人類は最初から「賢い人(ホモ・サピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
ホモ・サピエンスの遺伝子構成は約20万年前に確立してますが「文化」の直接証拠は10万年以上を遡りません。南アフリカで約8万年前の遺物が見つかり、世界各地で4万5000年前頃の遺物が大量に見つかったために、このときになんらかの出来事があったとされ、それは「後期旧石器時代革命」もしくは「ヒューマンレヴォリューション」と呼ばれます。しかし、20万年前のホモサピエンスの発生からこの出来事までに長い時間がかかっているのは何故なのか。こうした問いかけは「サピエント・パラドックス」と呼ばれています。
著者たち(二人のDavidという意味で、以下WDと略)の見解は、「たまたまヨーロッパでその時期に大幅な氷床の移動があったことと、他地域に比べてヨーロッパでの考古学調査が進んで遺物の発見が多かったことから、そのように見えたというだけ」というものです。現在、ヨーロッパ以外の各地で4万5千年より以前の遺跡や遺物が続々と発見されていて、ヨーロッパはむしろ遅れていたという見解すらあるとのこと。
ということで、WDは「後期旧石器時代革命」というイベントがあったことを否定して、人類はそれ以前から変わっていないという見解を示します。私なりに補足すると、ホモ・サピエンスは個体数が数百体の超マイナーな生物種だった時代が圧倒的に長かった(約19万5000年前から約12万3000年前まで)ということが言われています。絶滅危惧種と言っても良いぐらいの個体数ですので、この時代の遺物が見つかる確率はとてつもなく低くて当然でしょう。また、アフリカを出て世界各地に拡散してしまった後の人類全体に渡って何か遺伝的な変異が生じたというのは現在の標準的な進化論では認めるのが困難です。
近年に見つかった、後期旧石器時代(5万年前〜1万5千年前)の豪勢な埋葬だとか大規模な共同住宅などの存在は「平等主義的な狩猟採集民の小集団社会」のイメージを完全に覆したとWDはしています。大規模な共同住宅の存在は従来の「初源の人類=小集団(バンド)で移動する狩猟採集民」というイメージに沿いません。立派な副葬品に身を包まれた埋葬は階層社会の存在を想像させます。
となると、人類の初源はルソー流の「平等主義的な狩猟採集民の小集団社会」だったのではなく、最初から王が支配する階層社会だったのか?実際、そんな風に説明する人もおられるそうですが、WDが本書で描くのはそのどちらでもありません。彼らが描くのは「そのどちらもあって、人類はさまざまな社会形態をその都度選択しては、別の社会形態に移っていった」というイメージです。
WDは、クリストファー・ボーム(霊長類学、進化人類学)の説を紹介しながら、人間の本能に支配=服従行動をとる傾向があるとする一方で、人間にはそのような行動を意識的に避ける能力もあるとして、それが人間社会の特徴でもあるとしています。偉ぶりたい人間、いじめ体質の人間というのは一定数いますが、それと同時にそうした人間を嘲笑する・顔をつぶす・避ける・殺すなど、多種多様な戦術が平等主義的狩猟採集民の中では観測できています。他の霊長類では、こうした行為は観察されていないので、これは人間の特徴でしょう。さらに「もしそれをしなかったら、この社会はどうなるのか」ということを考える人類の能力こそが、政治の本質であるとボームは言うのですが、これはアリストテレスが人間を「政治的動物」と表現したことにも通じています。
ボーム自身は人類は長い間平等主義的だったが、農耕の開始とともに階層社会に転じたという説の信奉者でしたが、WDはその部分は採用しません。人類は「支配ー服従」という関係から始まる階層社会を受け入れたり、それを回避した平等主義社会を選択したり、時と場所に応じて使い分けてきたとするのです。
現代の思想家たちは、未開人を描くときにサルに例える場合が多く(例としてユヴァル・ハラリの『サピエンス全史』(2014)が引かれています)、あたかも初期人類は意識して物事を考えることがなかったかのように描かれます。これも一種のサピエント・パラドックスではないかとWDは言います。現代人と同じ大きさの脳を持っていた初期人類は数万年間、物を考えなかったというのも同然だからです。
西洋哲学はその長い伝統の中で「合理的で自己意識をもった孤立した個人」を人間の初期設定とみなすようになりました。さらに18世紀から19世紀にかけて、アメリカ革命やフランス革命を経た歴史的成果としての政治的自己意識が出来たのだと見做すようになります。ということは、それ以前の人々は伝統や神の意思に盲従する者ということです。「合理的」な西洋人と違って、「未開」の人々は政治的自己意識を持たず、意識的思考もできず「前論理的心性」で動く「神話的夢想世界を生きる」人々というわけです。
第2章で紹介される、17世紀のウェンダット族のカンディアロンクからみたら驚くに違いないとWDはいいます。彼らは自らの社会を意識的な合意によって形成された連合体だとみなしていました。ところが19世紀も末頃になると、そもそもカンディアロンクは架空の人物だと言われるようになります。未開人があんな賢い言い方が出来るわけがなく、「高貴な未開人」幻想に過ぎないということにされるのです。こうした見方は現代でも払拭されていないとWDは論じます。
「未開人」も自覚的に政治的思考をおこなっていたという可能性が、現代の思想家たちには思い至りません。そして、そうした偏見から逃れてきた例外的な思想家たちの系譜が語られていきます。もちろんWDは自身をその系統に連なるものとしています。
彼らが本書で強調するのは、人類は最初から「賢い人(ホモ・サピエンス)」だったということです。
『万物の黎明』ノート 目次のページ
<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)