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【短編小説】木曜のビヨンド ver.8

レンブラントはいいよね。格好良い名前で呼ばれるし。誰もレインって呼ばない。ゴッホとかモネとか、変な名前じゃん。フィンセントとかクロードって呼ばれないじゃん。あれ、何でなのかな? 

そんなの、親しくもない奴に下の名前で呼ばれたくないじゃん。それだよ、それ。名字で呼ぶだけ。あと、おんなじ名前の人が多かったのかも。

(モラトリアムは三度ある。一度目はガクセー時代、二度目は新卒時代、そして三度目はすべてを投げ出して人生を考えるとき。)

大丈夫。いつでもそれだよ。いいんだ、難しく考えなくて。


親愛なる友よ、きみはたったの一度も体験しなかったというのか?

地元から出てきた彼の母親からスマホを受け取る。彼女は僕のことを知っていた。異性の友人ができるなんてびっくりだと笑う。僕もだ。

卒業式というやつは非常に自由で、それでも形式ばったものだった。日付と会場が決まっているくらいで、座席の指定もなければそもそも出席の義務もない。あらかじめ決まったものを見える形で発表するだけ。当然のように留年するやつが出たって問題ない。僕は隣の学科の友人の隣に掛け、そちらの輪にお邪魔していた。定春の姿はない。どこかの野郎集団に混ざっているのだろう。
証書を受け取るのは成績優秀者、首席だ。今年もどっかの金持ちの息子だった。そのまま跡目を継ぐに違いない。それよりも気になったのは卒業論文集に掲載された定春の作品であったり、最終成績発表トップ5だったりした。主に後者、安堵する。定春の名前が読み上げられ、彼の奨学金に問題がなかったことを知る。すごい。偉い。本当によかった。

長い話が終わって定春と合流する。正門前でスマホを構えた。写真なんてめったに撮らないから緊張する。だって、他人のだし。ちゃんと撮れないと、定春のお母さん、かわいそうだ。思い出、一人息子の卒業のお祝いで、オレ……。カシャリ。最近のはパシャリというよりカシャリって鳴る。撮れた。オッケー? 問題ないか。よかったや。
並んで。二人、もっと寄って。カシャリ。うんうん。
僕の両親は来ない。
定春、僕はおまえとのツーショットを撮ってもらったりはしないよ。たとえカノジョでもそうはしないのさ。どうしてって? おまえには分からんさ。
「ありがとう」は母親の台詞になった。いえいえ、上手く撮れなくてすみません。こういう時、ありがとうとかごめんを言わない定春が心地いい。最後の最後に快い。

おわりって感じがしない。明日も変わらず会えるような気がして。
式のぜんぶが終わって、大学近くの居酒屋で魚を食べた。二人並んで、赤剝げたカウンター席で足ぶらぶらさせながら。勿論、僕の足だけ宙を舞う。注文は、白米の上にいっぱいお魚、乗ってるやつ。定春のは、何だろう。シャキシャキしてるやつ。うねうねしてるのも乗ってるやつ。変な料理。僕は魚介は生が好き。エビフライも天ぷらも何で火を入れちゃったかなと思う。焼いたエビなんて最悪だ。
「新鮮な魚が食べたい」
おぉ。
「七夕の短冊、そう書いてくくった」
どこにそんなのあった。
「食堂近くのトコ」
よく見てんな。
「あと、就職」
うん。一応、決まった。
「もうちょっとだけ考えて、多分……ここですると思う。地元、帰らない」
そっか。お母さんはなんて?
「帰ってきても仕事ないから、こっちでいいじゃないって」
やっぱり、そういうもんかね。
「そういうもん」

駅までの帰り道、定春は改札までついてきてくれた。今夜は親子水入らずだというのに、すまない。僕らは何も笑わない。他愛のない話をし、未来のことを考えるのをやめた。結局、ニーチェもゲーテも分からないままの学生生活だった。不思議な夜に不思議な空気に酔わされ、精神がへべれけになりながら帰った。定春のすかしたような冷静な顔も、僕の死に行く目も動かなかった。写真、撮る? ツーショットを一枚。
それは、すばらしい寵愛の日々だった。


レンブラントはいいよね。格好良い名前で呼ばれるし。誰もレインって呼ばない。ゴッホとかモネとか、変な名前じゃん。フィンセントとかクロードって呼ばれないじゃん。あれ、何でなのかな? 

いつか、おまえの小説が本になった時さ。その時、著者が「定春ちゃん」は嫌だろ。せめて「定春」がいいだろ。あー、いい。やっぱ、ナシで。

文学人ってみんなイカれてるからタチ悪ぃー。

「ゴッホは苦手だったね」
「「夜警」」
「モネもマネも興味がない」
「そう、ゴーギャン」

穴の開いていないジーンズをはいた定春が絵画の前に立つ。勿論、レプリカだ。僕は定春の細い腕ごしに青きビヨンドを見る。祈っているのか、喚んでいるのか、それとも――
あれを神と呼ぶらしい。ヒトはモスラが死んだことも、聖者がいなくなったことにも気づいていないのに。それでも祈り続けるのか、在りもしない正義を掲げて。

そしていつか

僕が就職して三回、春が巡った後。夏に報せが届いた。定春が死んだのだ。

「我々は……」

自殺と聞いている。どうやって僕の元に連絡がきたのか覚えていない。
ただ、日差しがあつい。

どこかの工場に勤務していた。スイッチを押していた。

未来への?

自殺だった。

日差しがあつい。

どこへいけばいい。


部屋の片隅でも街中の横断歩道でも、見る夢はいつもおなじ。
定春が絵を見ている。僕が定春を通して絵を見ている。

「貞子ちゃん」
「どうしたの」
「最初、一番最初はそう呼んだんだよ」
「最初のほう、が正しいよ。定春くん」
「あの貞子?」
「そう」
「映画に出てくる?」
「うん、漢字も。からかわれた、ずっと」
「うん……」
「恥ずかしかった。もっと、男か女か分からん名前がよかった」
「うん……」
「憧れてる、今も」
「だいじょうぶ」
「定春」
「なに」
「ずるいや」

弱いままで、大丈夫になる。
貞子が私になり、私が僕になり、オレとなって。それから、何度か仕事を変えて僕に戻り、そうしてまた冬が来た頃、私が戻ってきた。心の中は僕のままで。私は。
昨日も今日も、明日も死にたい。ここでいきをするなんて、それでも逃げちゃあいけないなんて、どうして。世界、ひどいや。どこもかしもひどいじゃないか。

「また失敗したの」
うん。
「無理だよ、溺死なんて」
うん。
「生きてればいいことあるなんて、言わないよ」
そんな安いもんじゃないだろ、生きるって。そんなの、軽いんだよ。薄っぺらくて、無責任すぎる。
「サダくん」
うん。
「ひどい?」
あぁ、とても。
「ごめんね」
おまえは何も悪くない。悪くないよ。死んだ奴が悪いなんて、僕は思わない。何も悪くない。祝福するよ。でも、つれていってほしかったとも思う。
そうだ。そうなのだ。ここは眩しすぎるから。日差しがあつすぎるから。
「日差しをなくせばよかった? カーテンが欲しかった? きみの部屋は和室だから。障子が薄くて嫌だった?」
ちがうんだ。
「一緒に暑がればよかった」
それが一番だめだ。
「おひさまは死なないから、残念」
ぜんぶの人と死ぬことになるじゃないか。そんなの、御免だ。勝手にやっててくれ。もしかして……僕、フラれた、のか。そうか、僕はおまえを誘いたかったけど、お前は独りを選んだ。そういうことだな、なるほどね。なるほど……。それじゃ、仕方ないか。
「一緒に死んでくれる人を見つけるのは大変だよ。一緒に生きるほうも大変だけど。サダくん、きみは……」

僕らは透明な絵画に手を伸ばす。ビヨンド、その容なき存在を思う。その名前を心で考える。僕らがひとつになれないように、この絵に触れることができないように、死を恐れている。生きることを恐れている。ここには光が差さない。芸術が、無駄になってしまうから。
血を吐き、泥を啜ればいいのか。害虫と共存する道を模索すればいいのか。もう取り戻せない君に手を伸ばしてみる。そこには物言わぬビヨンドと人間と、死んだ人間の足跡しかない。時間の落し物が追ってくる。背中に張りつく影を取り払い、僕はじっと彼を見つめる。昨夜の水風呂も、今夜のそれも僕を殺してはくれないのだ。もう眠り続けていたい。誰も知らない優しい水のなかで眠り続けていたい。隣にいない君の愛に抱かれていく。

「我々は……」

生きながらに楽になる術はない。逃れたいのなら死ななければならない。安らぎで眠るための彼の地を探している。本当を殺せる勇気が見つからないなら、僕はもう駄目なんじゃあないか。僕はおまえに似た生温い風を探す。日差しがあつい。眇めても離れたりしない、その光はヒトの手では掴めない。
僕らはあの絵に溶ける指先を感じる。冷たく強烈な彼らの生活を今でも見つめている。




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