も足を踏み入れたことのない場所だった。猫は死ぬ時、飼い主に姿を見せないのだということを聞いたことがあるが、きっとそういうことだったのだろう。
私に死んだ姿を見せたくなくて外へ行こうとしたのだ。でも、叶わなくて、自分にとって初めての場所で最期を迎えたのだ。ここなら私に見つからないと思ったのね。
そう思ったら愛しくてならなかった。私は泣きながら、猫の亡骸を真っ白なタオルにくるみ箱の中に横たえ、体温を失った冷たい身体を擦った。
だから、「なつ」が虚弱体質と言われたことで、臆する感情が湧き上がったのだ。命あるものはいつか必ず死を迎える。そんな当たり前の理を、譲り受ける前に改めて思い知らされ気が滅入った。
が、しかし、写真だけで見初めた子猫とはいえ、すでに情も移っていた。今更なかったことにと言いだすのも憚られた。今は元親の言うとおり、時を待つしかない。
猫を迎えようと決心してから一カ月。「なつ」の体重が一キログラム超えるまでと待ったを掛けられて、期待より不安の方が大きくなっていた頃、ようやく添田さんからの連絡が届いたのだった。
★この作品は、すべてフィクションです。実在の人物や団体などとは、
一切関係ありません。