パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
前回の「ノートその3」では、色々な考古学的証拠が反例を出しているのに、新石器革命(農耕革命)という概念について「細かいところは修正されているが、大筋は正しい」ことにされている現状と、WDが本書で「大筋自体も怪しい」と指摘していることを説明しました。本書の訳者である酒井隆史さんは、とある動画でこの状況を「パラダイムシフト」という言葉で説明しています。
この言葉自体は最近の企業研修などの世界でも頻繁に用いられる言葉であり、かなり手垢がついた言葉ではあるのですが一応説明しておけば、「パラダイム」はある時代を支配する思考の枠組みであり、「パラダイムシフト」とはその思考の大枠が変化する時点を指します。よく引き合いに出されるのが天動説から地動説へのパラダイムシフトです。天動説は地球の周りを太陽や惑星が回っているという宇宙モデルですが、木星や金星は天球上を速度を変えながら行ったり来たりしているように見えます(なので、「惑う星」=「惑星」と命名された訳ですが)ので、周転円というものが考え出されました。地球を中心とする円(導円)の上を中心とする周転円の上を惑星が動いているとするのです。これはこれで観測値とそれなりの整合性を見せていました。
これ対して、地動説は太陽の周りを地球や他の惑星が回っているという考え方ですが、コペルニクスがこれを言い出した時の観測値との整合性は周転円モデルによるものと似たようなものだったとされています。確かに周転円を使う天動説モデルよりも地動説モデルのほうがシンプルなのですが、より正確に惑星の位置が計算できるというものでもありませんでした。
事態が変わるのは、約1世紀後にケプラーが惑星の軌道が太陽の周りを楕円軌道で巡っていることを突き止め、それに基づいて計算した結果がおそろしく観測値と一致した時です。天文学者達はもはや天動説に与する理由を失い、ここで、ようやく天動説から地動説へのパラダイムシフトが起きます。考え方の枠組みが大きく変化したのです。
20世紀までの人類史の通説は、「ノートその3」でも示したように、新石器時代に農耕が開始されたことで人々がそれまでの狩猟採集生活を捨てて定住を始め、その結果として人口が増えて都市が作られ統治者が現れ、それが大きくなって国家や王となり階級が生まれた、農耕開始以前の狩猟採集時代の人々はバンドと呼ばれるせいぜい数十人程度の数家族の集団で移動しながら暮らしていた、などというものです。ついでに書けば、ルソー『人間不平等起源論』で描かれたように農耕の開始が私有財産制度を生んだという説は現在も暗黙に了解されているようです。
ところが、著者達(二人のDavidということで以下WDと訳します)によれば、ここ数十年間の考古学調査によって以下のようなことが明らかになってきたとされています。
農耕開始以前の人類社会は平等主義的な小集団(バンド)だけではなかった
農耕開始以前の狩猟採集民は大胆な社会実験を繰り返しており、あらゆる政治形態をとっていた
農耕によって私有財産が誕生したわけではなかった
私有財産によって不平等社会に不可逆的に進んだわけでもなかった
最初期の農耕共同体の多くは身分やヒエラルキー(階級)から解放されていた
世界最古の都市の多くは平等主義的に組織されていて、統治者がいなかった
本書の中でも何度か繰り返されますが、「大きな理論」に対する反例が出てきても、多くの場合は「例外」扱いされたり、理論を微修正したりしてやり過ごされます。しかし、例外が増え過ぎたり、修正箇所が増えすぎて「大きな理論」もしくは史観の整合性が問われるようになれば、どこかでパラダイムシフトは起きることでしょう。
もっとも、本書『万物の黎明』がパラダイムシフトを引き受ける「大きな理論」を示したか?と言われると、私は少し躊躇します。WDが繰り返して強調するのが「人類はその初期から様々な社会政体を試みてきた」ということであり、これは「一般法則は無い」と言ってるようにも聞こえてしまうからです。ケプラーが楕円軌道モデルで惑星の位置を正確に計算できるようにしたように、WDが人類史の理解を深めるための方法論を提供したのかについては、専門家の方々の応答を待つしかなさそうです。
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
『万物の黎明』読書ノート その0
『万物の黎明』読書ノート その1
『万物の黎明』読書ノート その2
『万物の黎明』読書ノート その3
『万物の黎明』読書ノート その4
『万物の黎明』読書ノート その5
『万物の黎明』読書ノート その6
『万物の黎明』読書ノート その7
『万物の黎明』読書ノート その8
『万物の黎明』読書ノート その9
『万物の黎明』読書ノート その10
『万物の黎明』読書ノート その11
『万物の黎明』読書ノート その12