季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
本書ではいくつかの鍵概念が使われていますが、そのひとつが「季節変動する社会」です。季節によって社会構成をすっかり変えてしまう社会であり、人類史では珍しくはなかったと著者たち(二人のデビットということで以下WDと略します)は言います。
季節変動する社会の例として、WDがまず取り上げるのはクロード・レヴィ=ストロースがブラジル時代に調査したマトグロッソ州のナンビクワラ族です。ナンビクワラ族は雨季になると丘の上で園耕を行っていますが、それ以外の季節はバンドに分かれて狩猟採集生活に入ります。乾季の「ノマド的冒険」の期間の首長は権威主義的に振る舞い命令を下して危機を乗り切ります。しかし雨季の園耕の時期になると穏やかな説得だけで何一つ押しつけることなく、追従者たちの面倒を見る調整型のリーダーになります。この時期の彼らは家長でもなければ専制君主でもありません。
こうした二重構造社会は文化人類学の中ではいろいろと報告されていました。たとえば、モースとボーシャが1903年に報告している、エスキモー社会には夏と冬に社会構造が切り替わり、二つの法と宗教がありました。夏は20〜30人の小集団に分かれ狩猟と漁労を行い、財産権が設定され家長は専制的な権力を行使します。冬になると集合して大きな集会所を建てて、平等と利他主義の集団生活が営まれ、富は共有され、夫婦はパートナーを交換しました。
ボアズはカナダ北西部沿岸クワキウトロ族について報告していますが、この部族は冬になると、社会のヒエラルキーがくっきりと現れます。、海岸線に板張りの宮殿が出現し、放蕩三昧で有名な(ある意味で悪名の高い)ポトラッチ(大宴会)も開かれるのです。夏の漁期になるとそうした宮殿は解体され、部族単位の小さな集団に分散します。人々は夏と冬で別々の名前を名乗り、時期によって別人として振る舞いました。
シャイアンやラコタのグレートプレーンズ諸部族の季節変動も解説されます
。かつて、彼らは農耕民でしたが、農耕を放棄してスペイン人の残した馬を飼い慣らして遊動生活に移行します。そして夏から秋にかけて大規模な集落に集まってはバッファロー狩の準備を始め、警察官が任命されました。警察官は狩を危険に晒す行為を行う人間を投獄し、鞭を打ち、罰金を科すなどの権力が与えられ、死刑を行うことすらありました。しかし、狩の時期が終わると「バッファロー警察」は解散し、部族全体も小集団に分かれてそれぞれに移動生活を送ります。同じ人間が翌年のバッファロー警察に任命されることが無いように慎重に順番が決められており、権力が固定化しないようにも図られていました。
そもそも氷期の頃から人類はこうした季節変動社会を経験してきたのではないかとWDは指摘します。マンモスハウスなどの氷期時代のモニュメント建造物を残した人々も季節性変動のある生活をしていたと考えられるからです。
獲物の群れの移動に伴う季節性の狩猟もあったでしょうし、季節性の木の実の採集のための移動もあったでしょう。野生資源が豊富な時期であれば、宴を催して、野心的芸術プロジェクトに取り組んだり、鉱物や貝殻を取引したと考えられます。
紀元前10000年前の狩猟採集民たちが作った神殿ギョベクリ=テペを作った社会にも季節的変異があったとされます。
ガゼルの大群が降りてくる真夏から秋にかけて、人々はギョベクリ=テペに集まって、大量の木の実や雑穀を集めて祭りの食材としましたし、ギョベクリ=テペの建設に携わりました。祝祭と労働のために集まっていたのです。私が読んだナショナルグラフィック誌の記事では、世界最古のビールが作られていたともされています。
このような季節性移動は農耕開始後にも見られました。たとえばストーンヘンジには夏至と冬至にブリテン諸島一円から人々が集まり、祝宴を開いてストーンヘンジの建造が進められていたとされています。彼らはいったんは農耕民だったこともあるのですが、穀物の栽培を放棄してヘーゼルナッツの採集に回帰しました。ブタやウシなどは飼い続け、冬になるとダーリントン・ウォールズに数千人規模で集まってごちそうを食べて、夏になるとそこから去っています。
季節変動する社会では、人々が常に異なる社会体制を行き来しています。そんな中で生きている人間は政治的に十分成熟しているはずだ、というのが議論の要点です。実際、レヴィ=ストロースはナンビクワラ族の政治的成熟に感銘を受けています。個人的野心と社会的利益のバランスをとりながら二つの異なる社会システムを往復する冷静沈着な機転、つまり季節によって、政治的立場を切り替えて権威主義的リーダーの顔と寛容な世話人の顔とを使い分けられるのは、自己意識的な政治アクターだからこそ出来るというのがレヴィ=ストロースの見立てでした。そして「名声それ自体喜びを感じ、責任を負うことに強い魅力を感じ、それを公務の見返りとする」というのはヨーロッパの政治家と同じメンタリティだとしています。そんな彼らを「愚かな未開人」と見做すべきではないとレヴィ=ストロースは主張していましたし、WDも強くそれを踏襲します。
そう言った社会を営んでいる人たちは日常的に社会体制を切り替えることができます。権威主義的・階層的社会と平等主義的社会を何事もなく行ったり来たりします。そういう社会を前提にしてしまうと、現代社会でなぜそれが出来なくなったのか?という疑問も生じます。本書で使われている言い回しに従えば「なぜ我々は閉塞したのか?」ということです。(この「閉塞」は原文では"stacked"なので、「行き詰まった」と訳した方が分かりやすいかもしれません。)
これが、本書で「季節変動社会」が重要な概念になっているもうひとつの理由だろうと思われます。
『万物の黎明』について(目次のページ)
<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)