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農耕民は文化的劣等生だった 『万物の黎明』 ノート22

文中"WD"はDouble David(著者である文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローの二人のデビット)の略です

第6章「アドニスの庭」(ノート2読書ノート6)で描かれた、肥沃な三日月地帯における初期農耕発生の事情は複雑です。大雑把にまとめれば、「人々は高いカロリー生産性を目指して農耕を発見して、それに向けて突っ走ったわけではない」のであり、「いつでも止められる遊戯的園芸として農業は始まった」とするのです。ムギの栽培にしても、最初は建材や燃料としての藁を目当てであり、食料としてのムギは副次的なものだったのではないかともしています。

しかし、人類史を扱う一般著作は「農耕への移行」に強い意味(もしくは社会的意義)を求め、唯一の移行過程と唯一の意味を考えようとします。これは意味がないとWDは言います。たとえば、種を植えてヒツジの世話をすることを始めたとたんに「コモンズ(共有地)の悲劇」を回避するために人類は不平等な社会組織を必然的に受け入れた、みたいな発想や著作は跡を絶たないのですが、反例はいくらでも出てきます。WDは、ロシアのミール、アングロサクソンの土地再配分制度ランリグ、ドイツのマルク共同体、パレスチナのマシュア、バリ島のスバックなどをズラズラと並べています。

ルソーの『人間不平等起源論』で描かれたように農耕開始期に平等主義が終わったと考える根拠はありません。肥沃な三日月地帯では農耕が始まってから数千年は不平等社会は訪れませんでした。農耕が出現した他の地域にも、もっと多様なストーリーがありえたはずなのだとWDは論じて、いくつかのパターンを紹介していきます。

現在、栽培化と家畜化が始まった場所として、15から20くらいの地域が確認され、それぞれがまったく異なる植物と家畜を育て、まったく異なる発展を辿りました。その多くは、食糧生産から国家形成への一直線の道筋を辿っていません。従来の「農耕牧畜が始まるとやがて国家が誕生する」という通説は覆されているのです。

pp.288-289

ひとたび農耕が始まると、それが瞬時に広がっていくというイメージは誤りだとWDは言います。隣接地域から農耕技術が伝わっていても、それを採用する場合もあれば採用を拒絶する場合もありました。たとえばアメリカの西南部では早くから行われていたトウモロコシやマメの栽培は徐々に放棄され、社会は狩猟採集生活に回帰している例もあります。ブリテン島でもいったん始まった農耕が途中で放棄され、ストーンヘンジを作っていた頃はヘーゼルナッツ採集に移行していました。

20万年前のホモサピエンス発生時は寒冷期で、持続的に農耕が可能な程度に温暖化したのが十三万年前のエーミアン間氷期でした。しかしこの時点でまだ人類はアフリカを出ていませんし、人数も限定されていました。現在に続く温暖化は12000年前に始まり、その頃には人類は地球の広い範囲に拡散していて、多様な環境に適応していました(完新世)。氷床が後退して、そこに動植物が移動してきて新しい環境を作り出し、狩猟採集民の天国となったのです。その中では農耕民は、狩猟採集民が手をつけなかったニッチ領域で暮らした「文化的劣等生」でした。

人口拡大に成功した初期農耕社会は「自由の生態学/遊戯農耕」が鍵となっています。農耕に手をつけたり手放したりする社会であり、農耕が死活問題にならないように食物網を保持していたのです。庭の耕作、湖や泉のほとりでの氾濫農法、焼畑、剪定、段々畑、半野生状態での動物の飼育管理、そういった技術を狩猟・漁労・採集の活動と組み合わせていたのです。逆にいうと、農耕に全面的に頼ることはかなりリスクの高い社会形態でした。

農耕に失敗した例

農耕に失敗した例としてWDは中央ヨーロッパの例を挙げます。ドイツからオーストリアにかけての黄土平原ではBC.5500頃から「線帯文土器(Linear Pottery)」文化として農耕民村落が形成されましたが、最後には共同体全体が惨殺され、消滅させられた跡が残されています。大人や男女の区別なく遺体が放り込まれた穴、それらの遺体に残る暴力や拷問の痕跡、頭皮が剥がされた頭骨、切断などが残っているのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/線帯文土器文化

最初期の集落は格差のない社会だったようなのですが、BC.5000頃から格差が生じ始め、集落の周りに環濠が掘られ、戦争の痕跡が出始めます。人口はBC5000からBC4500のあいだに大幅に下降して、崩壊に近い状態にまでになりました。いくつかの地域では狩猟採集民との婚姻を通じて持ちこたえています。そこから1000年ほどの停滞期間ののちに中欧と北欧で穀物栽培が再開されています。

周囲の豊かな狩猟採集民たち(ロシア北部からスカンジナビア、ブルトン海岸)からみれば、この農耕民たちは生態学的袋小路にはまりこんだ人たちに見えたでしょう。そもそも、中央ヨーロッパは狩猟採集で生活するのに不向きな場所で、だから人々は農耕に頼らざるを得なかったのです。

パッケージを組み替えて成功した例

ナイル川流域(エジプト&スーダン)では、南西アジアからいくつかの作物と家畜が伝わりますが、住民たちはそれらを取捨選択して「パッケージ」を包み直しました。BC5000-4000頃、彼らは南西アジアの農耕文化から、穀物栽培とカマドと家を捨てて、家畜を中心とした独特の移動性の高い文化を作り上げたのです。それは古代エジプト文明の基礎となりました。(その数世紀後に再び穀物栽培を始めています。)

また、BC.1600頃、台湾とフィリピンのイネとキビの栽培文化が拡散していきますが、拡散していく過程の中で、イネとキビは途中で放棄され、移動経路で遭遇した芋類や果実、様々な家畜(ブタ、イヌ、ニワトリ)にとって代わられます。(本書で「ラピタ・ホライズン」と呼ばれる急激な拡大は、狭義には下の図での紫の部分のみを指します。)

彼らはすでに狩猟採集民の社会が栄えていたオーストラリアやニューギニアは避けて拡散を続け、新たな環境に適応しながら多様な文化を作り上げていきました。

これら3つの事例では、人々は「真面目な農業」に取り組んでいたと言えます。動植物は完全に家畜化/栽培化され、人間の社会もそれに合わせて組織化されました。そして、この3つの事例は、それまで誰も住んでいなかった土地に向けて農耕が行われています。ナイル川流域で家畜の飼育に集中した人々は、オアシス都市を避けました。ラピタ・ホライズンを担った人々は既に人が住んでいたオーストラリアとニューギニアを避けました。

その一方で、アマゾニアのように「遊戯性の高い農耕」が保持された場所もあります。彼らは農耕に参入したり、退出したりしました。植物の栽培化したり土地を管理した証拠はあるのですが、農耕に取り組んだ証拠がないのです。彼らの社会では「野生」と「家畜」の境界はあいまいですし、わざと曖昧にしてあるようにも見えます。

この文化は何千年も続き、遺伝的には異なるのにアラワク語を話す人たちのネットワークを作り上げました。交易の過程で、諸集団が意図的に言葉を取り込んでいったようです。アマゾンは人々が想像するような「自然状態」ではなくて、町もあれば段々畑もありました。熱帯雨林の中に隠されていただけだったのです。こうしたアマゾニアの発展を支えたのは、焼畑という「遊戯農耕」でした。

ここでアマゾンの住人は動物を家畜化しなかったが、ペットは飼っていたという話が挟まれています。食用に殺された動物の孤児であり、それらは食べられずに可愛がられました。これはおそらくは第4〜5章で展開された奴隷制の起源の話に呼応させているのかもしれません(ノート21参照)。

メキシコではBC7000にカボチャとトウモロコシが栽培化されましたが、主食になったのは5000年後でした。北アメリカのウッドランドではBC3000に種子植物は栽培化されていましたが、AD1000にならないと真面目な農業が始まっていません。中国ではBC8000頃、北部の複数の平原でアワやキビの栽培が始まっていましたが、黄河流域に導入されるのは3000年後でした。また、長江の中下流域で野生のイネが栽培され始めてから栽培種が現れるのは15世紀後でした。長江と黄河の両方で家畜化されていたブタは食料として長いこと重視されず、野生のイノシシやシカが重んじられていました。このように、世界中のどこでも、「遊戯農業」の時代は長く続いたとWDは説明していきます。

最初に失敗例として取り上げたヨーロッパ中央部の農耕民は、少ない品種(あるいは単一品種)の作物しか作っていませんでした。新しい資源も開発できていません。こうした農業は、労働力不足、土壌の疲弊、病、凶作などに対して脆弱なシステムだったと考えられます。

WDはこうまとめています。「農耕はたいてい剥奪の経済としてはじまった。農耕が考案されたのは、ほかに手立てがないばあいにのみだったのである。だからそれは、野生資源のもっとも乏しい地域で最初に着手される傾向にあったのだ。農耕は、初期完新世のもろもろの戦略の中では異端児だった」

『万物の黎明』について(目次のページ

<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
 農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22(このページです)



<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)

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