ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
前回のノート(北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった)ではヨーロッパ啓蒙思想で強調された「自由と平等」が北米インディアン由来であるという、意外な話が展開しました。17-18世紀のヨーロッパは自由でも平等でもない社会でした。そこに啓蒙思想が人類の理想としての自由と平等を喧伝したのですが、その発端は北米インディアンからの批判だったというのです。
啓蒙思想家たちは、北米インディアンや他の「未開人」たちの視点を借りて、自由でも平等でもないヨーロッパ社会を批判しますが、やがてチュルゴーという重農主義経済学者が、社会進化論という考え方の中でそれらのヨーロッパ社会批判を反論していきます。
チュルゴーは「われわれはみな自由と平等という観念を愛している」と断った上で以下の議論を展開しました:
(北米インディアンの)ウェンダットの人々が自由で平等なのは自給自足でだれもが平等に貧しいからだ。
しかし社会が発展すれば技術も進歩し、複雑な分業体制となり文明化されていく。
嘆かわしいことではあるが、一部の人間が貧困と窮乏に苦しむのは社会全体の繁栄のために必要なのである。
チュルゴーは、狩猟者→牧畜→農耕→都市商業文明という順番で社会は必然的に発展していくとしています。これが友人のアダム・スミスに取り込まれ、そこから広がって人類史の一般理論に組み込まれることになりますが、要は未開人の平等主義的社会は進化の底辺に格下げされ、ヨーロッパ文明の対等な対話の相手とはみなされなくなったということです。「彼らは貧しいから平等なのだ」ということです。啓蒙思想家たちは平等社会のイメージを脱中心化して、ヨーロッパの優越感を取り戻したともいえます。ルソーはこの考え方を取り込みます。
18世紀フランスでルソーが出入りしていたサロンやサークルで論じられていたのは、次のような話題でした:
自由と平等は普遍的な価値なのか?
それは私有財産制度とは相容れないのか?
芸術や科学の進歩は道徳的進歩につながるのか?
先住民の批判のようにフランスの富と権力は不自然で病的なのか?
などです。元々作曲家だったルソーは『学問芸術論』で社会思想家として注目を集めました。そして1753年に、ディジョンのアカデミーの懸賞論文に投稿したのが『不平等起源論』です。このなかでルソーは「最初の人間は本質的に善良であったが、互いの暴力を恐れて組織的に互いを避けていた孤立した存在」だとしました。そうした孤立した存在が言語で意思疎通を行うようになり、社会を構成した段階で自由の束縛が始まったとルソーは書いています。さらに、所有関係の出現によって人類に「恩寵からの転落」が起こったとしました。つまり人間社会のモデルとして3段階を想定したのです:
1.個人が孤立して暮らしていた自然状態
2.言語の発明に続く石器時代の「未開」の段階(北アメリカ先住民はここに含まれる)
3.農耕と冶金の発明に続く文明の段階
そして2と3の段階で道徳的衰弱が起こったとしました。
ルソーはラオンタンも『イエズス会書簡集』も直接引用していませんが、明らかにそれらの影響を受けています。ルソーは土地所有が堕落のきっかけであったと描くと同時に、アメリカ先住民が投げかけた困惑と疑問を繰り返していからです。つまり、なぜ物財の不平等によって(つまり金の力によって)、他人の行動を指示したり、使用人や労働者や兵士として雇ったりして、路上で死にかけている同胞を放置しても平気でいられるようになるのか。なぜヨーロッパ人は競争心が強いのか、なぜ他人の命令に服従するのか。そう問いかけるのです。カンディアロンクを繰り返していることは明らかでしょう。
著者たち(二人のDavidなので以下WDと略)の見立てでは、この論文は18世紀ヨーロッパの切実な社会的・道徳的関心事について3つの矛盾した立場を巧みに和解させています;
先住民による批評の諸要素
聖書の「失楽園」説話の雰囲気
チュルゴーらの社会進化論(我々は社会進化故に不幸になったが、それは仕方がないことだった)
の3つが巧みに組み合わされているのです。
ルソーは文明化したヨーロッパ人が残虐な生き物であり、所有が問題の根源であるというカンディアロンクの見解を踏襲していますが、同時にチュルゴーの進化論に与して、それは仕方がないことであり、人類は堕落していくしかない存在なのだとしています。
ルソーおよび、ルソーが属したヨーロッパ社会において真の自由とは、他の人間には一切依存しないことを意味します。自由になるためには全てを自分で持っている必要があり、つまり生きていく上で必要なものを所有している必要がありました。自由の概念が「所有」と分かち難く結びついているのです(WDはこれをローマ法に由来するとしています)。人は自由を欲して所有を試み、その結果として自由を失ったというのがルソーの描いたパラドックスでした。、所有することで「自らを縛る鎖に飛びついた」とルソーは書いています。
そしてウェンダットのような相互扶助に基づく「自由」な社会がルソーには想像はできません。ウェンダットでは相互扶助によって生活が保証されていたが故に人は自由に生きることができました。住んでいる村が嫌になれば、旅に出て同じトーテムの村を見つければ良い。歓待義務の掟により彼は必ず受け入れられるからです。
ルソーに限らず啓蒙主義者たちは、先住民によるヨーロッパ批判を受け取りはましたが、所有以外のものに基礎をおいた(ウェンダットのような)社会が実際にありえるという感覚を取り零していたのだとWDは指摘します。
ルソーが称揚し理想化した「自由と平等」はフランス革命の旗印になり、それと同時に、ルソーは保守派からの攻撃対象になりました。保守派からみれば、革命という名のテロと全体主義がもたらしたのがルソーの思想だと考えられたからです。じっさい、アメリカ独立革命やフランス革命期の政治的ラディカルはルソーの(私有財産性批判と進化主義とを融合させて、国家の起源を説くという)論法を踏襲しています。
しかし、「進歩のように見えるものが道徳的衰弱へとみちびいていくものである」というルソーの見解は、本来、保守の立場です。それなのに、ルソーが政治的左翼の生みの親とみなされて右翼の嫌われ者になっているというのは皮肉というしかありません。
ルソーは未開人を思考実験で還元し「何も考えない」人々として描きました。彼らが何を感じていたのかを不問に付したのです。彼らには、物事の別のありようを想像したり、未来のことを考えることができない。だから、彼らは幸福なのです。そして最初に土地が囲い込まれたときも、何もしなかったというのがルソーの描いた「未開人」のイメージです。
ルソーは結局のところ「愚かな未開人の神話」を広めてしまったのです。彼がなした有害な行為があるとしたら、それでしょう。19世紀の帝国主義者たちは、このステレオタイプを使って、多くの人々の自由を奪う口実を練り上げました。本書で試みるのは、この「愚かな未開人の神話」の解体だとWDは宣言します。
<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)
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