『万物の黎明』読書ノート その1
第1章「人類の幼年期と決別する」要約
この本の主題はある意味では明確です。「どうして、いつから、この世の中はこんなにひどいことになったんだ?」という問いかけです。グレイバーのベストセラー本『負債論』の主題は「そもそも借金とはなんだ?」でしたし、『ブルシットジョブ』は「なんでこんなに仕事がつまらないのか?」でしたが、こういう、現代社会が抱える諸問題についてシンプルに問題設定を行うのがグレイバーの特徴なのかもしれません。
こういう問いかけは基本的には神学論争であり、明確な回答が出る訳でもないのですが、大昔からこうした議論は繰り返されました。戦争、貧困、搾取と格差、そしてそれらの問題に対する人々の無関心について人間社会の中で延々と議論され、ときにそれは時間を遡って、太古の昔からそういう問題を抱えていたのか、それとも昔はそんなことがなかったのにどこかで間違った方向に人類が進んでしまったのかという問題設定も行われます。この本は文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローという二人のデビット(このレクチャーではWD:Double Davidと略すことにします)がそれを議論するというのです。
二つの史観、ルソーとホッブス
話の取っ掛かりとしてWDはルソーの『人間不平等起源論』とホッブスの『リヴァイアサン』を取り上げます。この二つは正反対の方向で「人類は昔からこうだったのか?」という問題に答えているのですが、現代の欧米の人類史理解はほぼこのふたつのどちらかに準拠しているからです。
まず、ルソーの『人間不平等起源論』です。現代での理解はルソーのオリジナルとは違う点があるのですが(それは第2章で説明されますが)、その現代版ルソー史観の概略をまとめると以下のようになります:
昔々、私たちは狩猟採集民であり、無垢な心を持ち、小さな集団で平等に生活していた。しかし農業革命が起こり、都市が現れ、幸福な時代は終わった。やがて文明と国家が現れ、文字、科学、哲学が現れ、家父長制、軍隊、大量殺掠、人々を支配する官僚なども現れ、人々は不幸になった。
この物語の元にあるのは旧約聖書冒頭の失楽園、つまり「楽園で幸せに暮らしていた人間は、ある日エデンの園から追い出されて苦しんで生活するようになった」という物語があり、そこに18世紀のフランスで知り得た知識を使ってルソーが語り直したということでもあります。美しい物語ではあるのですが、国家で暮らして文明社会を生きている私たちにとっては、ちょっと暗い話です。「あなたがたは不幸だ」と断言されているのですから。あとで見ていきますが、人類史を扱った現代の著作はそのほとんどがこのルソー史観を取っています。
一方のホッブスの『リヴァイアサン』も暗い話です。
人間は利己的で、原初の自然状態は無垢から程遠く、万人が万人と争う戦争状態にあった。政府、裁判所、官僚機構、警察などにより進歩がもたらされ、人は平和に暮らすことが可能になった。
人間の本性は利己的で、放っておくと争って無秩序のままだというのです。しかし、国家(政府や警察)のおかげで平和で暮らせるようになった、とすることで現在の国家体制を肯定しますから、現代政治のテキストの中にその派生系が多く出ています。
本書でのWDの立場
WDは、本書を通じてこの二つの考え方に反論すると宣言します。これらの議論は
1。事実と異なっており
2。不吉な政治的含意があり
3。過去を不必要に退屈にしている
だとして、順々にその概要を描いていきます。
ルソー・モデルもホッブス・モデルも事実とは異なる:
過去数十年間、世界中で新しい考古学の発見があり、それらの研究の中で分かったことがいっぱいあります。それらが、上記の二つの史観による「世界像」とズレているとWDは言います。同様の問題提起はWD以外からも出されていて、WDが初めて言い出した訳ではないことに注意してください。具体的には以下のような発見があげられます:
農耕開始以前の人類社会は平等主義的な小集団(バンド)だけではなかった
農耕開始以前の狩猟採集民は大胆な社会実験を繰り返しており、あらゆる政治形態をとっていた
農耕によって私有財産が誕生したわけではなかった
私有財産によって不平等社会に不可逆的に進んだわけでもなかった
最初期の農耕共同体の多くは身分やヒエラルキーから解放されていた
世界最古の都市の多くは平等主義的に組織されていて、統治者がいなかった
世界中の研究者たちは、歴史資料や民族誌を検証し直して議論を組み立て直しています。WDもこの本で、パズルのピースを組み立て始めるのだと宣言し、そのために従来の「世界像」を支えている概念自体を転換することが必要だとします。特に第2章ではルソー史観を支える社会進化論を考え直すことになりますが、WDはそこでヨーロッパの啓蒙思想の見方を根本的に揺るがすような大仕掛けを展開することになります。
ルソー・モデルとホッブズ・モデルの不吉な政治的含意:
ホッブズ・モデルは現代の経済システムの基本的前提でもあります。つまり、人間は基本的に利己主義であり、エゴイスティックな計算によって意思決定を行っているという前提で経済学は構築されています。ホモ・エコノミクスというモデルに人間は従っているとする訳です。この政治的含意は明らかでしょう。現在の政治と経済システムを肯定しているのです。
ルソー・モデルはそれよりも穏やかですが、「現行システムに問題があろうとも現実にできることは、ちょっとした手直ししかない」という議論に利用されています。「現在の社会的不平等が問題であるということは認めるが、実質的な解決は不可能だ」という隠れた意味がそこにひそんでいます。そして不平等の解消とはいったい何なのかという、具体的なイメージはありません。不平等という状態は変えようもないということを最初から前提としています。行き過ぎを是正する程度のことしかできないのです。「無垢と平等の原初状態」という美しいイメージと抱き合わせの、深い悲観主義を我々の常識に仕立てあげています。
ここでWDはアジります:「世界史を正確に、希望を持って描くためにはエデンの園を捨て去ること、何十万年ものあいだ、人類は同じ牧歌的社会組織を共有していたという考えを放棄することだろう」と書き、その長い期間、世界のあらゆる場所で人類社会には何も起こらなかったと考える方が不自然なのだとします。
本書執筆の基本的な立場:
さらにWDはたたみかけます:
「人類史の究極の問題は物質的資源(土地、カロリー、生産手段)への平等なアクセスではない。どのように共に生きるかという決定に貢献する、わたしたちの平等な能力である。」
「「人間が人間を作った」のであり、私たちは集団的自己創造のプロジェクトなのである。」
「人間は、最初から想像力豊かで、知的で、遊び心のある生き物として考えるべきなのではないだろうか?」
グレイバーの著作をまだ読んだことのない人、あるいは読み慣れていない人は戸惑いそうな部分だと私は思います。本文にしろ、この解説文にしろ、ここまではスラスラと読めるのに、ここで議論のトーンが変わっているようにも見えます。しかし、この部分は『万物の黎明』執筆に当たっての基本的な立場の宣言部分でもあります。唐突に思えるかもしれませんが、心に留めておいてほしい部分であり、本書の理解が進む中で戻ってきてほしい部分でもあります。
つまり、現代社会において散々問題になっている不平等自体が本当の問題なのではなく、不平等によって私たちの自己決定権が損なわれていることが問題だというのです。何についての自己決定権なのかといえば「どのように共に生きるのか」を自分たちで決める権限もしくは可能性ということになります。その観点からすれば、ルソーのように「人類が平等な牧歌的状態からいかにして転落したかを語る」のではなくて、「なぜみずからを再創造する可能性を想像すらできないほど雁字搦めに囚われてしまったのか。そのように問いを立て直すべきではないか」とWDは問いかけます。
WDもまた、本書執筆のプロジェクトが始まった時は社会的不平等の起源を考えていたと認めています。しかし、そのアプローチでは、人類はかつて理想状態にあって、そこからの転落があり、その転落のきっかけがあったなどの発想がついて回ってきます。それはある種の「罠」だと気がつき、彼らは視点を変えたというのです。
ルソーの語ったことと、ルソーの後継者が語ったこと
ここで有名な政治学者のフランシス・フクヤマと、『銃・鉄・馬・病原菌』で有名な科学啓蒙作家であるジャレド・ダイアモンドの文章を引用しながら、多くの人が「この罠にかかっている」と語ります。平等社会にとどめを刺したのは農耕の発明であり、それによってバンド(小集団)は部族社会に移行し、やがて首長制という身分社会へ発展し、王や皇帝が登場した、というような話を実際彼らは書いていますし、通史としてそういう話は広く流通しています。でもそれは、ルソーのヴィジョンを繰り返しているだけであり、それを反証する考古学的証拠が積み上がった現在、科学的裏付けはないとWDは言うのです。
しかも実際にはルソーは上に書いたような、人類社会の進化を定式したわけではありません。それは第2章で詳しく描かれますが、ルソーが語ったのは、人間政治の根本的な逆説でした。人間は生まれつき自由を欲求しているのに、どうして繰り返し「不平等への行進」を始めてしまうのか、というパラドックスを考えたのです。「すべての人はじぶんの自由を確保するつもりで、みずからを縛る鎖に飛びついたのである」というのが『人間不平等起源論』の有名な一節ですが、これを説明するために、ルソーは「自然状態」というものを思考実験として設定しました。ルソー自身はこの自然状態は歴史上の出来事ではなくて、思考実験なのだと強調していますが、社会進化論がルソーの自然状態を歴史の上に位置付けて定式化します。これも第2章で詳しく述べられます。
現代のホッブス主義者、ピンカー
ホッブズも同じように自然状態を設定しましたが、それは「万人の万人に対する戦い」というものでした。そして、これもルソーと同じように進化論的歴史研究の出発点として扱われることになります。ここでは、現代版ホッブズ主義者の例として、心理学者で科学啓蒙作家でもあるスティーブン・ピンカーが取り上げられます。
ピンカーが強調するのは農耕の開始ではなくて都市の発生ですが、これまた科学的根拠が無いとWDはこきおろします。先史時代が暴力的だったということを断言するためにピンカーが持ち出すのは、「アイスマン」と呼ばれているミイラの一例だけだと指摘します。アイスマンとはアルプスの氷河から発見された、紀元前3000年頃のミイラ化した死体で1991年にスイスアルプスの氷河の中から発見されました。周囲の残留物などから、狩猟採集時代の貴重な物証を多く提供しているのですが、死因は肩に受けた矢傷でした。
アイスマン:
ピンカーのこの論法が許されるなら、「ロミート2」の人骨を持ち出せば、まったく正反対の結論が導けるとWDは反論します。ロミート2は南イタリアの洞窟で発見された9200年前の遺骨ですが、重度の低身長症で、狩猟への参加は無理と判断されています。しかし栄養状態は同時代の遺骨と比較しても悪くなく、生前は十分にケアされていたことが推測されます。そして丁寧に葬られているのです。身障者が手厚くケアされていたことになりますから、ピンカーの先史時代観の判例となり得ます。
ロミート2:
ピンカーのようなホッブズ主義者がよく引き合いに出したがるのはアマゾンのヤノマミ族で、1970年代に本や映画を通じて「獰猛な未開人」として有名になり、「ホッブズの罠」の体現者とみなされました。つまり、襲撃や戦争のサイクルに巻き込まれ、いつ殺されるかもしれない危険に晒され不安定な生活を送っている、国家なき部族民ということです。ピンカーはそれが進化によって定められた悲惨な運命であり、そこから脱出できたのは、国民国家、法定、警察機構による庇護を選択したからであり、理性的な議論と自制の美徳を受け入れられたからだとします。「その理性的な議論と自制の美徳」とは、ヨーロッパ人の独占物であり、それが啓蒙時代をもたらしたとするのです。要はヨーロッパ文明中心史観です。
ヤノマミ族:
WDはピンカーへの反論のポイントとして二つ挙げます。
ピンカーの議論への反論点1:自由・平等・民主主義は「西洋的伝統」の産物ではないとWDは指摘します。ヴォルテールが聞いたら驚く筈だとも言います。第2章で詳述されますが、ヨーロッパの啓蒙思想家たちは揃って、自由や平等といった理想をヤノマミのような「未開人」の口を借りて語らせました。それはヨーロッパで欠けているものだったからです。そして、プラトン、マルクス・アウレリウス、エラスムスといった西洋的伝統の著述家たちはそうした理想について、はっきりと反対していました。「民主主義」という言葉こそ古代ギリシャで発明されましたが、民主政は劣悪な統治形態であるとも、ずっと思われていました。プラトンが民主制を「衆愚政治」とこきおろしたことは有名です。これらの理想は西洋文明の独占物ではありません。グレーバーには『民主主義の非西洋起源について』という著作もありますが、合理主義、合法性、熟議民主主義の萌芽と解釈できるものを世界中から探し出すことは簡単だし、それが現在のシステムにどう繋がるのか説明することも簡単に出来ると言います。
ピンカーの議論への反論点2:現代社会の問題はまだまだ多いにしても、ピンカーは我々が進歩している証拠として統計を使います。健康、安全、教育、快適さなどの指標は、我々が未開人より進化していることを示すというのです。しかしWDはこう指摘します。「ある生き方が本当に満足できるものなのかどうかは、複数の生き方を経験した人間に選択権を与えて、彼/彼女がどちらを選ぶかを見るしかない」と。ピンカーに従えば、まともな人間ならば暴力に晒されている部族社会よりも西洋文明に間違いなく飛びつくはずでしょう。しかし、過去にそういう選択を迫られた個人はほぼすべて部族社会を選んだとして、WDは、ヤノマミに誘拐された白人女性エレナ・ヴァレロの例(いったん白人社会に戻るが、適応できずにヤノマミに戻った)を解説し、北米インディアンでも数多く似たような報告報告があると指摘します。その反対に養子縁組や結婚でヨーロッパ社会にやってきたインディイアンたちは、高い教育を受けた者も含めて、逃げ出すか、社会適応できずに余生を元の部族のもとで過ごしたともされています。ベンジャミン・フランクリンもそうした事例を書き残しています。
当事者たちが語った「インディアン社会にとどまる理由」は以下のようなものでした。自由の美点(土地や富を求めて働き続けなければいけないことからの自由を含む)だれかが貧困や飢餓・窮乏に陥ることを嫌う社会(おそらくは惨めな人間がいない社会の方が愉快に過ごせるという考えかた)よそ者でも首長の家族になったり、首長にもなれるという平等性おそらくいちばんの理由は、社会的なきずなの強さ(相互のケア、愛、幸福であること)であって、それはヨーロッパでは確保できないと彼らは感じていたのでしょう。矢で射られる確率はピンカーがやったように統計で示せますし、それが低い文明社会が「安全な社会」であることも確かでしょう。しかし矢で射られたときに隣人たちが必ずケアしてくれると確信できる社会も「安全な社会」なのです。部族社会に逃げ戻った人々は後者の「安全」をより重視したのです。
従来の人類史は不必要に退屈なものになっている:
そもそも、標準的な世界史は人間をステレオタイプに還元して問題を単純化させています。「高貴な」未開人も「野蛮な」未開人も、そもそも実在しません。それは、モデル化された世界観の中だけに住んでいる退屈な存在なのです。
ここでWDは矛盾するようなことを書きます。「社会理論はつねに単純化を伴うことも事実であり、それによって、いままで見えなかったものを私たちの目に見えるようにしてくれる。しかし、単純化された世界観を常識化することで歴史は貧弱化する」というのです。マルクスが資本と労働で、フロイトが無意識と性欲で、レヴィ=ストロースが「構造」で世界を単純化させたのはその典型例であり、彼らはすべてを一つの「戯画」へと還元して、ふつうなら見えないパターンを探り出しました。そうした学問は、つきつめてみれば馬鹿げて見えること(戯画)を述べる勇気によって生まれてきたのです。世界をいったん単純化さることで新しい発見をしたのが彼らの功績です。ホッブズやルソーも、単純化によって同時代人に驚きを与えて、想像力の扉を開いたのです。しかしそうした世界観も時間が経てば擦り切れた常識に過ぎなくなり、人間的事象を同じように単純化しつづける意味はありません。そこには貧弱な歴史しかないですし、わたしたちの感性を衰弱させるだだとWDは言います。この部分は、「よく出来た社会理論」の負の側面をうまく捉えているなと、私は思います。
「原始交易」は本当に交易だったのか?
単純化が歴史を退屈なものにしている例としてWDは「原始交易」を取りあげます。
現代の競争的市場交換が人間の本性に根ざしている(だからそれは人間社会の宿命である)ことを証明しようとする人々は「原始交易」の存在を強調します。3000年前にはバルト海の琥珀が地中海にに運ばれており、メキシコ湾の貝殻がオハイオ州に運ばれていましたが、そうした物品を「原始通貨」とみなして、資本主義の萌芽と見なすのです。貴重なものが移動していたのならそれは「交易」なのであり、それはなんらかの商業活動なのであり、よって市場経済の初期形態なのであり、よって市場は人類史の中で普遍的なものだという論法です。しかし、それは貴重物の移動の理由に、市場以外のものが想像できないだけだとWDは指摘します。市場経済や、それらしきものが存在しない社会で貴重物が長距離を移動する事例は、人類学で無数に報告されているからです。
マリノフスキーが報告した西太平洋の「クラ・リング」などは有名でしょう。首飾りが別の島から贈られてくると、贈られた側は腕輪を贈り返す(あるいは腕輪が贈られると、首飾りを送り返す)習慣があるのですが、首飾りは交易圏を必ず時計回りに移動し、腕輪は反時計回りに移動します。首飾りと腕輪は島から島へと移動を続け、おおよそ2〜10年かけて一周するとされています。この首飾りと腕輪の交換は、通常の物々交換とは厳密に区別されており、他の物品との交換が行われることは絶対にありません。物質的な利得は一切ないにも関わらず、男たちは名誉をかけて遠方の島に首飾りと腕輪を運び続けています。
また、WDは北アメリカ先住民の物品の移動を伴う「長距離交通圏」の実際例を、3つあげますが、これらはいわゆる「交易」とは異なるものです。
<ヴィジョン・クエスト>:イロコイ緒部族では夢に出てきた物品(戦利品、水晶、犬など)を求めて数日間の旅に出て、それを持ち帰る。他所の部族のところに出かけ、「これは夢に出てきたものだ」と言えば、それらの物品を貰い受けることができた。その結果、時間をかけて物品が町から町へと移動していた。またグレートプレーンズでも珍しい物品やエキゾチックな物品を求める長距離の旅が行われていた。
<旅の治療師兼芸人>:治療師兼芸人は取り巻きを従えて町々を移動した。彼のパフォーマンスで命を救われた人々は一座に財産を渡した。そうやって貴重物が移動していった。
<女性のギャンブル>:女性たちはギャンブル好きで、村落間で行われた賭博で物品を巻き上げたり、巻き上げられていたりした。そうやって貝殻などが移動していった。
別の時代、別の場所での人間生活のありようを私たちが推測するとき、実態よりもはるかに退屈で人間性に乏しい世界を私たちは想像してしまうのだとWDは警告します。
本書のこのあとの展開:
著者たちが本書で構築しようとしているオルタナティブなストーリーは次のような問いに答える形で展開します:
人類史の過半で人類たちが小集団での狩猟採集生活を行っていなかったとしたら、彼らは何をしていたのか?
農耕や都市が階層社会や支配の導入を意味していないとしたら、それは何を意味していたのか?
国家が出現したというのは、具体的には何が起こったのだろうか?
これらに答えていく中で、人類史の流れは確固としたものではなく、遊戯的可能性に満ちているかもしれないということが示されていきます。そうした、あたらしい世界史の基礎を築くことが本書の目的だというのです。
本書のもう一つの試みは、「不平等の起源とはなにか」という問いが、歴史をめぐって問いかけるべき最大の問いではないとしたら、それはなんであるべきなのか?です。森に逃げ帰るインディアンの捕らわれ人の逸話からも明らですが、我々の社会には、なにか大事なことが失われてしまったことは確かなのです。その意味でルソーがまったくの出鱈目を書いたわけではありません。何が、どのように失われたのか、そして現代における社会変革の可能性を示唆するところがあるのかについても考えていきたいとWDは書きます。
以上が、第1章のあらましです。序論にあたる部分ですが、この本の場合は続く第2章も序論的性格を持ちます。具体的には、なぜ人々が「社会的不平等の起源を問う」ことを始めたのかという歴史的ルーツを辿るのですが、それを検討したことがWDにとっての研究の突破口になったからだと言います。そしてそこから農耕、私有財産、都市、民主政、奴隷制、文明などの起源についての理解をWDは新たにしたと言うのです。
(その2に続く)
『万物の黎明』読書ノート その0
『万物の黎明』読書ノート その1
『万物の黎明』読書ノート その2
『万物の黎明』読書ノート その3
『万物の黎明』読書ノート その4
『万物の黎明』読書ノート その5
『万物の黎明』読書ノート その6
『万物の黎明』読書ノート その7
『万物の黎明』読書ノート その8
『万物の黎明』読書ノート その9
『万物の黎明』読書ノート その10
『万物の黎明』読書ノート その11
『万物の黎明』読書ノート その12