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アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2

本書で私が一番気に入ったのが第6章「アドニスの庭」でした。これは本書を読む直前にJ.C.スコット『反穀物の人類史』を読んでいたことも影響があったかもしれません。この本と、本書第6章は大きくネタが被っており、「農耕の起源」というテーマはとても気にかかっていたからです。本書の中で、WDはスコットを肯定的に何度も引用しており、このテーマについても言っていることは大きく変わりません。大きな違いはWDが「アドニスの庭」を話の導入と展開に使っていることです。

「アドニス」はギリシャ神話の人物で、ヘラクレスのような雄々しい男性形象とは正反対の美少年です。美の女神アフロディーティ(ヴィーナス)が言い寄ったとされます(下の絵)が、冥府の女王ペルセポネーにも気に入られ、一年のうち、冥界とこの世を行ったり来たりする運命でした。これは春になると芽吹いて冬には枯れる植物の象徴と解釈されています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Adonis#/media/File:Venus_and_Adonis._Francois_Lemoyne.jpg

アフロディーテとペロセポネーによる美少年争奪戦は、アドニスがイノシシの 牙にかかって死ぬという結末を迎えますが、そのときの彼の血からアネモネの花が生えたという伝説があります。「美少年の死」ということで、ヨーロッパ絵画にも描かれています。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Luca_Giordano_020.jpg

さて、「アドニスの庭」とは、真夏のアテネで女性たちが小さな壺に「庭」を設え、穀物やハーブの種を撒いたものを指します。今でいうプランターです。芽が出たところで、屋根の上に運んで放置して、真夏の陽に照らされて枯れたところで、それを儚く命を散らした美少年アドニスに見立てて、娼婦を含むあらゆる階層の女性たちが屋根の上で(男子禁制の)秘儀的儀式を行います。下世話に言えば、この儀式で女性たちは酔っ払って悦楽に浸りました。これまた近代西洋絵画の画題にもなっています。

アドニスの庭 https://en.wikipedia.org/wiki/File:John_Reinhard_Weguelin_–_The_Gardens_of_Adonis_(1888).jpg

アドニスを祀る女性たちの祭祀のルーツはメソポタミアの豊穣の儀式であり、B.C.7C頃にフェニキアからギリシャに広がったという説をWDは紹介すると共に、家父長制支配の古代ギリシャにおける対抗文化であった可能性も示唆します。つまり、ギリシャの公的な豊穣の女神デメテルに捧げられた国家主催のテスモフォリアという秋祭りへのアンチテーゼがアドニスの祭祀だったというのです。本章はプラトンの『パイドロス』の引用から始まりますが、この中でプラトンは「アドニスの庭」を「まじめな目的」をもった農業と対比させています。

「分別をわきまえている農夫は、もし自分がなにかの作物の種を大切にしていて、それが実りをもたらすことを願っているとしたら、その種を、夏、アドニスの庭にまいて、八日の間に美しく成長するのを見てよろこぶといったようなことを、はたしてまじめな目的のためにするだろうか。それとも、そもそもそういったことをもし彼がするとしたら、それは慰みや媚しみのためにこそするのであって、ちゃんとしたまじめな目的のある種の場合には、農業の技術を用い、その種に適した土地にまき、8ヶ月たって、自分のまいたかぎりのものが実を結べば満足する、といったやり方をするだろうか」

プラトン『パイドロス』

種をまいてからわずか八日間の成長をみて喜ぶ「アドニスの庭」は慰みや愉しみのためのものであり、それは「分別をわきまえている農夫」が「まじめな目的」に沿っておこなう農業とは違うのだとプラトンはいうのです。

さて、農耕の起源を論じるにあたって、なぜ「アドニスの庭」が持ち出されるのかといえば、「アドニスの庭」こそが農耕の起源であり、その担い手は女性たちであr、農業は遊戯として始まり、人類にとっての農耕とは長く「遊戯的園芸」であり続けたという論が本章の中で展開していくからに他なりません。つまりWDは以下のような対比構造の中で論を展開させていくのです。

  • 女性たちの秘儀 v.s.アテネの国家行事

  • アドニス v.s.デメテル

  • 遊戯的園芸 v.s.収穫を目指したまじめな労働

例によってWDは論旨を直線的に展開せず、ウネウネと色々な話題に立ち寄っていくので分かりにくいのですが、ポイントを拾っていくと、「人口が増えてエネルギー生産が効率的な穀物栽培が始まった」という通説は次のように否定されます。

  • シリア北部ではB.C.10000年頃には野生穀類は栽培されていた。その穀類が完全に栽培化されたのはB.C.7000頃である。つまり栽培化には3000年を要した。(p.265)

  • 1980年代から行われてきた実験によれば、穀粒を茎に残す方法で野生種を刈り取れば、それだけの操作で栽培品種に変えていくことができる。短ければ20〜30年、長くても200年でそれは可能である。(pp.262-263)

  • 人類は「まじめな農業」を目指して(より多い収穫を目指して)穀物を栽培化したようではなさそうである。

では、なぜ穀物栽培が始まったのか?WDは穀物栽培の最初の目的は実(穀粒)ではなくて茎(藁)にあったのだろうとしています。実際、穀物が食生活の中心になるよりずっと前から人類は定住を始めており、燃料に使うとともに、粘土と混ぜて家屋やかまど、貯蔵庫などの大型構造物の製作に用いられ、籠、衣類、敷物、屋根などの材料に用いていました。(p.263) これらの用途に使う藁を刈り取っては種を蒔いているうちに栽培品種化がゆっくりと進行しますが、その期間、人類は狩猟採集生活をベースに暮らしており、こうした「農業」はあくまでも狩猟採集を補完するものであり続けました。穀物栽培だけでなく、マメの栽培もそうでしたし、薬草や各種顔料の生産も同様でした。それらは、いつでも少し手をつけてることも出来れば、いつでも止められるような種類の「生産」であり、プラトンのいう「真面目な農業」ではなく「遊戯農業」とでも言うべきものだったとWDは主張するのです。穀物栽培は灌漑が必要と思われるかもしれませんが、おそらくは氾濫農法でしょう。三日月地帯の高地で自生していた野生種の種が、低地の川辺の集落に持ち込まれて、氾濫農法で水を引いた湿地帯に撒かれるのです。これなら、収穫までほとんど手間は要りません。

こうした「遊戯農業」の担い手は当然女性たちであったでしょう。考古学的にも文化人類学的にも上で挙げたような仕事はすべて女性のジェンダーに属するものだったからです。

通説は、人口圧→農耕の発明&食料の安定確保→定住&さらなる人口増大→都市と国家の成立、という図式でした。しかし、農業の開始よりずっと早く人々は定住・集住をはじめていましたし、上に述べたように本格的食料生産としての農業(まじめな農業)がはじまる以前から狩猟採集生活を補完する程度の農業(遊戯農業)は女性の手で長く続けられてきたというのがWDの見立てです。この見立てを象徴するのが「アドニスの庭」なのです。見事だと思いました。

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