「国家」未満?(第1次レジューム)『万物の黎明』ノート29
国家と3つの支配の基本形態
一般に「国家の誕生」として語られているところでは何が起きているのでしょうか?WDは支配の3つの基本形態(暴力、知、カリスマ、ノート28参照)をそれぞれ独特に組み合わせた混成体が生じたときをもって国家が誕生したのではないかというのです。それを検証するために、膨大な数の人間を動員して組織化したのは確かだけれども、通常の国家の定義には該当しない古代の政治体を見ます。まずはメキシコで栄えたオルメカです。p.436
オルメカの事例:スポーツとしての政治
pp.436-440
紀元前1200年頃(BC1500〜BC1000)に現れたとされるオルメカ文明は、暦法や文字、球技などの発明によって、メソアメリカ文明の母ともみなされていますが、詳しいことは分かっていません。ベラクルス州の湿地帯が中心でサン・ロレンソやラ・ベンタの都市があったのですが、内部構造もよく分かっていません。pp.436-437
オルメカが平等主義ではなかったことと、エリートがいたことは分かっています。都市と後背地との関係が浅かったことも推定できています。サンロレンソが崩壊したときに地域経済にはほとんど影響がなかったようなのです。p.437
オルメカの有名な巨大頭部彫刻が球技の革製ヘルメットを被っている点にWDは注目します。マヤやアステカでも球技場はあり、それに似ているのであれば、オルメカでも細長い競技場で上位階級のチームが二手に分かれてゴム製のボールを蹴り合っていたと思われます。古典期マヤの都市では石造りの球技場が必ずありましたし、球技は神々のスポーツでした。有名な王も、球技プレイヤーとして碑文が残されています。そうした競技スポーツは戦争の延長でもありました。王室の競技大会は年中行事の一つであり、生死をかけてプレイされたのです。そして、それは大衆向けの見せ物でもありました。スペイン人の報告では、アステカの球技大会では観衆が勝負に賭け、全財産を無くして奴隷に身を落とす平民もいたそうです。pp.437-439
そこから類推してオルメカは政治的競合と見せ物を融合させ、それがメソアメリカの文化的基礎を作ったとWDは見ています。その一方でオルメカは支配のためのインフラの証拠がほとんどありません。軍事的な、あるいは行政管理的な機構が不在なのです。祭祀センターだけがあり、そこに儀礼的球技のときに季節的に人々が集まったのだとWDは想像します。これが「国家」なのであれば、季節的な「劇場国家」とは言えるのかもしれません。p.440
チャビン・デ・ワンタルの例:秘教的知の統制
pp.440-446
もう一つの例が、インカ帝国より遥か昔に遡ってペルーにあったチャビン・デ・ワンタルです。BC3000年紀にはすでにモニュメンタルなセンターがあって、BC1000〜BC200にチャビン・デ・ワンタルがセンターとして影響力を拡大しました。しかし、それは国家だとして、どんなものだったのでしょうか。pp.440-441
普通の帝国は一目瞭然たる造形物を好み、皇帝などは自分自身の姿を巨大な彫像にして、万人に向けて自らの権力を誇示したりします。それに対してチャビンの美術は不可思議で不可解なイメージに満ちています。明らかにイメージ製作者の目的が異なるのです。WDは「カンムリワシはみずからにからみつき、装飾の迷路の中に消失していく。人間の顔には、蛇のような牙が生えていたり、猫のように顔をしかめていたりする」みたいな表現でチャビン・デ・ワンタルの美術を説明しています。p.442
WDはつい最近までの南アメリカのインディオが秘教的知識(儀礼の方法、系譜、精霊世界への旅の記録)などを、不可解なイメージに託して記録していることをもって、オルメカのこうした図象も一種の記憶術に基づくものではないかと推測します。ことにチャビンでは嗅ぎタバコ用スプーン、すり鉢、骨パイプなどが見つかっていますし、彫像の中にはサンペドロサボテンの茎を持ち上げているものもあります。このサボテンは幻覚誘発剤の原料です。また、男性像が幻覚剤のビルカの葉を囲んでいる彫像もあります。こうした幻覚剤を用いて行われるシャーマニックな遍歴(意識の変容)を記録したのが、チャビンの不可思議な彫像なのではないかとWDは推測します。pp.442-444
チャビンに残されたモニュメントには、世俗統治を思わせるものは何もありません。軍事的要塞だとか行政的区画みたいなものが無いのです。そこにあるのは儀礼的パフォーマンスが行われたと思しき場所と秘教的知に関するものと思われる場所だけです。17世紀にやってきたスペイン人が先住民から聞き出した話では、チャビンは巡礼の地であり、神秘なる危険の潜む場所であり、国中から主要一族の長が集まりヴィジョンや神託を得ていたというのですが、これは結構当たっていたとWDは見ています。チャビンの神殿には石造りの迷路や吊り階段があり、個人の試練、イニシエーション、ヴィジョンクエストが行われたようです。迷路の果てには人間一人が通れる狭い通路がありエルランソンと呼ばれる石柱があります。p.444
支配の三つの基本原理で考えてみる
もしチャビンが帝国であったのなら、秘教的知に基づいたものだとWDは言います。もしオルメカが帝国であったのなら、見世物と競技、政治指導者の個人的属性に基礎をおくものでした。これは、ローマ帝国や漢民族の帝国、インカ帝国やアステカ帝国とまるっきり違います。「国家」のようで国家では無いのです。一般には「複雑首長制」と表現されていますが、意味をなしていません。pp.444-445
支配の3つの基本原理(ノート28)から考えれば、チャビンにおける分散した大規模な人口に対する権力とは、ある種の知の支配によるものです。ここに武力は介在しません。それに対してオルメカにおける権力とは個人的な名声を獲得する競争の、形式化された方法を意味していました。現代の「民主主義」社会で繰り広げられる選挙だとか政治闘争にも通じる、競合的政治フィールドの典型的事例ですが、ここにも領土主権も行政機構も存在しません。pp.445-446
WDはこれらの社会を「第一次レジーム」と呼びます。3つの基本的支配形態のうち一つだけを中心に組織化しているからです。チャビンの場合は知の統制であり、オルメカの場合はカリスマ政治です。p.446
では、知の統制を行わず、競合的政治フィールドを持つこともなく、ただ暴力という主権原理だけで組織されている社会はあるのでしょうか?WDは18Cのルイジアナ南部のナチェズがそれに近いのではないかといいます。リオグランデ川以北で唯一の神聖王権の事例であり、官僚制度は最小限で、競合的政治フィールドを持たない社会です。普通、ナチェズは国家とは呼ばれませんが主権だけがあるように見えます。つまり「国家なき主権」です。p.446
ナチェズの例:国家なき主権
ナチェズには<大村落>と呼ばれている集落があり、そこには神殿と宮殿がありました。そこに住む王は<偉大なる太陽>と呼ばれ、民に対しては恣意的な処刑、財産の没収を行い、王室の葬儀には家臣たち(王のケアをする平民たち)が人身御供に捧げられました。宮殿はナチェズの全人口4000人を収容できましたが、一年のほとんどの間<大村落>は過疎化していました。王の恣意的な権力が強すぎて、誰も寄り付かないのです。そして王はほとんど宮殿から出ないので、一般の人々は平和に日常生活を送っていました。そして王の使者が伝える王の命令を拒絶していました。pp.446-448
王は古典的な意味での主権者であり、法よりも上位にあるとみなされるがゆえに、どんな法も彼には適用できません。彼が暴力的に振る舞うのは、彼の超法的地位を証明するためとも考えられます。神々が道徳に拘束されていないのと同様に、その威光を纏う神聖王も道徳を超えているのです。そしてこうした神聖王は歴史的に珍しいものではありません。王の主権は彼の周辺では絶対的ですが、行政システムが不在のために、王から距離が離れている場所では、王の命令でも従いたく無いと思えば、人々は命令を拒絶します。言ってみれば、法を超越した主権者は実質的に無害なように封じ込められるのです。pp448-450
「主権はつねに道徳秩序との決別としてあらわれる。だからこそ王はしばしば兄弟を虐殺し、姉妹と結婚し、祖先の遺骨を冒涜し、、、、、宮殿の外に立って無差別に通行人を銃殺するなど、みずからの地位を確たるものにするためになんらかの暴挙にでるのである」「しかし、まさにいそのような行為そのものによって、王はおのれを潜在的立法家や高等法院として確立するのだ」とWDは説明をし、それを無差別に稲妻を落としながら人間の道徳的行為を裁く高位の神々と同じなのだとします。そして法を無視する暴力的な人間は神聖視されることで封じ込められるのです。それが主権の内的力学だとWDは説明します。p.450
WDは国家なき主権の例として、もうひとつ、南スーダンのシルック族の例をあげています。シルックの王(レス)も、目の前にいる人間には何でもできたとされます。彼は隔離されて住んでいましたが、孤児、犯罪者、家出人などが取り巻きを形成し、王の民から略奪を繰り返していました。シルックの人々は独立心が旺盛で命令されることを嫌う人々であり、王族には少しの敬意は払うものの、服従は拒んでいます。シルックの民話には残酷な王を民たちが殺す話も出てきます。シルックはどうも、穏やかで体系的な統治方法よりも、恣意的で暴力的な主権者が散発的に現れることを好んだようだとWDは言います。pp.451-453
以上のように「第一次レジューム」を見て行ったわけですが、チャビンやオルメカのエリートたちがどのように労働力を調達したのか、どういう指揮系統があったのかは不明です。古代メソポタミアのような賦役(労働奉仕)が祝祭的に行われたのかもしれませんが、それも不明です。ただ、第一次レジュームの権力が季節的要素を有していたことは確実だとWDはしています。どのように労働力が動員されたのか、WDはそれを古代エジプトの例で説明を始めます。pp.453-454
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<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
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メソポタミア民主制『万物の黎明』ノート24
世界最初の市民革命?『万物の黎明』ノート25
世界最古の公共住宅事業?『万物の黎明』ノート26
征服者コルテスと交渉する人々『万物の黎明』ノート27
国家の3要素『万物の黎明』ノート28
『万物の黎明』ノート29
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)