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万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1

『万物の黎明』というタイトルを見て「また、大きく出たもんだな」という感想を持った人も居たと思います。まあ、農耕の起源、都市の起源、国家の起源を論じたという点で本書のテーマはたいへんに「大きい」のですが、それにしても「万物の黎明:The Dawn of Everyting」とは風呂敷を広げ過ぎてやしないか?訳者解説ではゴードン・チャイルドの『ヨーロッパ文明の黎明』が意識されているのだろうとされていますが、それにしても「万物」に話を広げるのはやりすぎでは無いのか?

本書は、農耕・都市・国家の起源を論じながら、「農耕革命と呼べるような事件は無かった」「都市は私たちが思っているような形で始まっていない」「国家の起源を論じるのは無意味である」等、人類史の黎明期についてこれまで語られていた一般的なストーリー(物語)を片端からひっくり返し続けます。それらに対するオルタナティブな物語を語ろうとしていることは分かるのですが、それにしても「万物」とは。

このタイトルを額面通りに受け取るべきで無いと気がつくのは、最終章(第12章)p.563で宗教学者ミルチア・エリアーデの説の中でこの言葉が引かれているのを読んだ時です。

エリアーデによれば、伝統社会では、重要なことはすべてすでに起こっている。あらゆる偉大な創設の身振りは、神話の時間、イロ・テンポーレillo tempore[かのはじまりの時]、万物の黎明に遡るのである。

(本書p.563)

著者たち(以下、「二人のデービッド」という意味でWDと表記します)はエリアーデおよび、この説を否定的に捉えていますので「万物の黎明」というタイトルをエリアーデ的に使っているわけでは無いことは明らかでしょう。伝統社会であっても、社会体制の変革など重大なことは起きていたというのは本書の中で繰り返し述べられたことです。

そして、この箇所に至って、ようやく本文冒頭のエピグラフの意味について取っ掛りを得ることができます。

「この雰囲気は、政治や社会、哲学、どこにあっても認めることができる。わたしたちは、ギリシャ人がκαιρος(カイロス)と呼んだもの、「神々の変貌」、つまり基本的な原理と象徴の転換の時期を生きているのである」C.G.ユング『発見されざる自己』(1958) 

本書(p.2)

古典ギリシャ語には時間を表す概念としてクロノスとカイロスがあります。「クロノス=時間、カイロス=時刻」と一応は説明できるのですが、英語のclockに対応するクロノスは過去から未来へ一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間を表現するのに対して、カイロスは一瞬や人間の主観的な時間あるいは内面的な時間を表します。本書の終わり近くでWDは冒頭のエピグラフで引いたこのカイロスを次のように解説します。

わたしたちは、ギリシャ語のカイロスκαιροςという概念言及することから本書を出発した。これは、ある社会の歴史の中で、参照する枠組みが変化し、それゆえ真の変化が可能になるときを意味している。神話と歴史、科学と魔法の境界線があいまいになり、基本的な原理やシンボルが変容するその結果、真の変化が可能になるときである、、、、、、カイロスとは<出来事>の生じやすい時代のことである。

本書(p.591)

本書の構成が「カイロス」に始まって「カイロス」に終わることを知ると、タイトルも含めてWDの意図はよく分かります。我々は実はカイロス、すなわち「出来事が生じやすい時代」を生きているのだというのです。WDが本書の中で「なぜ私たちは閉塞してしまったのか、なぜ別の社会の可能性を思い描くことができなくなってしまったのか」という問いを繰り返していることを考えると、「私たちは別の社会の可能性を思い浮かべることも出来るし、別の社会を作ることも可能なのだ」というメッセージをそこに認めることができるのです。「万物の黎明」はエリアーデが言うような神話時間に閉じ込められてはおらず、いま現在が(そしてあらゆる時代が)「万物の黎明」期だというのです。

学術書という体裁をとった、革命宣言書とも言えるのかもしれません。

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