『万物の黎明』読書ノート その3
第3章「氷河期を解凍する」要約
第3章では氷河期の人類社会について、つまり旧石器時代中期から後期にかけての人類社会が議論されます。ようやく本論という感じですが、序論的要素も多々含まれています。特にここでは「季節変動社会」という考え方が提出されており、本書の中で重要な役割を果たしますが、先走るのはやめておきましょう。
具体的にWDがここで論じるのは、人類の原初的な形態がまず現れて、そこから様々な社会が現れたという一般的な見方を否定して、人類は最初から様々な社会形態を経験してきたのだという考え方です。
「人類の起源」に関する物語は「神話」と似たような機能を果たしています。わたしたちの「集団ファンタジー」の舞台を提供しているのです。人類が石器を使い始めてからの300万年間に出てきている証拠物はあまりにも僅かであり、そこを想像力で埋めようとして出てくるのが、たとえば、史実から追い出した筈の聖書の説話です。「ミトコンドリア・イブ」の存在が推定されて話題になったとき、ポピュラーサイエンスの世界では「彼女」をエチオピア大地溝帯に生きたものと想定して「現代のエデンの園」「人類の原初の孵化器」「サバンナの子宮」などの言葉を並べ、東アフリカのたった一人の女性から多様な民族に(バベルの塔の説話のように)拡散していったようなイメージを私たちに植え付けました。
しかし最近の研究では、それとはまったく違うイメージが形成されつつあります。アフリカの初期人類には、物理的な多様性があったのです。現代のホモサピエンスはかなり均質な存在ですが、20〜30万年前は、そうではありませんでした。そして初期人類はアフリカ東部のサバンナに限定して生きていたわけでもなく、モロッコから希望峰まで分布して地域差も激しかったのです。身長差や体格差が激しく、エルフと巨人とホビットが同時期に住んでいるようなものでした。それらはかなりあとになってから合流しで、今の現生人類に繋がっていったとWDは「最近の」自然人類学の成果を要約しています。
サピエント・パラドックス
ホモサピエンスの遺伝子基盤は約20万年前に確立してますが(ノート注:原文では50万年前としていますが、これはたぶん間違いでしょう)、「文化」の直接証拠は10万年以上を遡りません。南アフリカで約8万年前の遺物が見つかり、世界各地で4万5000年前頃の遺物が大量に見つかったために、このときになんらかの出来事があったとされ、それは「後期旧石器時代革命」とか「ヒューマンリヴォリューション」と呼ばれます。しかし、ホモサピエンスの発生からこの出来事までに長い時間がかかっているのは何故なのか。こうした問いかけは「サピエント・パラドックス」と呼ばれてきました。
WDの見解は、「たまたまヨーロッパでその時期に大幅な氷床の移動があったことと、他地域に比べてヨーロッパでの考古学調査が進んで遺物の発見が多かったことから、そのように見えたというだけ」というものです。現在、ヨーロッパ以外の各地で4万5千年より以前の遺跡や遺物が続々と発見されていて、ヨーロッパはむしろ遅れていたという見解すらあるのです。
ということで、WDは「後期旧石器時代革命」というイベントがあったことを否定して、人類はそれ以前から変わっていないという見解を示します。
人類の「支配ー服従」という性質と、それを回避する性質
WDの議論は、近年に見つかった、後期旧石器時代(5万年前〜1万5千年前)の豪勢な埋葬、大規模な共同住宅などの存在をめぐって展開します。大規模な共同住宅の存在は「小集団社会」というイメージを完全に覆していますし、立派な副葬品に身を包まれた埋葬の存在は階層社会(ヒエラルキーのある社会)の存在を推定させ、実際にそう考える人も出てきています。つまり「平等主義的な狩猟採集民の小集団社会」のイメージは完全に覆ったと言うのです。とくに進化心理学者は人間の遺伝子には支配せんとする行動がもともと組み込まれているのだという説を展開しており、従来のルソー流の歴史観に対してホッブス流歴史観が対立することになります。
ここでWDは、クリストファー・ボーム(霊長類学、進化人類学)の説に言及します。彼は人間の本能に支配=服従行動をとる傾向があるとする一方で、人間にはそのような行動を意識的に避ける能力もあるとして、それが人間社会の特徴でもあるとしました。偉ぶりたい人間、いじめ体質の人間に対して、嘲笑する・顔をつぶす・避ける・殺すなど多種多様な戦術がとられることが平等主義的狩猟採集民には観測できています。他の霊長類では、こうした行為は観察されておらず、これは人間の特徴と考えられます。「もしそれをしなかったら、この社会はどうなるのか」ということを考える人類の能力こそが、政治の本質であるとボームは言うのですが、これはアリストテレスが人間を「政治的動物」と表現したことにも通じています。
WDは、このボームの説に大変注目していますし、本書の中で基底をなす考え方として採用もされているのですが、肝心のボームは人類は長い間平等主義的だったが、農耕の開始とともに階層社会に転じたとしました。WDは、この結論は落ち着きが悪いし、特に考古学的証拠と合致していないとして退けます。
豪奢な埋葬の例
氷河期の豪奢な埋葬はヨーロッパ各地で、発見されています。遺体を装飾品で飾った、個人や小集団の孤立した埋葬が見られるのです。例えば、ロシア北部のスンギルやモラヴィア盆地のドルニー・ヴィエストニツェのものは34000〜26000年前のものです。
またイタリアーフランス国境近くの洞窟墓群の「イル・プリンチペ(王子)」は王族の埋葬のように見えたことで、そう呼ばれることになりました。
こうした埋葬で見られる副葬品の作成には膨大な労働力が投入されたことが推定されおり、階層社会の存在を強く推定させるものでした。
巨大モニュメントの例
氷河期の巨大モニュメントといえば、なんといってもトルコのギョベクリ・テペ(BC9000- )が挙げられます。(厳密には氷河期の終わりかけの頃ですが。)
高さ1.6m重さ1トンのT字型の200本以上の石柱が立ち、粗石の壁でつながっています。柱には様々な動物の図象が彫られてもいます。彼らは農耕をしていない狩猟採集民でしたが、社会的階層があったと推定されています。
その他にも、ポーランドからウクライナにかけて、マンモスの牙や骨から組み立てられた円形の構造物が残されています(25000〜12000年前)。高さ40メートルに及ぶ木製の囲いも発見されています。住居とは考えられておらず、純粋にモニュメントだったのでしょう。こうした各モニュメントで使われたマンモスは、数百人が3ヶ月間食べられるだけの肉の量だったと推定されています。また、この地域の平地集落は琥珀や貝殻、毛皮などの遠隔地交易の中心地でもありました。
こうした建造物は規模の大きさといい、洗練されたデザインといい、労働力が組織化されて、調整されていたことは疑いがありません。
こうした証拠から、氷河期時代から王朝のようなものが存在したと言い出す人もいますが、それは正しくないとWDはいいます。豪奢な埋葬は数世紀間隔で、場所的にも散発的に現れるにすぎないからです。世襲権力には見えないのです。
未開人は意識的な思考ができないという偏見と、「未開人」の自覚的政治意識に注目した人類学者の例
現代の思想家たちは、未開人を描くときにサルに例える場合が多いです。ここではユヴァル・ハラリの『サピエンス全史』(2014)から引用されていますが、あたかも初期人類は意識して物事を考えることがなかったかのように描かれます。これも一種のサピエント・パラドックスではないかとWDは言います。現代人と同じ大きさの脳を持っていた初期人類は数万年間、物を考えなかったというのも同然だからです。
西洋哲学はその長い伝統の中で「合理的で自己意識をもった孤立した個人」を人間の初期設定とみなすようになりました。さらに18世紀から19世紀にかけて、アメリカ革命やフランス革命を経た歴史的成果としての政治的自己意識が出来たのだと見做すようになります。ということは、それ以前の人々は伝統や神の意思に盲従する者ということです。「合理的」な西洋人と違って、「未開」の人々は政治的自己意識を持たず、意識的思考もできず「前論理的心性」で動く「神話的夢想世界を生きる」人々というわけです。
第2章で紹介した、17世紀のウェンダット族のカンディアロンクからみたら驚くに違いないとWDはいいます。彼らは自らの社会を意識的な合意によって形成された連合体だとみなしていたからです。ところが19世紀も末頃になると、そもそもカンディアロンクは架空の人物だと言われるようにすらなります。未開人があんな言い方が出来るわけがなく、「高貴な未開人」幻想に過ぎないということにされるのです。
こうした見方は現代でも払拭されていないとWDは論じます。ここで彼らが問題とするのは、「未開人」も自覚的に政治的思考をおこなっていたという可能性が、現代の思想家たちには思い至らないこということです。もちろん例外はあり、ここからは、そうした偏見から逃れてきた思想家たちの系譜が語られます。
まず最初にあげられるのが、ポール・ラディンの『哲学者としての未開人』(1927)で、彼はここで「北アメリカ先住民は我々よりも思慮深い」としました。ここでラディンが参照しているのはウィネベーゴ族です。
ここで話が少し脱線します。変人扱いされていたラディンが、未開社会が「変わり者(エキセントリックな人)に寛容な社会」であることに注目していたという話をWDははじめます。ウィネベーゴ族において神や霊を否定する、儀礼を拒否する、長老たちの知恵を否定するなどしても、馬鹿にされこそすれ処罰されたり、彼を矯正したり、狩の分け前を与えないなどの罰が与えられることはないのだそうです。どんな社会にも変わり者はいますが、その変わり者がどう扱われるかは社会によって異なります。そして、こうした変わり者たちは霊的人間として新しい思弁体系を作り出したり、社会の危機に際しては能力を開花させることもあるのです。
そこで引用されるのがトーマス・ビーデルマンによるヌアー族(南スーダンの牧畜民)の報告です。この社会では型破りな政治家、他所者の祭司、狂人の預言者。そうしたズレた人間たちのストックから、社会的危機の際のカリスマ指導者が現れたとするのです。特に預言者は奇妙な行動をする人たちであり、我々の社会からみれば精神的に病んでいるとしか見えません。しかし、疫病や外敵の侵入などの大災害や未曾有の危機に対してはこうした一群の変わり者の中から指導者が現れたというのです。
これらの脱線にもみえる話のポイントは「社会の危機に備えて、変わり者をストック(備蓄)しておく社会」です。
次に紹介されるのは、クロード・レヴィ=ストロースです。初期人類と我々は知的に対等だという考えをレヴィ=ストロースは受け止めた数少ない思想家だとWDは強調します。(彼の『野生の思考』はあまりにも有名です。)レヴィ=ストロースはブラジル時代に、マトグロッソ州のサバンナで農耕と狩猟採集をしていたナンビクワラ族を調査しました。彼はナンビクワラ族は素朴な人間集団であるから旧石器時代を知る手がかりになるという当時の通説を退け、むしろ私たちの政治意識を洞察するための手掛かりになるとする論文を書いていた(1944年)ことをWDは指摘しています。
レヴィ=ストロースはナンビクワラ族の政治的成熟に感銘を受けました。個人的野心と社会的利益のバランスをとりながら二つの異なる社会システムを往復する冷静沈着な機転は(つまり季節によって、政治的立場を切り替えて権威主義的リーダーの顔と寛容な世話人の顔とを使い分けたのは)、自己意識的な政治アクターだからこそ出来るというのです。
レヴィ=ストロースは世界で最も著名な人類学者になりましたたが(現代思想の上でも彼の構造主義は一時代を成しましたが)、この論文は埋もれて忘れられていたとWDは指摘します。人類学の大勢がそういうことに興味を持たず、「未開人は小集団で生活し」「大いに動き回り」、紛争は「分裂」によって解決されるといった、「狩猟採集民はかくあるべし」というイメージを実測データで補強していたからです。いわばルソー流の人類史観が大勢を占めていたということです。
以上、未開人たちへの偏見を持たざれる人類学者の研究から、20世紀のウィネベーゴ、ヌーア、ナンビクワラ族の例をみてきました。これらの社会が初期人類について直接の手がかりを与えているという訳ではありませんが、調査の切り口を与えてはくれるとWDはいいます。その二つの切り口とは:
・初期人類の社会では社会構造の季節変動はあったのか?
・初期人類の社会では特異な個人が政治的役割を果たしたのか?
なのですが、WDは答えは「イエス」だとして話を続けます。
豪奢な埋葬について
氷河期時代の豪奢な埋葬は「不平等」や「世襲貴族」の証拠として解釈されています。しかし、その多くが先天性の形態異常を示していることは考えねばなりません。そして、そうでない遺体も骨に異常が残らない、例えばアルビノ(白子症)や精神的異常者だったのかもしれないのです。
まず、世襲制の階層社会があったという考え、巨人とか小人症とかの世襲王権があったというような考え方は無理です。そもそも死後の扱いと生前の扱いが連動していたのかどうかもわかりません。
また、社会格差の存在を推定するのも無理があります。そもそもほとんどの人間は埋葬されていなかった時代なのです。服を着せたまま埋葬するのは異例の処置でした。そしてその埋葬はマンモスの骨、木の板、石などの重量物で死者の身体を封じ込めているようにもみえます。豪奢な衣装によって死者を称えているようにも見えますが、潜在的な危険なようなものを封じこめているようにも見えます。民族誌的にみても異常な存在が高貴であると同時に危険なものとして扱われる事例は多く見られます。
ということで、豪奢な埋葬から分かることはほとんどないのですが、音楽、彫刻、絵画、複雑な建築となにがしかの関係があることは確かなことだとWDはしています。
季節性の問題
ここで唐突にWD は季節性の問題に話題を切り替えます。レヴィ=ストロースが論じたナンビクワラ族同様に、ここで論じている氷河期のモニュメント建造物を残した人々も季節性変動のある生活をしていたと考えられるからです。獲物の群れの移動に伴う季節性の狩猟もあれば、やはり季節性の木の実の採集のための移動もありました。野生資源が豊富な時期には、宴を催して、野心的芸術プロジェクトに取り組んだり、鉱物や貝殻を取引したと考えられます。
ギョベクリ=テペを作った社会にも季節的変異がありました。ガゼルの大群が降りてくる真夏から秋にかけて、人々はギョベクリ=テペに集まって、大量の木の実や雑穀を集めて祭りの食材としましたし、ギョベクリ=テペの建設に携わりました。祝祭と労働のために集まっていたのです。
このような季節性移動は農耕開始後にも見られました。WDはストーンヘンジの例を挙げます。
夏至と冬至にブリテン諸島一円から人々が集まり、祝宴を開いてストーンヘンジの建造が進められました。構造物の多くは構築後数世代で解体もされています。彼らは農耕民だったこともありましたが、穀物の栽培を放棄してヘーゼルナッツの採集に回帰していました。農耕の放棄は外部から強制されたものではなく自覚的に行われたもののようで、ブタやウシなどは飼い続け、冬になるとダーリントン・ウォールズに数千人規模で集まり、ごちそうを食べて、夏になるとそこから去りました。
ブリテン島の農耕の放棄は自覚的決断としか見えません。外部圧力があったという証拠がないのです。建材となる巨石と、宴会用のブタやウシなどの家畜は遠くから運ばれてきており、ブリテン島内で差配されていたことは確かです。ストーンヘンジは有力一族の祖先を祀るモニュメントだという意見が有力視されていて、その一族による権力の存在が推測されます。しかし、王のような存在があったとしても、それは数ヶ月のことでしかなかったでしょう。それ以外の時間、人々は分散して狩猟採集生活を送り、王は自らの権力を放棄したのでしょう。
となると、その「王」は王権を行使したり、自覚的に放棄していたということになります。これはレヴィ=ストロースの描いたナンビクワラ族の自覚的政治意識と似てないかとWDはいうのです。つまり支配権は自然の摂理によって与えられたものというよりも、人間の介入の余地があるものとみなしていただろうということです。
レヴィ=ストロースがナンビクワラ族の季節変動社会を論文に書いた頃は、こうした社会の「二重形態」は人類学でよく知られていたといいます。
<エスキモー社会の季節変異の例>モースとボーシャによる1903年の論文によれば、夏と冬の社会構造があって、二つの法と宗教があったことになります。夏は20〜30人の小集団に分かれ狩猟と漁労を行い、財産権が設定され家長は専制的な権力を行使しました。冬になると集合して大きな集会所を建てて、平等と利他主義の集団生活が営まれ、富は共有され、夫婦はパートナーを交換しました。
モースは、イヌイットがそうした生活を営んでいる理由は、彼ら自身の選択だったとしています。似たような環境で生活する別の種族は、また別の生活様式をもっているからです。
<カナダ北西部沿岸クワキウトロ族の例>ボアズの論文によれば、冬になると、社会のヒエラルキーがくっきりと現れ、海岸線に板張りの宮殿が出現し、ポトラッチ(大宴会)が開かれました。夏の漁期には宮殿は解体され、部族単位の小さな集団に分散します(弱い身分の分化は残っています)。人々は夏と冬で別々の名前を名乗り、時期によって別人になりました。
<グレートプレーンズ諸部族(シャイアン、ラコタ)の季節変動>ローウィの論文(ローウィはボアズの弟子でラディンの親友)によれば、かつては農耕民だったのが、農耕を放棄してスペイン人の残した馬を飼い慣らして遊動生活を採用しました。夏から秋にかけて大規模な集落に集まりバッファロー狩の準備を始め、警察官を任命します。警察官は狩を危険に晒す行為を行うものを投獄し鞭を打ち罰金を科すなど権力を持ちました。彼らの権限には死刑もありました。しかし、狩の時期が終わると「バッファロー警察」は解散し、部族全体も小集団に分かれてそれぞれに移動生活を送りました。そして、同じ人間が翌年もバッファロー警察に任命されることが無いように人選は慎重に行われ、順番も決められていました。
ローウィの主張はこうです:「平原インディアンは国家を持たない人々だったが、国家がどういうものであるのかは十分に承知していた。彼らは「意識的な政治アクター」であり、権威主義的権力の危険性を鋭く認識していた。」
20世紀前半の人類学では季節変異をもった「二重形態」社会の存在は常識だったとWDはしています。それが1960年代に入って初期人類、あるいは未開人の集団は小集団だったという「常識」が浸透したのです。一種のバックラッシュなのでしょうか?。しかし社会は必ず一定の進化段階を経るはずだという社会進化論では、季節変動をもつ狩猟採集民の存在をうまく説明できません。彼らは季節変動の中でバンドと国家を行ったり来たりするからです。進化したり退化したりすることになり、これは馬鹿げています。
レヴィ=ストロースは社会構造の季節的変動と政治的自由の間には結びつきがあることを論じました。WDもまた、季節変動する社会の中では、人々は社会構造の枠組みを相対化して思考を巡らせる能力を得たはずだと断定しています。
ここで、話がようやく豪奢な埋葬に戻ります。そうした政治的自意識は、最終氷期の「プリンス」「プリンセス」が過剰なコスプレをして、孤立した場所と時間で出現することも説明できるとWDはします。彼らが実際に「プリンス」「プリンセス」だったとしても、それはおそらくほんの一季節の間のことだったのだろうと推測するのです。
基本的には正しかったクラストルが見落としていたこと:
国家なき社会の人々は政治的自己意識については現代人と同じだというのがレヴィ=ストロースの見解でしたが、彼の弟子のピエール・クラストルはさらにそれを推し進め、現代人より政治的自己意識ははるかに高く、彼らは意図的に国家を避けていたと主張していました。(『国家に抗する社会』という本が有名です。以前のノート注参照。)
アマゾンの首長たちは本物の政治権力を行使できないようになっていたとクラストルは描きました。首長は気前よくあらねばならないとされ、村の皆にすべてを振舞うよう期待されています。その期待に応えるために彼は村で最も貧しい男になりますし、村の誰よりも働かなければなりませんでした。だから首長も村民も政治的アクターなのであり、こうして恣意的権力や支配が出現しない「国家に抗する社会」が形成されているとクラストルは主張しました。
もちろん、反論はありました。代表的なのは「まだ出現していない社会をどうやって彼らは想像できたのか?」ですが、簡単な反論としてWDが提出するのは「アマゾンの諸部族が西にあったインカ帝国の社会を知らないわけがない」というものです。狩猟採集民は相当の距離を移動しますからインカのことも見聞きした筈だとします。あるいはインカ以前にもアマゾンには大きな政治体制が引かれていた時代があり、その記憶が残っていたとも考えられます。
WDのもう一つの反論は「季節変動社会の住民は、ヒエラルキーのある社会を十分想像することができた」というものです。この点、クラストルは狩猟採集民たちの季節変動について一切言及していません。おそらくは、季節変動のパターンも様々なのでそれに言及すると、話が複雑になりすぎるから避けたのだろうとWDは推測しています。たしかに季節変動社会の単一のパターンは存在せず複雑です。しかし、社会が変異する結果、異なる社会可能性が認識されることは共通します。
平等的社会と階層社会を季節変動で行ったり来たりしている社会で「不平等の起源」を問うのは無意味です。問うべきなのは「なぜ私たちは閉塞したのか?」であるとWDはいいます。これは
なぜ社会が単一のありように帰着したのか?
なぜ政治的自己意識が失われたのか?
なぜ地位や従属を季節的演技ではなくて人間の不可避の要素として受け入れたのか?
ゲームはいつからゲームであることが忘れられたのか?
などの問いを総括した表現なのですが、「これこそが問うべき真の問いである」として、これを以降の章で論じていくとしています。
ここでWDが付け加えるのは、社会の季節変動と政治的自己意識の可能性は現代にもごく弱い形で残ってはいるということです。たとえば、フランスではヴァカンスの時期に人々は一斉に仕事を離れて都市から脱出します。カーニヴァルの期間には、社会秩序は逆転します。あるいは厳粛な儀式が行われるとき、過去のヒエラルキー社会が模倣されます。それは大学の卒業式で皆が中世風の服を纏うことを考えてください。そこに一貫したパターンは存在しないのですが、そこには政治的自己意識の古くからの火種が保持されているのだとWDは言います。ブリテン島では多くの農民反乱がメイデイの祝日にはじまっていたことは示唆的です。
季節ごとの祝祭は季節変動社会の弱々しい残響なのかもしれないとWDは書きます。さらにそこから進めてWDは、最初の王は、カーニヴァルでの遊戯王(カーニヴァル・キング)だったのかもしれないという推論を提出します。その遊戯王が、のちに本物の王になったのだとするのです。さらに「現代は、ほとんどの王が遊戯王に戻っている」という皮肉も付け加え、今後も「王様ごっこをする人間は依然、絶えないであろう」とします。
「人類の幼年期」と決別しよう
この章の最後で、人類史の発端を平等主義に置くか、ヒエラルキーに置くか選択する必要はないのだとWDは力説します。そういう「人類の幼年期」(人類が幼かった時期)を想定する必要はなく、初期人類は今の私たちと同じくらい賢かったことを認めるべきだというのです。
それでは、何千年間の間ヒエラルキーの構築と解体をくりかえしてきたホモ・サピエンスであったのに、なぜ現代の我々は永続的で御しがたい不平等の社会のなかにあるのでしょうか?それは農耕開始の結果なのでしょうか?都市への定住の結果なのでしょうか?土地所有の結果なのでしょうか?そしてそれらが、いつ起きたのでしょうか?そういう問いかけは愚かなことなのか?そういった問いかけとともにこの章は終わります。
ということで、この章は氷河期の人類史についての章だったのですが、「季節変動社会」と「政治的自己意識」という二つのキーワードを使った序論的性格を持つ章でもありました。驚くべきことに、次の章も序論的性格を持つ章となります。
(その4に続く)
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