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世界最古の公営住宅事業? 『万物の黎明』ノート26

本書は様々な考古学事例を繰り出してくるのですが、その中のひとつにヒエラルキー(階層社会)を作らないままに公営住宅事業を行った、メキシコの
テオティワカンの話があります。

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メキシコ盆地には12世紀から栄えたアステカ帝国(アステカ3都市同盟)が有名ですが、アステカを作ったメシカの人々がそこにやってくる遥か以前に、メシカの知らない人々によって建設され、打ち捨てられていた都市ティオティワカンがありました。壮麗な二つのピラミッド(太陽のピラミッドと月のピラミッド)が聳え、大きな街路(死者の大通り)を備えており、今もその威容を見ることができます。

太陽のピラミッドと月のピラミッド:https://travelholiq.com/teotihuacan/

考古学の調査から、テオティワカンの創設はBC100頃で衰退したのはAD600頃であり、4世紀頃にその最盛期を迎え、ローマ帝国に匹敵するような壮大な都市を作っていたことが分かっています。控えめに見積もって人口は10万人であり、モヘンジョダロやウルクの5倍です。メキシコ盆地全体で100万人が分布していたと考えられ、ひとつの社会を成していたようです。そしてテオティワカンは支配者を持たず、自己統治をしていたと考えられると著者たち(二人のデビットということで以下、WDと略します)は主張します。

支配者(王)は、宮殿、豪華な墓、モニュメントを残す傾向があります。メキシコ盆地を離れたユカタン半島の古典期マヤ(AD150-900)の諸王朝の都市、ティカル、カラクルム、パレンケには宮殿と競技場と戦争の像があり、残酷に扱われる捕虜がいて、複雑な暦に基づく儀礼があり、歴代の王の記録が残っており、それが私たちの古代メソアメリカの標準的なイメージなのですが、テオティワカンはそこからまったく異なっているのです。

まず文字はあったようなのですが、碑文がありません。そして手のひらに乗るようなテラコッタ像や壁画が残されていますが、統治者が従者を殴ったり縛ったりするような表現が見当たりません(マヤでは頻繁に現れる図象なのですが)。王を示す形象がそもそも見つかりません。ある画面に出てくる人物をすべて同じサイズで描くことさえしています。

メソアメリカでよく見られる儀式用球技場もテオティワカンにはありません。大きな墓も見つかりません。ピラミッドの周囲や神殿の下のトンネルを調べても墓はなく、霊廟とおぼしき空間があるだけでした。

テオティワカンは外部の慣習を意識的に拒絶していたとする人々もいます。美術表現が同時代のマヤや他の地域のそれと大きく異なるのです。WDは高地のテオティワカンと低地マヤの間では「分裂生成」(第5章ノート18)が起きたのだとしています。テオティワカンは意図的に「王朝的個人崇拝」を拒否するための表象を選び、支配者や王のいない都市を築いたのだとします。初期のテオティワカンも初期は権威主義的な支配が行われていたのですが、AD300頃にある種の革命が起きて、都市が集団統治されるようになったというのです。

WDはメソアメリカにはマヤ帝国に代表されるような王権と文明のパターンがあったのと同時に共和政治のもいうべき伝統も存在していたのではないかといいます。

テオティワカンの変遷

本書pp.336-337

テオティワカンの見取り図をみると、二つのピラミッド(太陽のピラミッドと月のピラミッド)と「城塞(シウダデーラ)」と呼ばれている大きなモニュメントが聳え、その周囲におよを2000戸の集合住宅がグリッド状に並んでいます。その規則正しさは、モアの『ユートピア』やカンパネラの『太陽の都』のような理想都市を具現化しているようにも見えます。しかし、これらは同時期に建てられていません。テオティワカンという都市を理解するためには、時系列に見ていく必要があるのだとWDは指摘します。

西暦0年頃にテオティワカンは都市として機能し始めます。そして、火山の噴火や地震を逃れて、多くの人口がテオティワカンに流入します。AD50から150年にかけて周囲の村や町や都市が放棄されてテオティワカンに移住したのです。WDは注釈で、自然災害による旧居の喪失という背景を考えれば大量移住は千年王国運動的な色彩をおびていたことは間違い無いだろうとしています。(フランシスコ会修道士が書き留めた)後世の年代期によれば、テオティワカンは他の場所からやってきた、長老、神官、賢者の連合体によって設立されたとされています。

テオティワカンの旧市街とみなせる場所は教区制が敷かれ各近隣区にローカルな神殿が配されていました。都市住民が耕作地やそれ以外の場所からの資源をどのように分配していたのかは分かっていません。トウモロコシは人と家畜用に栽培され、七面鳥、イヌ、ウサギが買われて食べられていました。マメ類、野生の果物や野菜を食べ、燻製や塩漬けにした海産物を海岸地方からもってきていました。しかし、その流通や都市経済の詳細はまったく不明です。

テオティワカンは、都市のアイデンティティを確立するためにモニュメントの建設をまず行いました。ピラミッド型の山と人工の川を配して暦に関係する儀礼の舞台を作ったのです。大規模な治水工事で湿地帯や氾濫原を制御してもいます。労働力が投入されたことはもちろんですが、人柱(儀礼的殺害)も立てられています。二つのピラミッドと神殿からは合計数百人の犠牲者の人骨が出土しています。

驚くべきことに、この後、宮殿が建てられてエリート階層(貴族や官僚)の住居が建てられるというコースをテオティワカンはとりませんでした。つまり支配階級は現れず、富や地位に関係なく、すべての市民に高品質のアパートメントを提供するといったプロジェクトが始まったというのです。

テオティワカンの公営住宅事業

AD300頃、神殿が冒涜され、供物が掠奪され、火が放たれ、羽毛の蛇の像が壊されました。ピラミッドの建設はそれ以降は行われず、石造りの住居建築が始まりました。考古学者たちは最初にそれを宮殿跡と見たほどに立派なものだったのです。それが市街地全体に広がり、10万人ほどの都市住民のほとんどが生活できるようになっています。

各建物は床と壁が漆喰に塗られた、排水設備完備の平屋建てで650平方フィート、中庭を囲んで各世帯の部屋があり、核家族が入っていたと考えられます。平均的には100人程度の人々が一つの建物に住んでいたのでしょう。中庭などの共同スペースには祭壇が設置されて壁画が描かれていました。考古学者の一人は「公共住宅」と表現しました。

部屋と中庭の設計は画一的ではなく、建物ごとに個性があります。輸入品を置いている建物、主食が独特だったり、アルコール飲料を楽しんでいる建物もあります。多くの人たちの生活水準は概して高かったようで、これは全世界の歴史的に見てもも極めて稀なことでした。

どのようなきっかけで、このような社会が生まれたのかははっきりしません。神殿の破壊を除けば暴力の痕跡がないのです。親族関係に基づくネットワークは「公共住宅」の枠を超えて都市の中、あるいは都市を超えて広がっていました。そしそれとは別に「公共住宅」単位あるいは近隣単位の共同生活体があり、ときに衣服作りや黒曜石加工などの専門技術を共有していました。加えて、テオティワカンは多民族都市でした。そんな複雑な都市が、統治階級なしにどうやって統治されていたのでしょうか?

WDの推測は地区集会(ローカルアセンブリ)に権限が委譲され、各地区集会は統治評議会に説明責任を負っていたというものです。おそらくは公共住宅100に対して割り当てられていた地区神殿(テオティワカンで20ほど見つかっています)がその役割を果たしていたのではないかというのです。それはこれまでに取り上げてきたメソポタミアの都市区域、ウクライナのメガサイトの集会所と似たような規模だったのではないか。

ティオティワカンの美術

ここまでの説明からテオティワカンが平和裡に自己統治されていたかのようにイメージされるかもしれませんが、現実はそうでもなかったようだとWDは言います。たとえばある住居には、メキシコ湾岸からの移住者が住んでおり、移住後も湾岸部と交易を続けていて、湾岸部の暴力的な儀礼も持ち込まれていました。外敵の首を斬って、首を供物の容器に入れて家の中に埋めていたのです。テオティワカンの他の地区では、そんな儀礼をやっていた痕跡はありません。近所の住民からすれば、かなりショッキングな儀礼だったはずです。WDは多民族都市テオティワカンではあらゆる種類の社会的緊張が煮えたぎっていたに違いないと言います。他都市や遠隔地との出入りは激しく、外部から入ってきた住民は辺境地の同族を支援しているし、そこの風習を都市の中に持ち込んでいるのです。AD550頃から社会が崩壊し始めますが、外敵侵入の痕跡はないので内部崩壊だったようです。

このあたり、ニューヨークの労働者地区で生まれ育ったグレーバーの感覚が出ているなと、私には思えました。移民たちが固有の文化を維持しながら他の移民と隣り合って暮らし、常に緊張を孕んでいる現代のニューヨークに通じるイメージがティオティワカンに投影されているように思えるからです。

それはともかくとしても、WDの描くティオティワカンはマヤやインカの血に塗られた支配のイメージから遠く離れた自治都市であり、公共住宅が建設されて一般市民に供給される福祉都市なのです。

『万物の黎明』について(目次のページ

<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22
ダンバー数を超えると都市は出来るのか?『万物の黎明』ノート23
メソポタミア民主制『万物の黎明』ノート24
世界最古の市民革命?『万物の黎明』ノート25
世界最古の公営住宅事業?『万物の黎明』ノート26(このページです)

<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)

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