『万物の黎明』読書ノート その12
第12章「結論」の要約
第12章は終章であり本書の「まとめ」なのですが、書き足りなかったところを色々と書き加えている感のある章です。
不平等の起源を問うことは、神話作りに帰着することにしかならないというところから、この本は始まりました。それはルソー流の恩寵からの転落もしくはホッブス流の混沌からの脱却みたいな話に帰着するだけですし、それは事実に反しています。
19世紀は「進歩の必然性」が信じられて時代だとされていますが、当時のヨーロッパが実際に取り憑かれていたのは、退廃と崩壊の危険性だったとWDは指摘します。人間の状態を改善するという啓蒙主義の構想のもとにフランス革命は行われたはずですが、あんな顛末になってしまいました。やはり啓蒙主義は甘かったと考えた19世紀の人々が、今日の社会理論を作っており、その中核には次の二つの問いが据えられていたとWDは指摘します。
(1)科学的進歩と道徳的進歩の一体化と、社会改善構想のどこに問題があったのか?
(2)社会問題を解決するための善意の試みが事態を悪化させることが多いのはなぜか?
ひとつめの問いに関心を寄せる人たちにとって、ルソーは近代的な問題を提起した最初の人物だとみなされます。二つめの問いを重視する人たちにとって、ルソーは素朴で無知な悪漢で、不合理的秩序は一掃すべしと言う単純素朴な革命家であり、ギロチンの責任者はルソーにあるとしました。p.561
19世紀に勃発した、こうした急進派と反動派の論争は形を変えながら何度も再燃します。しかし両者は以下の点では合意しています:「大文字の啓蒙」があり、人類史に根本的な断絶をもたらした。アメリカ革命とフランス革命はその帰結である。啓蒙主義は、合理的理想に基づいて社会を再構築すること、つまり革命的政治の可能性を導入しました。それと共に、啓蒙以前の社会は、共同体、地位、権威、聖なるものを基盤とした「伝統」社会であり、そこでは人間は慣習の奴隷であり、自発的に行動すること無かったとされるようになったのです。啓蒙以降の近代人のみが、自覚的に歴史に介入して流れを変える能力を持ったのです。それが良いことだったのか悪いことだったのかで意見は割れるにしても、この点は急進派も反動派も合意していたのです
p.562
20世紀を通じて人類学者は、研究対象とする社会を非歴史的に、つまり永遠の現在に生きている人々の社会として表現する傾向がありました。これには民族誌研究の大半が植民地支配のもとで行われていたことも関係していますし、再現性が保証されない歴史研究よりも、非歴史的に研究する方が科学的に見えたということも関係します。その結果、研究対象の人々は、何も変わらず何も起こることもない神話世界の住民のように見られることになります。たとえば宗教史家のエリアーデは、伝統的社会は歴史を持たない「循環的時間」のなかを生きていると提唱しました。エリアーデによれば伝統的社会においては、重要なことはすべて既に起こっています。神話の時間であるイロ・テンポーレ(かのはじまりの時)、「万物の黎明」に全ては遡るのです。あらゆる行いは神話世界の繰り返しに過ぎません。そしてエリアーデは人類が比較的近年に獲得した「直線的時間感覚」が人類の不幸と破滅の始まりだとしました。しかし、これは不条理な見方であると、WDは一蹴しています。pp.563-565
なぜ、わたしたちはこういう発想をしてしまうのでしょう。遠い過去の人たちが自らの歴史を作ってきたと想像することを退けてしまうのでしょうか?WDはその原因として、社会科学の方法論に問題があるとしています。つまり、人間の行動が自分自身で統御できない力に規定されている事態を社会科学は研究してきました。集団としての人間が自らの運命を切り開いているように見えても、それは幻影であり、科学的に解明される筈のなんらかの力が働いていると考えるのです。p.565
「ビッグヒストリー」がテクノロジーに関心を寄せるのも、つまり道具の原材料で時代を区分したり(石器時代、青銅器時代、、、、)、新技術の導入を革命とみなして時代を区分したり(農耕革命、都市革命、産業革命、、)するのも、テクノロジーによって社会が規定されているというストーリーが分かりやすいし、語りやすいからです。テクノロジーが重要であることは確かですが、過大評価もできません。石器で都市を建設して保全していたテオティワカンやトラスカラルテカの例をあげて、金属で都市を建設したモヘンジョダロやクノッソスと内部組織や規模において違いがあったのか?とWDは問いかけます。農耕の起源を論じた第6章「アドニスの庭」でも述べましたが、農耕が始まった途端に社会が革命的に変わったということは否定されています。農耕の始まりは何世紀にも渡って積み重ねられた知識に基づくものであり、全てを根本的に変えるただ一回の発明があった訳ではありません。
しかし私たちは歴史を突発的なテクノロジー革命のによって動かされてきたものとして記述します。テクノロジー革命が起きて社会を変革し、その社会が人間をがんじがらめにして停滞し、さらに別のテクノロジー革命が起きて、、、といったことを繰り返しているという歴史記述です。pp.565-566
しかしそれでは、人類を思慮に浅く創造力に乏しく不自由なものと描いてしまっていないかとWDは言います。どのテクノロジーにしても、実験や儀礼的遊戯の形で蓄積されていった知なのであり、その中から何を実用に供して、何を儀礼領域に留めておくべきか、それを集団で決定してきたというような歴史的記述こそが望ましいのだとWDは言います。本書でも繰り返されていますが、儀礼的遊戯の領域は社会的実験の場として機能してきました。pp.566-568
さまざまな技術や制度が儀礼遊戯から始まったとするのは、本書で繰り返した話です。いままでの章では紹介されていませんが、ここでWDは君主制や統治機関が儀礼遊戯から始まったとする説を、イギリスの人類学者ホカートから引いてきたりもします。彼によれば「君主制や統治機関は生命力を宇宙から人間社会に導くための儀礼に由来する」のであり、「最初の王は死んだ王であったはずだ」と彼は言いました。実際、最近の考古学は生前よりも豪奢に飾り立てたと思われる埋葬をいくつも発見しています。私的所有という制度にしても「不可侵なもの=聖なるもの」の概念から始まった、つまり儀礼に使われる「聖なるもの」は限られた個人しか手にすることができず、それが「所有」の始まりであるという話は第5章で展開されていました。p.568
第3章での指摘にあるように、私たちの祖先は生活パターンや社会を季節に応じて変動させ、異なる社会秩序を往復してきたと考えられます。それは、人々をして異なる社会秩序を想像することを可能にしていた筈です。そしてそういう想像が困難になった私たちの状態とをWDは対比させ、人類史の中でなにかが間違っていることが起きたのだとしたら、それは「人々が異なる諸形態の社会ありようを想像したり実現したりする自由」を失い始めた時からそれが始まったのではないかとWDは提起するのです。pp.568-569
第11章で描いたように、北米東部のウッドランド社会は、傲慢な領主や司祭がいたカホキアの遺産に背を向けて自由な共和政体に自らを再編成しました。一方、彼らと対話したフランス人たちは、ヒエラルキーを排除するべく革命を起こしたのに悲惨な結果に終わります。その理由はいくつか挙げられるにしても、「自由」を抽象的、あるいは「自由、平等、博愛」のような形式的に考えるべきではなかったのだとWDはしています。p.569
WDは本書で、社会的自由の3つの基本的形態として
・自分の環境から離れたり移動する自由
・他人の命令に従わない自由
・新しい社会を実現する自由
があることを繰り返して述べてきました。最初の二つの自由は三つめの自由の足場としての役割を果たします。最初の二つの自由が自明である限り、王は遊戯王としてしか存在できません。一線を超えて遊戯王が「真面目な王」になろうと思っても臣下たちは逃げ出すか、命令を無視するかです。毎年メンバーが入れ替わるバッファロー警察にしても「遊戯警察」と言えます。
あきらかに社会の何かが変化して、3つの自由は後退しています。そして私たちは3つの自由を基礎に置く社会秩序がどのようなものか理解できなくなっています。なぜそうなったのでしょうか?p.569
人間社会が徐々に「文化圏」に分割されていったことが大きいのではないのかとWDは指摘します。近隣集団が互いに自己を定義して、差異を誇張していくようになり、その中で育まれたアイデンティティが価値あるものとしてみなされて文化的分裂生成が起こるという話は第5章で展開した通りです。そして、その分裂は政治的係争を意味しましたし、形成された文化が社会生活の核心をなすものともみなされるようになります。p.571
考古学者は、最終氷期の終わり頃から地域文化圏が生まれたようだとみていますが、なぜそれが生まれたのかについては、うまく説明しきれないと認めています。しかし、これが画期的な展開であったことは確かでしょう。氷河期以降の狩猟採集民たちは、ありとあらゆる地域的社会実験を行いました。それは、メキシコ湾岸の円形闘技場、三内丸山の巨大貯蔵庫、ボスニア海の「巨人の教会」などのモニュメント建造物や豪奢な埋葬などに反映しています。そして中石器時代には、共同体内に身分の差が発生していたことを思わせる考古学的指標も発見されています。そのヒエラルキー構造も様々でした。pp.571-572
それらのヒエラルキーが遊戯形態から永続的なものに変わるきっかけは、往々にして暴力でした。遊戯王は実際に人を殺し始めた時から本物の王となります。ある国家からある国家への移行時に過剰な暴力が発生するのもそれで説明がつきます。このあたりは第10章で大規模な人身供儀が新王朝開始の数世代に限定されるという指摘にもつながります。p.572
戦争も、遊戯的なゲームから暴力が展開するものに変化しています。戦争は二つの陣営の間で行われる一種の競い合いですが、そこで相手側の陣営全員を平等に暴力の標的として扱う(無差別殺傷する)というルールは、決して自明なものではありません。実際、旧石器時代の記録を調べても、無差別殺傷を原理とする戦争の証拠は残っていません。戦争とは一種のゲームのようなものであり、あるときには芝居がかったかたちをとり、あるときには血なまぐさいかたちを取りました。民族誌には「遊戯戦争」の事例に事欠きません。ホメロスが描く「戦争」にしても、ほとんどの参加者は観戦者なのであって、個々の英雄たちは互いに嘲り、嫉妬し、ときには槍や矢を投げ合ったり、決闘したりします。pp.572-573
とはいえ最終氷期が終ったあと、新石器時代の中央ヨーロッパで起こったような村落間の大虐殺(第7章pp.298-300)の証拠が増えていきます。しかもそれは不均等に現れています。集団間で激しい暴力が見られる時代と、平和な時代とが交互に訪れます。平和な時代は長く続くものの、何世代も経過した後で戦争はしつこく再生するのです。それは社会内部の自由の喪失と関係したのでしょうか?それが帝国のような大規模な支配システムに向かうきっかけを作ったのか?それは直接的な関係があったのでしょうか?とWDは問いかけます。少なくとも近代国家のようなものを基準にしてイメージしても答えは見つからないでしょう。pp573-574
ここから第10章で展開した3つの支配の基盤と、第一次レジーム、第二次レジームの話をおさらいした上で(pp.574-575)、それらの古い政体に共通するのはシステムの頂点でスペクタクルな暴力が展開されていること、頂点に据えられる宮廷や宮殿は家父長制的世帯をモデルにしていることだとWDは指摘するのです。つまり家父長制と軍事にはなんらかの関係があるのです。その理由は何なのでしょう?p.575
これに回答するのが難しいのは、私たちの知的伝統や語彙が帝国の言語に根ざしており、家父長制などをあらかじめ正当化しているからです。たとえば既存の議論はローマ法の用語で行われています。ローマ法の自発的自由の概念は自分の財産を自分の好きなように処分する権利に基づきます。そしてローマ法では所有権は、権利というよりは権力です。権利は他者との交渉を通じて相互の義務を伴うものですが、ローマ法が言う「所有」は、対象物を好き勝手にできる(破壊もできる)ことを意味します。人々との間の了解事項(権利)というよりは、人と対象物との間の絶対権力なのです。pp.575-576
このローマ法の所有権の概念は奴隷法に発するものであるという指摘もあります。奴隷は人格を認められず、物として扱われます。そしてローマの法学者とは公の場では裁判官を務め、私生活では妻子に対しては家長であり、何十人、何100人もの奴隷に自分のケアをさせていた人たちなのです。そして、家父長は奴隷をレイプしたり、拷問したり、切り刻んだり、殺害することも自由にできました。ローマ法のいう「自由」とは、そうしたものを指します。そして恣意的な暴力の可能性が、親密なケアの空間(家庭)の中に持ち込まれていました。本書の中でも繰り返された暴力とケアの結びつきが、古代ローマにおいても極限に達していたということです。pp.576
WDがローマの法律で注目するのは
・敵は無差別的に攻撃対象であり、降伏した敵は殺されるか、「社会的な死者」(奴隷)として売買される
・奴隷は家庭の中で家父長とその家族へのケアに従事した、つまり親密な社会関係の中に組み込まれた
・家庭の中でケアと奴隷に対する暴力が同居していた
といった事柄です。そして世帯(ドムス)は支配(ドミネート)を意味していくこととなりました。pp.576-577
王国や帝国成立以前の戦争や大量虐殺の直接証拠は出ていますが、捕虜がどう扱われたのかは、殺されたのか、勝者の社会に組み込まれたのかは、分かっていません。アメリカインディアンの事例から見るにさまざまな可能性があったようですが、一例として本書でたびたび登場した北米東部のウェンダット(ヒューロン)の例をWDは語り始めます。p.577
ウェンダットの属するイロコイ社会はある意味で交戦的な社会でした。ヨーロッパ人が供給したマスケット銃は「ビーバー戦争」を招きましたが、それ以前から血生臭い抗争が繰り広げられていました。ウェンダットの戦争は「弔い合戦」であり、殺されたものの近親者の悲しみを和らげるためのものでした。戦士団は宿敵を攻撃し、頭の皮を数枚と捕虜を数名連れ帰ります。捕虜は名前を与えられて養子になり、いままでとは別人として社会の一員になるよう扱われますが、それに失敗すると拷問で処刑されます。その拷問は女子供を含む共同体全体の儀式として何日もかけて行われました。ウェンダットは子供を叱ることもなく、泥棒や殺人犯を直接罰することもせず、恣意的権力を匂わすことを一切しない社会であるだけに、その暴力性は驚くべきものですが、彼らは家庭内のケアの空間と捕虜に対する暴力とをくっきり分離していたとは言えるのです。その意味で古代ローマとは対照的です。pp.577-578
イロコイは特定の時代にのみ暴力が噴出し、それ以外の時代には暴力が根絶されたかのような北アメリカ社会の一つです。復讐と報復のスパイラルが戦争に発展しないような方法が機能している期間と、そのシステムが崩壊して残虐行為が舞い戻ってくる時期とがあるのです。pp.578-579
ウェンダットの暴力の意味を考える上で参考になるのは同時代のフランスです。フランスを訪れたウェンダットは公開処刑と死刑に先立つ拷問に仰天しました。外敵ではなく同族を処刑していたからです。ウェンダットでは暴力は家族や世帯の領域から完全に排除されていました。捕虜になった戦士は愛のあるケアを受けるか、処刑されるかのどちらかであって中間はありませんでした。潜在的暴力に晒されたローマの家内奴隷とはまったく違っていたのです。同国民をギロチンにかける制度とは、家庭内の奴隷を自由に処分できるローマ法に雛形があり、ウェンダットには理解できないものでした。p.580
当時の(アンシャンレジームの)フランス社会にしても帝政ローマにしても、世帯の家父長制が王の絶対権力の雛形となっていました。子は親に、妻は夫に、臣民は支配者に従うべきものでした。上位者は下位のものに対して自由に懲罰を行使することができると同時に、下位のものに対して愛や慈しみの感情をもつことが前提とされていました。ウェンダットでははっきりと分離していたものが、ここではケアと暴力が混濁(あるいは結合)しています。pp.580-581
このケアと暴力の混濁からどうして私たちは抜け出せなくなったのでしょうか?なぜ、互いに関係しあう方法を私たちは再創造できなくなってしまったのか、それを考えることが重要なのだとWDは言います。社会を再創造する能力を人類がなぜ消失したのか、それを問うべきだとWDは繰り返します。p.581
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この本の執筆において、WDが最も格闘した頑迷な誤解はスケールに関する議論でした。支配構造(その起結としての暴力や法による支配)は人口増大の必然的帰結だとするのは、多くの人が自明視する常識のようです。WDは、この常識は理論的に必要な仮定ではないし、歴史的に裏打ちされてないケースもあるのだとここで繰り返します。例えば初期の都市は行政的ヒエラルキーや権威主義的支配無しで成立していました。そもそも都市成立以前から人々は集団間で植物、動物、薬物、貴重品、歌、観念などを集団間でやりとりしていました。決して孤立した集団が散らばっていた訳ではないのです。そのやりとりも単純なものではなく十分に複雑なものであったでしょう。隣保同盟みたいなものがあって、公式な組織が聖なる場所の管理やケアを行うのです。マルセル・モースが言うように、それは十分に文明なのであって、都市成立以前からあったものなのです。そうした同盟が小さな空間に圧縮したものが都市だと考えるのが理に適っているとWDは言うのです。pp.582-584
もちろん君主制だとか戦士貴族支配が都市に根付くことはありました。しかしそれは必然という訳ではありませんし、都市で君主制が始まったという訳でもありません。メソポタミアの場合、世襲貴族政はアナトリア高地の「英雄社会」を起源とすると見られます。そしてテオティワカンのように君主制への道を途中で放棄した都市市民たちもいたのです。さらに君主制を受け入れたメソポタミアの諸都市は地区評議会や民衆集会のシステムを君主制と共存させました。p.584
そして、メソポタミアの場合でも暴力のシステムとケアのシステムが融合しています。シュメールの神殿は神々の世話と供物としての食糧供給で組織されていました。それを福祉活動と官僚機構が絡みます。神殿は慈善施設でもあり、未亡人・孤児・家出人が避難していました。彼らは食糧の配給を受けて神殿の工房で働かされます。神殿の官僚は彼女たちを監督して、紡がせて、織らせて、生産物を交易を行い、彼女たちに食糧を与えたのです。それは王が都市にやってきて神殿の横に建てた宮殿に住むようになる、ずっと以前からあったシステムです。最初の文字文書が現れる頃には戦争捕虜や奴隷も働かされるようになり、未亡人や孤児の地位が低下していき、貧民窟のようになっていきます。神殿システムに搾取される対象となったということです。そのために、虐待的な家庭環境から逃れることが困難になり(移動する自由の喪失)、命令に従わない自由が喪失され、社会変革を試みる自由も喪失することになります。未亡人や孤児をケアするためのシステムが非人間的な環境に堕していくこの事例を私たちはどう考えれば良いのかとWDは問いかけます。pp.584-586
フランツ・シュタイナーは、この問題に最も接近した人類学者だとして、WDは評価しています。彼の研究は、なんらかの負債や過失で追放されたり、漂流し、犯罪者として逃亡した人々に何が起きたのかを問うものでした。それは最初は歓待された難民が、徐々に格下げされて搾取されていった歴史でもあります。歓待や亡命、礼節や庇護にかかわる規範が失われたとき(本書で言うところの移動の自由が損なわれたとき)何が起こるのか?そして、なぜそれが恣意的権力の行使につながっていくのか?ということを彼は問いました。そして彼は世界の諸民族の事例を検討していく過程で、支配権力は慈善に帰着することを見出したのです。
アマゾン社会では孤児・未亡人・狂人・障害者・畸形者たちは首長の住居に避難して、食事をシェアすることが許されていました。戦争捕虜もそこに加わります。逃亡者、債務者、犯罪者なども降伏者と同じ扱いを受けることがありました。かれらはすべて首長の従者となり、警察のような王命の執行者の任を担いました。彼らがどれだけ王の頼りになったのかは事例ごとに異なるでしょうが、そのような存在の可能性があることが重要なのです。そして世界中の王宮は変わり者の避難所でした。これはローウィやクラストルを悩ませた「国家なき社会がいかにしてトップダウンの組織を生み出したか」という問いへの一つの解答にもなり得るのではないかというのが、WDの見立てです。
本書のこの部分は、書き飛ばしている感がありたいへんに分かりにくいところがあります。おそらくは、逃亡者、債務者、犯罪者などをも含む人々を受け入れて庇護した王宮において、王が(ポテスタス=家長権)を使って、彼らを動かしてトップダウン式の警察を組織した、つまり主権を確立したと私は解釈しました。もちろん、首長の慈善からトップダウン式権力の確立までの筋道にはよくわからないところが残されていることも確かだとWDは認めており、今後の課題としているようです。pp.586-588
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10年前にWDがこの研究を始めたときは、過去30年間に蓄積された考古学的証拠によって、社会的不平等の起源に関する議論がどう変わるのかを考えていたそうです。しばらくして、このような統合作業をしていた人間が誰もいないことにWDは気がつきます。そして文献も無い研究領域が多くありました。研究に適切な用語自体がないのです。たとえば「トップダウンの統治機構をもたない都市」に名前はいまのところありません。「平等主義的都市」と呼ぼうにも、住民のあらゆる側面を検討して不平等の要素がないことを確認しないかぎり呼べません。それは事実上不可能なのです。「平等主義的社会」にしても似たような話が展開できて小規模の狩猟採集バンドでしか存在し得ないという結論になります。pp.589-590
そこでWDはアプローチを変え、「数々の対立項を反転」させたと言います。社会的平等のイデオロギーが実際に存在したと言う証拠がない限り「平等」や「不平等」という言葉を捨てること。穀物の栽培化が貴族・軍隊・負債懲役制度につながった5000年だけでなく、つながらなかった5000年も重視すること。都市生活や奴隷制が出現した場所」と時代だけでなく、都市生活や奴隷制が拒絶した場所と時代を同等に扱うこと。その結果、奴隷制は複数の場所で何度も廃絶されていたというようなことが分かってきました。そのような廃絶が決定的なものではなかったにせよ、自由な社会が存在していた時代を軽視する理由はありません。ミノアのクレタ島やホープウェルを歴史的必然から外れた例外とみなすのではなく、たまたま選択されなかった道とみなすことは可能なのです。この本は、そうした生活を選択した人々の生活を想起してもらえるよう書かれています。そして人間が社会の歴史に介入できる可能性は、私たちが考えているよりも大きいのです。pp.590-591
本書はカイロスというギリシャ語に言及するところから始まりました(p.2のC.G.ユングからの引用)。ざっくりいえばカイロスとは<出来事>の生じやすい時代のことです。そしてWDはいま世界は(とくに西洋世界は)なだれを打ってそういった地点に向かっているように思えると言っています。
そして、近年は過去を知るための科学的手段が目覚ましく進歩した結果、「社会科学」の神話的下部構造を露出させています。こうした新しい知識を使って、私たち自身が誰であり何になりうるのかという考えを再構築しよう、新しい社会を創造する自由の意味を再発見しよう、そうWDは呼びかけます。
社会科学はしょせん神話だからダメだというのではないのです。神話は人間社会が経験に構造と意味を与える方法なのであり、すべての社会には科学と同時に神話もあるのです。問題は、この数世紀の間に私たちの歴史が関わってきた神話体系がもはや通用しないと言うことなのです。目の前に積み上がった証拠とは整合性がとれず、神話体系が価値を与える構造や意味は政治的に破滅的なものに成り果てています。
知識のシステムは古い構造や古い問いに対応して作られていますから、急激には変わらないでしょうが、WDは自らを楽観主義と呼び、変化が起こるのに、さして時間は変わらないだろうともしています。事実、この本は最初の一歩を踏み出したのだからとして、WDはこの大著を締め括ります。
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