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『虎に翼』で違和感を感じた人へ

朝ドラはあまり見ませんが、ときたまハマって毎朝見ないと、あるいはNHK+の配信で見ないと気が済まないシリーズにぶち当たります。そのきっかけは、人に勧められた、たまたまチャネンルを合わせた、あらすじを読んで興味を持ったなどさまざまですが、今回は初回冒頭でモンペ姿の主人公が河原で、新聞で発表された日本国憲法第14条を読んで泣いているところで、一気に引き込まれました。「これはド・ストレートな憲法ドラマなのか?朝ドラでそれをやるのか?」そう思って見ていると、時代が十年くらい遡って「お見合いを嫌がって、そこから逃げようとしている女学生」の話がコミカルに始まり、彼女が法学校の授業を立ち聞きして、女性は結婚すると法的に「無能力者」として扱われると知って「はて?」と疑問に思うシーンに至って「これはド・ストレートなフェミニズムドラマなのか?朝ドラでそれをやるのか?」と思いました。

そんな私のしょうもない見立てをよそに、日本における女性法曹家の草分けを描いたこのドラマはフェミニズムというテーマに安易に寄りかかることなく、大ネタ小ネタを詰め込みながら物語をどんどんと進めていきます。物語を追いながら私が唸ったのは、リベラルな法律家として女性に弁護士資格を与えるよう法改正に奔走し、女性が法学を学ぶための学校を設立し、主人公に入学を勧め、主人公の父親が冤罪事件に巻き込まれたときには弁護士を買って出るという公私に渡って恩師・恩人となった穂高先生(実在した法曹界の大物穂積重遠がモデル)の描かれ方でした。

©NHK

最初、穂高先生は典型的な心優しきメンター(導師)として描かれます。社会的には非常識なところがある主人公の言動を全てニコニコと受け入れ、導いてくれる老人として登場する穂高先生なのですが、主人公が弁護士資格を得た後、その関係が変調するのです。仕事と家庭の両立に苦しんだ仲間の女性弁護士がキャリアを諦めていく中で、膨大な仕事を背負いながら妊娠に伴う体調不良で主人公の寅子(ともこ)は倒れ、そこに穂高先生が「今は仕事を辞めて出産と育児に専念するときだ」と諭し、それに寅子が反発します。さらに穂高先生は寅子の職場の上司たちに彼女の妊娠を明かして、退職させるように勧めます。これで寅子の心は折れ、彼女はキャリアを断念するのです。

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穂高先生は「雨だれ石を穿つ」の諺を引いて、一人の力で社会を変えることはできないが、一人一人が小さな役割を果たすことで長い時間をかけて社会は変わっていくんだという話をし、君は十分にその役割を果たしたのだと慰めるのですが、それが寅子にとってなんの慰めにもなっていない、むしろ残酷な引導であることに気づいていません。さらに戦後、父と兄と夫を亡くした寅子が裁判官を志して司法省の事務官として働きはじめると穂高先生は「僕は君に法律家の道を勧めて、むしろ君を不幸にしてしまった。償いとして、君に良い報酬の家庭教師の口を紹介したい」と言い出します。どこまでも穂高先生のカン違いが続くのです。

このあたりで私は正直に「凄いな」と思いました。良心的な社会派リベラリズムがときに偽善と欺瞞に見えてしまうという構図を見事に描き出したと思えたからです。穂高先生の誠意は疑いようもないのですが、寅子の心情とは決定的にすれ違います。「社会的弱者」としての女性が視界の中に入っていて、それが解消されたあるべき社会像を語ることもでき、そのための仕事をすることができても、でも実は「社会的弱者」の具体的な心情は理解できていない、そんな人物像が穂高先生というキャラクターとして巧みに描かれていると私は考えました。

さらに踏みこんだエピソードが先日ありました。穂高先生は最後に最高裁判事を勤め、退官します。その挨拶の席で、自分もしょせんは雨垂れの一滴に過ぎなかったと謙遜もしくは自嘲的な話をするのですが、これに寅子は涙を流して反発し、挨拶の最後に花束を渡す役目を放棄して会場から出ていくのです。これには、各種SNSで戸惑いの声が噴出しました。「そこまでするか?」「理解できない」といった投稿が私のタイムラインにも結構流れてきました。私も、この回の寅子の怒りが分からない人は結構多いだろうなと思いましたが、それと同時に朝ドラでここまで踏み込んだ脚本は凄いなとも思いました。

ここまでの寅子と穂高先生とのすれ違いを「働きたい女」と「それを(善意で)邪魔した男」ぐらいに考えていると見えにくいのですが、両者のすれ違いは「困難を抱える個々人」と「理念を考えている人」とのすれ違いでもあります。穂高先生のような高い地位にいる人は理念を語り、その理念に届かない社会の現実に対して「雨だれ石をも穿つ」と言いながら諦観し、「私自身も雨垂れの一滴だった」と自嘲することができる。でも、かつて雨だれ扱いされた寅子からすれば、これは無神経すぎる発言なのです。特にこの物語の最初期は女子学生たちの群像劇でもありましたが、そこで描かれていた「雨だれだった、雨垂れにもなれなかった大勢の人たち」からすれば聞きたくもない言葉なのです。

もちろん、公の場で怒りを出してしまった寅子は幼すぎるし、子供っぽい振る舞いです。ドラマの中でも桂場判事が「ガキ!何を考えている!」と叱りつけていました。普通の大人なら、「古臭いオヤジには言わせておけ」と内心で呟いてやり過ごす場面でしょうし、寅子のモデルになった三淵嘉子さんだって、その程度の分別はわきまえていた筈です。しかし、わきまえない女として描かれ、わきまえない女だからこそ女性法律家の草分けとして活躍したというドラマであるからこその怒りの表現なのだと私は理解しました。

この場面、主演の伊藤沙莉さんにも謎の台本であったらしく、演出家に質問したのだとNHKの公式サイトで明かしています。演出家の答えは「親子喧嘩のようなもの」だったそうで、実際そのように演じられました。彼女の人生にとって親の次に重要な恩師・恩人であったからこそ、ある意味近すぎる人物だっったからこそ、理不尽であってもやり過ごすことが出来なかったということなのです。そして、怒りを自身で確認することで恩師を乗り越えたのです。

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この場面の後、穂高先生は亡くなり寅子が3人の「曲者判事たち」と共に故人を偲ぶシーンが描かれました。彼女にとってのメンターは、既にこの3人の曲者判事たちに移っていたのだということが良くわかるシーンだと思います。

ともかくも、各種SNSで違和感が噴出した寅子の怒りのシーン。万人受けを狙う朝ドラにしては、確かに分かりにくいシーンだったとは思うのですが、敢えてあのシーンを作った脚本作家と演出家に私は賛辞を送りたいと思いました。良心的リベラリズムが陥る罠をはっきりと朝ドラで可視化してみせたと思うからです。理解できない人は多かったのですけれども。

<追記>

最近は朝ドラのシナリオが放映翌週から発売されていて、誰でも読めます。該当箇所を読んでみたのですが、実際に放映されたものとの差異がありました。脚本の吉田恵里香さんがどこかで書いていたのですが、脚本にいろいろ書き込みすぎるので、編集段階で尺に収めるのに演出家に苦労させてしまっているとのこと。そのために『虎に翼』のシナリオと、実際の放送を付き合わせると、ちょこちょことシナリオが飛ばされています。今回問題にした場面では、穂高先生が挨拶の中で「佐田くん、あの時は本当にすまなかった」と寅子に向かって頭を下げるというシーンの前後が放映の中ではカットされていました。

カットされたシーンがあれば、各種SNSでの戸惑いの声が解消されたというつもりはありませんが、もう少し分かりやすかっただろうなと思いました。つまり、穂高先生の謝罪→その謝罪の拒否という図式がはっきりするからです。

尺に収めるための編集があのシーンを分かりにくくしたという側面はありそうです。

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