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メソポタミア民主制 『万物の黎明』 ノート24

メソポタミアで民主制があったと言われても「?」としか思えないでしょう。古代メソポタミアは聖書に描かれていたこともあり、帝国とか君主制のイメージが強い場所ですから。しかし、メソポタミアの最初期の都市には君主制の存在を示す証拠が無いと著者たち(二人のデビットなので以下はWDと略記)は言います。メソポタミアの都市の歴史は南部でBC3500、それより北側の土地ではBC4000以前に遡る可能性がありますが、都市ができて500年以上経ったBC2800以降になって、宮殿、貴族の埋葬、王家の碑文、都市の防御壁、民兵などが登場しています。つまり「初期王朝」が始まる以前から都市はありました。君主制は後から付け加わったのです。

そして賦役制度(労働奉仕制度)のような君主制の典型とされる事例ですら、その実態は私たちのイメージを覆します。メソポタミアでは賦役制度は万人の義務であり、支配者ですら奉仕義務がありました。メソポタミア人の視点では、神が人間を創造したとき以来の義務だったのです。ですから神殿建設には王、神官、役人も市民と共に粘土を入れた土籠を運んでいたのです。一種の祝祭であり、働いた後にはパンやビール、ナツメヤシ、チーズ、肉などが配給されていました。そして祝祭日には債務の帳消しが宣言されています。祝祭のひととき、市民たちは平等な「人民」となったのです。

さらに王朝開始前から続く制度として町会や合議体があり、のちの支配者たちもこれらを無視することができませんでした。これらの組織には男女が参加し、都市の「息子たちと娘たち」は自分たちの声を国政に届けていました。古代ギリシャに比較すれば、その力は弱かったかもしれませんが、古代ギリシャに比べれば奴隷の数は少なく、女性の排除も進んでいないので古代ギリシャより劣っていたということはなさそうです。

この民主制は地区評議会や長老集会という形でアッシリア、バビロニア、ペルシャ帝国の時代に至るまで続いていましたし、メソポタミアの外のヒッタイト、フェニキア、ペリシテ、イスラエルにも統治形式として広がっていました。古代オリエントで民衆合議体(ポピュラー・アセンブリ)を持たない都市はまったく無いとWDは言うのです。

旧約聖書に残虐な王として描かれる皇帝たちも、市民組織に完全な自治権を与えており、市民組織が自ら兵士や税金を調達して事業を行い、ときには統治者を翻弄していたことも文書から分かっています。町会は、殺人事件の裁判、離婚、財産争いを調停していました。とある殺人事件の陪審員の構成は、鳥猟師1名、土器職人1名、庭師2名、神殿兵士1名であったことが粘土板には記されています。

こうした合議体は居住区ー都市区ー都市全体というふうに階層化されていたらしいのですが、どのように機能していたのか、具体的には分かっていません。書面によるやりとりがほとんど無かったらしく、つまりは中央行政体から独立して運営され、報告も承認もなかったということのようです。都市住民は自己統治していて、それは王が誕生する前と後も変わらなかったのではないかとWDは推測します。また、ウルケシュの君主が都市評議会に手を焼き、寝首をかかれないかと心配している文書も発見されており、実際その君主は都市から逃亡しています。メソポタミアの都市住民たちは、攻撃的な支配者に対しては、逃亡するか、支配者を追放するかしていたのです。

王権が出現する前の都市の様子として、WDはウルクを取り上げます。BC3300年当時、ウルクは200ヘクタールの都市で他を圧倒しており、人口は2〜5万人と推定されています。文字が発明されたのも、この時代のウルクですが、文字の主目的は神殿の簿記でした。ウルクの最初の公共建造物である神殿は、一般世帯をモデルにしながら、それをスケールアップして「神々の家」としてプランされたものであり、実際には共同体の大集会場として使われたもののようだとWDは推測します。王権以前から民衆合議体があったとすれば、まさにこうした場所で集会が開かれていたであろうというのです。そしてそれはギルガメッシュ叙事詩で登場する合議体であろうとも言います。

比較として、BC5Cのアテネ、ペリクレスの時代の民衆集会では、くじ引きで任命された500人の評議員が着席し、自由成人男性6000〜12000人が起立して参加していたとされますが、これは当時の都市人口の20%程度の規模でした。これに対して、ウルクの集会所である<大中庭>ははるかに広大であり、参加者の割合はアテネより大きかったのではないか、女性も排除されていなかったのではないかとWDは推測します。

その後、BC3200年頃に公共建築物が破壊され、聖なる空間が再構築されています。BC2900には近隣都市国家間でウルクの支配権をめぐる争いがあり、都市の周囲に要塞としての壁が築かれ、数世紀のうちに都市の支配者たちは神々の隣人として宮殿を建ててレンガに名前を刻むようになりました。

ウルク・エクスパンション

文字は王の支配より以前から使われ始め、そのほとんどは官僚の簿記記録で、物財やサーヴィスの取引が記されていました。また、教科書も見つかっています。どうも「神々の家」では儀礼だけではなく、物財や工芸活動が管理され、教育が行われていたようです。さらには人間の労働力を標準的な作業量と時間の単位で計量化して記録していましたから、メソポタミアの「神々の家」は教会というよりも工房に似ています。

「神々の家」で組織化され、食事が割り当てられ、生産量を記録されていた労働者たちのリストには子供も入っているので、住み込んでいた人たちもある程度はいたようです。さらに都市の困窮者、未亡人、孤児などで構成されていたのではないかとも推測されています。楔文字の記録からは、乳製品、羊毛、パン、ビール、ワインが生産され、標準化された梱包のための設備も整っていましたし、80種類の魚も他の食料品と共に保存されていました。一般家庭で作られるものとは異なる加工品を生産管理していたものと推測されており、しかも中央行政の管理下に行われていました。この点、合議体で管理されていた公共事業や外交関係と異なります。つまり、現在であれば「経済」や「商品」と呼ばれるものの領域はトップダウンの官僚的手続のもとにありました。

もっとも、シュメール人は「経済」活動していると言う意識はなく、工房の仕事の目的は神々へ上質の衣食住を提供奉仕することにありました。その上質の布や食品が、肥沃な三日月地帯の高地の木材、金属、宝石類と何らかの方法で取引されていたのでしょう。ウルクは交易路の要所に植民都市を作りましたが、それらは商業的な前哨基地であると共に宗教的なセンターであり、北のタウロス山脈、東のザグロス地方(イラン)に及んでいます。考古学的には「ウルク・エクスパンション」と呼ばれており、暴力的な征服が行われた痕跡はありません。しかし、近隣の人々の生活を変化させ、都市の新しい習慣を積極的に広めようとしていたようです。神殿工房で品質管理されて円筒印章で品質された新しい衣服、乳製品、ワイン、毛織物が現地の住民に広められました。ある意味での植民地化です。

都市に対抗する英雄社会

ここで、少し脱線に入るのですが、WDの世界観の中ではとても大事な話題が挟まります。それは、こうしたウルク・エクスパンションに代表される都市文明の侵食に対する反動として「英雄文化」が形成されたのでは無いかと言うのです。(これはグレーバーの『負債論』でも議論されていました。)

WDが例にあげるのはトルコ東部のアルスランテペ(ライオンの丘)です。冬は雪に閉ざされ、広さが5ヘクタールを超えることもなく、数百人程度しか住んでいませんでした。ウルクが大規模な都市になったBC3300頃、ウルクのものとよく似た神殿が建てられましたが、数世代ののちに解体されて謁見の間と居住空間、武器庫を含む貯蔵エリアからなる「世界最古の宮殿」が建てられます。ウルクのような低地で作られていた武器とははっきりと異なる精巧な剣や槍先は武力礼賛を示唆しているとWDは言います。

BC3100頃からは、トルコ東部の丘陵地帯を中心として、金属製の槍や剣で重武装して、砦や小さな宮殿に住む戦士貴族が台頭してきた証拠が出ています。それと同時に官僚制の痕跡が消えてしまいます。豪勢な副葬品(武器、財宝、織物、飲食用の道具、部下)と共に葬られた墓も見つかり、しかもそれが氷河期の「プリンスの墓」ように孤立せず集中して現れており、戦死貴族階級が支配する社会が現れていたものと推定されています。

これはチャドウィックが「英雄社会」と呼んだものの、歴史上最初の登場でしょう。とすると、英雄社会は、官僚制に秩序づけられた都市の周辺で生まれたのではないかという推測が成り立ちます。チャドウィックは1920年代に、北欧のサガ、古代ギリシャのホメロス、古代インドのラーマヤナなどの叙事詩は「都市文明と接触し、その文明に仕えつつも、最終的にはその文明の価値観を拒絶する人々」から生まれているようにみえるのはなぜかと言うことを考察しました。叙事詩は人々の空想のなかの出来事とはされていますが、考古学者たちが発見した英雄的埋葬では、宴と酒、男性戦士の美しさと名声を重視する文化が示されます。それがユーラシア大陸の青銅器時代に、都市生活の周縁部に繰り返し現れています。そのパターンは、北米北西海岸のポトラッチ社会やニュージーランドのマオリ族とも共通する貴族的なものであり、中央集権的な権威や王権は不在です。多数の英雄的人物が家臣や奴隷を巡って激しく競い合うのです。ここでの「政治」とは個人間の忠誠心と復讐心から形成される負債(貸し借り)の歴史です。さらにはゲーム/競技会が政治的生活の中で重要視もされ、膨大な戦利品や富が演劇的パフォーマンスのうちに浪費されます。

英雄社会は文字にはっきりと抵抗した社会でもあり、記憶術と口承の技術を重んじました。通貨は避けられ、物質的宝物が重視されます。つまり、世界最初の「英雄社会」は、世界最初の大規模な都市が作り出した文化圏の周縁部に現れたのであり、貴族政治そして君主制はメソポタミア平原の平等主義的な都市に対抗して現れたのだとWDは言います。その対抗意識は、ゴート族のアラリックがローマに、チンギス・ハーンがサマルカンドに、ティムールがデリーに抱いた意識と同じであったろうというのです。それは複雑だけれども、突き詰めれば敵意と殺意です。

そして本書では、はっきりと書かれませんが、民主制のメソポタミアの諸都市に現れた君主たちも、そうした英雄社会から出てきて都市にやってきた人々だったのでしょう。

『万物の黎明』について(目次のページ

<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22
ダンバー数を超えると都市は出来るのか?『万物の黎明』ノート23
メソポタミア民主制『万物の黎明』ノート24(このページです)

<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)


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