【不定期】第三回ノベルゲーム感想日記 『慈愛と祈り』
【始めの挨拶】
今回の主役は、神無月ミズハ(万年筆と神経毒)さんの『慈愛と祈り』です。神無月ミズハさん、ありがとうございます。
【感想日記の説明】
私が気に入ったゲームの感想を「勝手に」書くだけ。そのため、問題等があった場合この記事は削除・修正いたします。紹介とリンクの下に感想があります。感想はネタバレを含みますので、読まれる場合はプレイ後を強く推奨します。
それでは、始まります。
【作品の紹介】
『贖罪と命』の関連作品です。あちらの主人公や谷口佳奈が出てきます。
今作は一人称で進みますが、視点が多々移動します。ただ、べつにここは難解ということはないかと思います。しかし、キリスト教に関しては理解がないとちょっと難しいかもです。説明はしてくれますが、ちゃんと読まないとついていけなくなると思います。
私はたいして宗教への知識がないので、理解できているとはあまり言えないかもしれません。変なことが書いてあったらそれは私の知識や理解力が足りていない部分です。あまり気にしないでください。
これは思ったことを書き残す記事なので、読んでもストーリーは追えません。また、本作はreadmeの年齢制限項目に、18歳以上という記載がある作品です。そのため性行為とかに関しても書いたので、それが嫌な方は読まない方向でお願いします。
【感想】
「本当の自分を殺して被った皮を見て嫌悪感を抱かない人がいないわけがない」
耳が痛い。私も長年これをやってきた人間なので、他人事ではないと言いますか。久しぶりに会った友人に、「何か人間っぽくなったね」なんて言われたときは、やっぱりそう思われていたんだなと実感しました。他人からはっきりと言われるのはちょっときつい。まあべつに無意識下でやっていたわけでもないのですが、一旦この接し方を選ぶと、踏み込まれないから案外楽で、なんとなくやめられなくなって……みたいな。私と関わった人間は、大小の差こそあれど、いくらかの嫌悪感は等しくあっただろうなあと思います。今が以前とそこまで変わったかと言われると、自分ではあまりそうは思わないですけれど。まあ表出する部分は変えたので、多分そういうところでしょう。
人付き合いってとことん自分次第だなあと思います。好かれる振る舞いで気持ちよくなっちゃう人は、今まで見てきた中にも相当数いたなあ、なんて思いました。べつにそれが悪いなんて思ってはいないですが。ただ、もし私がそれを味わってしまったらしばらくは抜けられそうもないので、抑えないといけないなあと思いました。他人に流されるのって楽だけどおもしろくない、と感じるのがどうやら私の性質のようなので。
「何度も、何人とも身体を重ね合っても一時的には快楽に満足できるでしょうが、直ぐに虚無感が胸の裡に去来する」
そうそうこれです。一時的な快楽で満たされるものというのは所詮その程度で、だからこそ何度も求めてしまうのだと思います。性行為によって満たされるものって、性欲だけではないでしょうから。
性行為には、別の欲求が混ざり込むことがある。相手に受け入れてもらえるという部分から、愛の欲求や承認欲求はもちろんのこと、自己実現の欲求まで行ってしまう人もいるのではないかと。他にもこれで自己肯定とか、自尊心とかまで満たしてしまっていたら、もう沼に浸かりきっているといえるでしょう。性行為に対してこういうのを求めていると、依存してしまうのだろうなと思います。そしてその一時的に満たされた欲求などは、一時的であるがゆえに長くは続かない。
初めての行為ではあったあの満足感、もとい満たされた欲求はどうしても薄れますから。回数を、人数を重ねることによって、満たされるものは変わっていく。同質のものを求めようとしているのに、それが得られなくて、何か別のものに感じてしまう。だからこそ何度も求めるけれど、それは一時的な快楽を得るだけだから、満たされないのかなと思います。
風俗のやつ
酔って暴れるってどういうことなんですか。いやこれは単純に理屈がわからないのです。どれだけ酔ってようが、やってはいけないことは理性が止めてきませんか。飲んだ後の記憶がないとかいうのって、あれは実際あるものなんですか。あいにく私にはそういう経験がないもので、あれは事実なのか創作なのかがいまいちわからず。記憶ないなんて話も実際聞いたことありますけれど、あれって冗談じゃないんですか。
よく酔うと人間の隠れていた本性が現れるなんていいますが、酒に酔った程度で現れるのが本性? うーん。それは本性かなあと思ったり。私はどれだけ酔っていようが、それで何回吐こうが、吐いてからまた飲もうが、常に理性が働いているので、酔うだけで本性が出るものかと思ってしまう。真に本性を引き出すのって、そういう部分ではないような気がします。
これはあの風俗通いの人が書いているやつを読む場面です。主観は「僕」。それでこのときの主観である「僕」に、母の結婚相手たちは暴力を振るわなかったらしい。男は女を屈服させたいのか。母は男に従わされたいのか。その続きの行為に執着するからこそ笑うのか。うーん、愛と快楽の誤認なのかなあ。快楽をくれる相手に愛があるとは限らない。逆に快楽はくれないが愛だけくれるなんてこともある、それは多分普通だったら家族とかかな。それができない、あるいはしようとしないから、快楽という実在のない愛を貪る……のかな。
執着をやめて幸せになった。理解したような顔。
これは他の部分に、代替する何かがあるのでしょう。「僕」は時間と宗教と愛が人を変えると言っていました。でも愛ってなんだ。女は内側完結、男は破滅的で愛と快楽が直結している。そうなのかな。
そこで出てきたのが猫。出ましたね、愛玩動物。ああ、やはりそこに行くのだなあという感じでした。自分の子どもがいるのに、そっちに行くのがなんともこの母親らしい末路だなと。人間関係でどうにかできるなら、家族である「僕」に愛を注ぐこともできるでしょうから、愛玩動物という、個人的なものをひたすら一方的に押し付けられる存在に行き着くのは、自然だなあと感じます。こんなことで理解したような顔をされたら、「僕」はたまったものではないでしょう。
愛玩の快楽に浸っているという事実を真に理解している人は、あまりいないのではと思います。私の家でも昔動物を飼っていましたが、なんというか縛り付けているという思いは強くありましたね。その動物は私が物心つく頃からいて、中学生になる頃に死んだのですが、あのときは罪悪感が強かったかな。ずっと家はかわいそうだからたまには外に出して「あげる」とか、それはもう自己満足の究極すぎる。野生に出たら死ぬだけだから、ずっとぬるま湯に浸からせる。そして代価としてその命を縛りあげて一方的に愛でる。自分でやっていたことながら、なんだそれって感じはします。本当に何様のつもりだ。まあ私の家族もそれは思っていたようで、それから家で生き物を飼うことはなくなりました。私欲で命を扱うのはきつい。まあこれはそれを正当化できるほどの欲が、もう家族の誰にも備わっていなかったのも大きい。毎年種が取れるので、なんとなく花は育てていますが。
まあこれ実際は私が植物に求めているものと、愛玩動物に求めているものは同じだと思います。植物は種を残すから、生殖機能を奪う愛玩動物とは違うのではと思う方もいるかもしれないですが、私が求めているものの本質はたぶん同じだと思います。ただの自己満足。
僕では得られない、仮初めの慈愛。
正に仮初めだけれど、「僕」はその仮初めにすら届かない。
あるいは本当の愛を探しているのかもしれない。
とのこと。正直私にも正解はよくわからない。ぶっちゃけだいたいのことは嫌悪感がまさってしまうので。愛とは実際、自分勝手な定義でもしないと得られないのかな、とも思います。
「奉仕をしている感覚だけがあり、私は大きなものに支配されているのを感じ、恍惚とするのだった」
精液を飲むこと自体に意味があるのだから、誰のとかは関係ないだろうなあ。というか普通飲みたくないものを飲むのだから、そこには意味があるわけで、大きなものに支配されていないといけない理由もあると思います。意味もなくそんなことをする輩はそうそういないのだから。そしてその理由は、依存しているからかな。愛は依存に似ていると私は思っているのですが、なんだか理由としてはまだべつの何かがありそうで、あまり近くはないかなあ。
「芸術には人それぞれの見方があって――もちろん普遍的な面だってあるのだろうけどね――、その見方が正解とは限らないから」
これはありますね。どこかには普遍的な部分がありつつも、人それぞれの見方は存在する。そしてもちろん、見方の正解はどれかはわからない。どれだけ知識のある誰かが言ったとしても、その本質はおそらく変わらないでしょう。
そしてこれは私がこの作品に感想を残そうと思った部分。この文があるなら私の文章を読んだ人に、これは個人の主観だとわかってもらえそうな気がしました。そもそも感想が個人の主観でないわけがないのに、解釈の幅だっていくらでもあるだろうに、それを統制しようなんて意見が出てくるのはなぜだ。正直この作者の作品は私好みですが、べつにこれは作者に向けて書いているわけでもありません。突き詰めれば自分がこの作品で感じたことを覚えておくための、いわばメモ書きでしかない。しかしこの、感じて想ったことがこそが本当の嘘のない感想なわけで、作品ページに感想あると嬉しいと書いてあったから、それならついでに公開しようと思っているだけ。だから作者の方が欲しい感想からは、かけ離れている可能性もあります。良いとか悪いとかは一切書く気ないし。
美術館
美術の講義を受けたのだから、いくらかの知識は得ているはずなのに、人の名前しか覚えていなかった。大事なのは作品の方だろうに。たぶん私は興味がなかったのでしょう。モネに関しては二年くらい前に名古屋でやっていたやつで見たことあるので、そっちはいくらか知っていますが、すごさはよくわからない。たぶん私の中では誰が描いたかもどんな絵かも大して重要ではなくて、何を感じるかだけが得たいものなのだと思います。絵を見たときの感覚だけが残っていて、どんな絵だったかはひどく曖昧。印象に残っているのは色味かな。
魚
ディスカスを買った。ああこの魚、こいつがどうなるのか知ってる。
「客は処女性とでも言えばいいんかな、とにかく特別なものを欲しがる」
その通りだと思います。これは身体を重ねることをやめられないのと似ているかな。最初こそ特別なものだったはずなのに、それは処女性という文字通りの特別感がゆえに失われてしまう。そして違う何かを求める。人間はどこまでも貪欲で、何かを得て欲求を満たせば、すぐに次の欲が出てくる。そして目先のすぐ手が届く欲求には弱い。性行為が終着点というのは何か違う気もしますが、しかしそういう種類の人間がいるのも事実。まあ根本を見たら、等しくそうだということなのかもしれません。
「世界から逸脱していく心地よさが、自分は根本的に壊れていると分かると、なぜか救われた気分になれる」
理由を得てしまって、特別という烙印を掲げられるようになった。普通であることに固執する必要はなくなり、世間からの圧もなくなる。しかし、決して楽ではないような気もします。求めていたものが普通の中にあったのなら尚更。普通の中にしか意味がないとするのは、世間の価値観に毒されすぎではと感じますが、一般化された幸福というものは、一般化されているがゆえにやはり欲しくなるものでしょう。普通の幸福なんて自分で定義してしまえばいい気もしますが、自分の中の定義と世間の普通に重なりが生じていれば、もうどうしようもなさそうです。
自殺、哲学的自殺、不条理を受け入れる。
私はどれだろうなあ。理由が何かのせいにできるものだったら、自殺もしくは哲学的自殺。全部自分のせいだったら、自殺か不条理を受け入れるかな。
愛とは
結局一番歪みがないのは自己愛なのかな。何らかの形で愛が存在していようとも、その元を辿れば行き着くところは自己を愛することなのかも。本当の本当に自分が嫌いで仕方がなかったら、自ら手をかけられる。自分なのだからそれ自体はとても簡単。それでもそれをしないのは、ひとえに自己愛があるからかな。他人が認めてくれているという理屈も、自己愛が認識を歪めているだけかもしれない。人に施しをするのもそう。自分を何とかして肯定し、生きながらせるため。そう考えると、事実を歪めて好き勝手に認識する能力は、自己を守るために脳に備わっている人間的な機能なのかもしれない。盲目的になるのも、盲信的になるのも、すべては動物的な生きるためなのかも。
人に優しくするのって、牽制の意味も含まれるからなあ。嫌なことされたら困るから、こっちからその意思はないと表出するわけで、そういうのには少なからず下心が見えるわけで、だから完全なる善意というのはあまりない。でもよくされて悪い気はしないし、自分も嫌なことをされたくないからその気味の悪いやり取りは交わされる。同じ社会を平穏に過ごすための優しさは、単なる生活の知恵だなあなんて思ったり。
とかく人間は利己的な生き物だと思います。動物なのだからそれはべつにおかしくない。そんな至極当たり前のことを、人は下心を隠すために、言葉を重ねて認識させづらくする。そも人間が利己的なのは大前提であり、その前提を無視して話をしようとするから変な拗れ方をするのではないかと。相手にも、そして自分にも、当たり前に欲求があるということを理解しなければ、人を真っ直ぐ見るなどはできないと思います。
「僕たちが虚構でも幸福拾い集める過程、幸福を真剣に思う時こそが真の幸福なのかもしれない」
幸福は手に入れるものではなく感じるものとは、その通りな気がします。そしてその実態のないものは、生きていく過程にいくつもあるものなのかなと。実際幸福を感じるかは個人の尺度によります。
私は朝起きただけで幸福感を覚えます。これは庭の花に水をやるために、朝起きておきたいから。だから朝起きられただけで幸福。べつに花なんてなければ朝起きても何も思わないと思います。このように幸福は、その大小も感じ方も個人のものがある。
だから普通に固執することの是非は、ここらを見なければいけないと思います。普遍的な幸福と自分の幸福を照らし合わせるのは必要なことで、それをしなければ自分に関係のない幸福を追うことになるでしょうから。まあでも空虚なことをするのも一興、とか言って空虚に幸福を感じる人も探せばいそうですが。
赦す
赦すしかない。でも、赦せるかどうか。これは大きな課題。
確かに人格形成において環境は非常に大事です。社会に適応させてもらえなかったのなら、赦しが必要かもしれない。自分自身を赦すというのは、なぜか本当に難しいものです。そぽっとできたらいいのに、いろいろ重なっているからそう簡単にはできない。
自分を赦すことで、やっと他人の優しさを受け入れられる。なんだか自分にも通じるところがあるなあと感じました。もし私がああいう環境だったら、まずかっただろうなあと思います。
結末について
思っていた結末とはかなり違いました。こうなるんですか。正直物語的な読み物だとは思っていなかったのですが、意外とその部分も楽しめました。なんというかこう、何かを提起して、「はい終わり!」かなと思っていましたが、物語として読んでも楽しめました。雨の降っていたところで、普通に誰にも助けてもらえず犬と一緒に野垂れ死ぬかと思った。
前作『贖罪と命』を読んだ方で、こちらの作品を読んでいない方がいましたら、ぜひ読んでみてほしいです。
【書いて思ったこと】
上の方で優しさは牽制とか書いていますが、改めて見るといやそれはどうなのと思ったりもします。その面が全くないとは言いませんが、自分のことながら、なんか一方的な意見だなと思いました。この部分からわかる通り、この感想はかなり作品に引っ張られています。人物の背景や描写は、自分に近いわけではないけれど、決して遠いわけでも理解できないわけでもないというこの距離感が、おそらくそうさせたのでしょう。そういう意味では、かなりのめり込みましたね。すごい楽しんで感想書きました。
感想の内容については「は? 何言ってんの?」と思うところも多々あるかもしれませんが、あれは、読んで想像したものだったり、あるいは自分の奥底から引きずり出されてしまったから書いたものです。まあ何が言いたいのかと言えば、楽しんだということです。どうして楽しんだという若干遠回しな表現なのかについては、この作品は描写の内容的に、おもしろいとかいう言葉は相応しくなさそう(個人の感想)だと思ったからです。まあでもあの終わり方ならおもしろかったでもいいのかなとも思います。
あとこれは物語とは関係ありませんが、難しい漢字に振り仮名ふってあるのは非常にありがたかったです。
【終わりの挨拶】
ひたすら悪趣味なのを見せられるとか、そういう作品ではないので、何か引っかかるところがあった方は読んでみてください。キリスト教とか絵画とかに興味がある方は、私よりもはるかに理解ができる物語だと思います。『贖罪と命』を読んでいない方でも今作は読めますが、読んでおくとよりわかると思います。ちなみに『贖罪と命』は、『慈愛と祈り』をダウンロードしたら一緒に入っているので探す手間はありません。
それでは、今回は神無月ミズハさんの
『慈愛と祈り』
を取り上げさせていただきました。
神無月ミズハさん、ありがとうございました。
この挨拶をもちまして、『不定期 第三回ノベルゲーム感想日記』は終了です。
私のノベルゲーム感想日記はタイトル通り、不定期ですので、次回は三週間後かもしれませんし、三ヶ月後かもしれませんし、三年後かもしれません。もっと後かもしれません。気が向いたときにやります。
それでは、失礼します。
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おまけ。自戒もかねて読めなかった漢字置いておきます。
噎せ返る(むせかえる)
腥い(なまぐさい)
水紅色(ときいろ)
抽斗(ひきだし)
疚しい(やましい)
畢竟(ひっきょう)
稟性(ひんせい)
悖る(もとる)
寂寞(せきばく)
頽落(たいらく)
蝟集(いしゅう)