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肥沃な三日月地帯の高地と低地『万物の黎明』ノート31

肥沃な三日月地帯の構造 ーー高地と低地ーー

著者たち(二人のデビットなので以下WDと略します)によれば、農耕や都市が発生した「肥沃な三日月地帯」は地理的に「高地」と「低地」に分かれており、その差異が重要な意味を持ちます。両者の間は砂漠と不毛な高原が隔てていました。

本書

この地域が明確に二つに分かれて形成されたのは最後の氷期が終わった約10000年前です。高地はオークとピスタチオの森林地帯が広がり、狩猟し放題の平原をいくつもの河川が横切っています。低地は河川と湖岸と泉に支えられた肥沃な土地です。そして高地と低地の採集民社会は全く違う方向へ変化していったとWDはしています。

高地では、定住した狩猟採集民の間で階層化が顕著に進んで、ギョベクリ・テペの巨石センター(第3章ノート14)やカラハン・テペのような遺跡を残すことになります。これとは対照的に、ユーフラテスとヨルダン渓谷の低地では、このような巨石遺跡はありません。この2つの社会は、黒曜石や貝殻を交易していましたから、お互いをよく知っていました。その上で、違う社会進化を進んだのです。つまり第5章まで説明した分裂生成です。

レバント回廊の交易路とニッチな作物耕作

先史時代の交易路として、シリアのユーフラテス川の湾曲部から始まり、ダマスカス盆地を曲がりくねってヨルダン渓谷へと下っていく「レバント回廊」があります。ヨルダン渓谷に住んでいた低地民は、工芸品(石挽き、ビーズ彫刻、貝殻加工など)の職人・商人であって、特別な「カルト建築物」や季節的な宿もあり、ギルドや秘密結社が技術を管理していたとみられます。紀元前9千年紀までに、ヨルダン渓谷の肥沃な土地では採集民たちが交易で得た富をもとに、大規模な集落を作っており、その中にはエリコやバスタのように、10ヘクタール広さのものもありました。

肥沃な三日月地帯全体は場所によって気候や地形が急激に変化し、野生資源の生育サイクルも地域的にずれ、採集者が補完的な生産物(食品、医薬品、薬、化粧品など)を交換する機会が常にありました。農業そのものは、まさにこのようにして始まったと思われるとWDは推測します。多くの「ニッチ」な活動や地域的な特化形態のひとつとしての園芸的農業です。初期農業の始祖作物であるエマー小麦、アインコーン、大麦、ライ麦は、ヨルダン渓谷からシリアのユーフラテス川まで、そしておそらくはさらに北まで、レバント回廊に沿って点在するさまざまな場所で栽培されました。

高地における儀礼的穀物栽培

標高の高い三日月地帯では、家畜(イラン西部ではヒツジとヤギ、アナトリア東部ではウシ)の管理が、季節ごとの狩猟や採集に組み込まれました。穀物の栽培も同じように、主に野生資源(木の実、ベリー類、豆類、その他容易に入手できる食料品)に基づく経済の、かなり小規模な補完として始まったのでしょう。しかもカロリー摂取が主目的の耕作は行われなかったとWDはしています。穀物生産は新しい方法で人々を集め、共同作業を行わせ、その結果として儀式的な生活に取り入れられました。シリア・ユーフラテス河畔のジェルフ・エル・アフマール遺跡では、穀物の貯蔵と加工は、普通の住居ではなく、屋根の開口部から入る地下の小屋と結びついており、儀式的な連想が充満していたとWDは言います。

穀物の栽培化は簡単に起こるが、栽培化は抑制されていた

栽培化とは野生での繁殖機能を喪失することを指します。例えば、野生種は人の手を借りずに種子を散布する機能(弾けて落穂する)がありますが、栽培化ではそれが失われます。

参考:『反穀物の人類史』p.69では穀物の野生種の望ましい性質と栽培種の望ましい性質を次のように説明し、栽培化とは前者の性質を喪失して後者の性質を獲得することだとしています:
野生の植物の本来の進化方向:穂がすぐに弾ける、不均等な成熟、動物や鳥が食べにくい穎(えい)や芒(のぎ)、分厚い種皮
栽培者にとって望ましい栽培植物:穂が弾けない、生育期や成熟期が決まっている、たくさんの大きな種子をつける、種皮が薄い、一斉に熟する、脱穀が容易、発芽率が高い、種子の付属体が少ない

最後の氷河期の後、小麦や大麦は、レンズ豆、亜麻、エンドウ豆、ひよこ豆などとともに栽培が始まりました。単一の中心地はなく、肥沃な三日月地帯のさまざまな地域でこの栽培は起こっています。野生種もわかっていますから1980年代に研究者たちは、栽培種への変化を再現させて、遺跡から出土した植物遺体と比較しています。

「農耕革命」という言葉に引きずられて私たちはその変化が急激に起こったものと想像してしまいますが、実際には野生種から栽培種への変化は長い時間がかかっていました。ところが、手で普通に刈り取る作業をつづけるだけで、つまり籾をつけたまま刈り取って、籾を藁から外してそれを耕作地に撒き、それを選別しながら続けるという作業だけで、わずか20~30年、長くても200年程度で栽培種への変換が可能だということが実験から明らかなっているのです。(弾けてしまった穂は収穫されないので、穂が弾けにくい個体のみが選別されていくということのようです。)実際には栽培品種への転換は三千年を要していますから、新石器時代人が意図的に栽培品種を作っていたとは考えにくいのです。

栽培の目的は別にもあった?

麦の栽培のそもそもの目標は籾ではなくて藁にあったのかもしれないとWDは言います。燃料用、泥や粘土と混ぜて家屋の壁を作る素材、籠、衣類、敷物などの材料としての藁が求められ、籾は副次物だった可能性もあるというのです。選別は行わず、藁を得るための刈り入れを繰り返しているうちに、野草の持つ自然な種子散布(種が弾ける)の性質が失われ、栽培化品種の条件の一つだけが満たされたという可能性はあるというのです。

ともかくも人類は、小麦の栽培化に向かって一直線に最短時間で進んだわけではないのです。穀物栽培は紀元前10000年に始まり、紀元前7000年頃に栽培品種化が終わっています。3000年は「革命」には長すぎないでしょうか。耕作が負担にならない限りにおいて(整地や、耕作などを行わない限りにおいて)、定住社会にとって耕作は多様な環境管理手段の一つに過ぎなかったのです。たとえば氾濫農法なら、労働力はたいして要りません。そしてこの農法は土地の区画化を無効にしてしまうので、集団所有や集団内の再配分システムを促す方向に向かいます。つまり、ルソーが想像したような農耕の開始で所有が発生したとは考え難いのです。

ナイル川の氾濫農法

野生穀物の密集地は雨量が多い高地でしたから、低地の住民がそれを取ってきて、氾濫原に撒いたのが穀物栽培の開始と見ることができるとWDは言います。

「農業」は新石器時代人の活動のほんの一部分にしか過ぎない

「農業」という言葉は本質的に食糧生産に関わるものですが、それは新石器時代の人と植物の関係のかなり限定された一側面に過ぎないとWDは言います。「野生の自然」の手に負えない力に対する何らかの支配や制御を意味する「栽培」の一部を意味するのが「農業」だと、とりあえずは言えるのかもしれません。しかし、初期の耕作者の生態を説明するには、「農業」や「栽培」では言い尽くされていないものがあるのだとWDは言うのです。

新石器時代人たちは、野生の自然を飼いならしたり、一握りの種子草から可能な限り多くのカロリーを搾り取ったりするということにはあまり関心がなかったようにみえます。新石器時代の植物学者たちは「雑草」「薬物」「ハーブ」「食用作物」を並行して栽培し、湖や泉の縁の、年毎に場所を変える沖積土壌を利用しました。薪を割ったり、畑を耕したり、水を運んだりするのではなく、自然を「説得」する方法を見つけたというのです。彼らの科学とは、支配や分類ではなくて、自然の力を曲げたり、なだめたり、おだてたり、だましたりして、好ましい結果を得るという種類のものでした。彼らの「実験室」とは現実の動植物の世界であって、綿密な観察と実験で、その動植物の生来の傾向を見極めた上で利用しました。この新石器時代の栽培方法は非常に成功し、ヨルダン渓谷やユーフラテス渓谷のような肥沃な三日月地帯の低地で、3千年にわたって集落と人口の漸進的な成長が促されたのです。
これを、「本格的な農業」の到来に向けた、ある種の長期的な移行期やリハーサルだったと考えるのは、本末転倒というものです。レヴィ=ストロースの言う「具象の科学」によって、新石器時代には農業、陶器、織物、冶金、航海術、記念碑建築、動植物の分類と家畜化などの輝かしい発明が行われました。そして、これらの「具体性」は無関係に見える領域全体にわたっていることに注意を向けたいのです。氾濫農耕では、沼地や湖畔の泥土に、耐久性のある集落を築く必要がありました。そのために土壌や粘土の性質を知り、さまざまな条件下での肥沃度を観察した上で、それを建築材料にしました。さらには抽象的な思考の媒体としても用いられています。土や粘土は小麦や籾殻と混ぜて、建築の基本的な材料になり、オーブンや家具、断熱材などにも使われ、男性と女性や人間と動物などの関係性をモデル化して認識論的問題を解決するための小型の幾何学的トークンも作りました。(これはのちに数字に発展していくことになりました。)そして土と粘土は生者と死者の関係を再定義するようにさえなりました(おそらくは土偶のことです)。

そう考えていくと、「農業の起源」の経済的な側面よりも、メディア革命の側面が浮き上がって見えてもきます。ここには園芸から建築、数学から熱力学、宗教から性別役割分担の再構築まで、あらゆるものが包含されているからです。このなかでは女性の仕事と知識がその創造の中心であったことは明らかですし、そのプロセス全体は、大きな暴力的紛争に見舞われることもなかった、かなりのんびりとした、遊びのようなものでさえあったといえます。つまり「アドニスの庭」的なものだったのです。さらに言えば、このプロセスはすべて、急進的な不平等が生じる可能性が極めて低い方法で行われていました。

高地で起きていたこと

以上は、肥沃な三日月地帯の低地、特にヨルダン川とユーフラテス川の渓谷沿いの社会で起きたことです。これらの低地と交渉があった三日月地帯の高地にも定住民がいて、さまざまな野生動植物資源を管理していました。彼らもまた、耕作や牧畜を部分的に取り入れながらも、食物の大部分を非農耕種から得ていました。しかし、大きく異なる点もあります。ギョベクリ・テペのような巨石建築事業のもそうですが、彼らは低地とは根本的に異なる世界志向を持っていたのです。

ギョベクリ・テペ https://worldclub.jp/turkish/gobeklitepe/ より
https://serai.jp/tour/362036
https://forbesjapan.com/articles/detail/66737

ギョベクリ・テペの彫刻は恐ろしいイメージに満ちています。石柱に刻まれているのは、獲物をあさる野生動物や毒を持った動物(ほとんどオス)で、歯ぎしりをしえ、爪を伸ばし、陰茎と陰嚢をあらわにしたライオンが彫られています。悪意に満ちたイノシシも性器を見せびらかしています。猛禽類は人間の首を取る姿もありますし、勃起したペニスを持つ首のない男の像も彫られています。近隣のネヴァル・チョリの集落では、顎の下に火打ち石の短剣が刺さったままの若い女性を含む、頭蓋骨が切り離された埋葬品も発見されました。(いまのところ、この時代の戦争の証拠や、対人暴力の証拠はかなり限定的なものではあります。)また別の遺跡では長大な「髑髏の家」も発見されていて、動物の遺体とともに、多数の遺体とそこからから切り離された頭骨が多数飾られています。捕食としての狩猟が、「人間に対する支配」を実行する方法に変化していることが感じられるのです。ヨーロッパ君主の「奴の首を取れ!」と似たような感じです。この頭骨趣味では、多くの頭骨をポールから吊るせるように穴を開けたり、切り込みを入れるなどの「文化的改造」が施されています。

分裂生成

以上、WDは三日月地帯の低地と高地で「分裂生成」(第5章ノート18)が起こったのだろうと見ています。隣り合った文化圏が互いに交渉を持ちながら、別々の方向に社会を進展させていったというのです。

西南アジアにおいて新石器時代の農耕は、作物栽培と家畜飼育が広がっていく一連の流れの中で、地域的な特産品として始まり、交易されたというのがWDの見立てです。弾けない小麦やおとなしい羊といった特産品が村の間で交換され、中東全域に混合農業が広がり、その農耕は今に残る生活様式や儀式を多く生み出しました。

高地では石造りの壮大なモニュメントの建設と、女性への関心をほとんど排除した男らしさと捕食の象徴主義が強調されたのに対して、低地のユーフラテス川流域やヨルダン川流域の低地性集落の芸術や儀礼では、粘土や繊維といった柔らかい素材を象徴的な形に模型化したり結合させたりしました。女性たちは、耕作、牧畜、村落生活といった生産的な日常生活を営む生活者として描かれることになったのです。

高地人の頭蓋骨趣味(頭蓋骨を戦勝記念品として並び立てること)に対応して、低地人も独自の「頭骨彫像」という文化を発達させています。腐敗した遺体から切り離された頭骨は洗浄されて、粘土と漆喰でコーティングされ眼窩には貝殻がはめ込まれ、赤と白の顔料が塗られ、何世代にもわたって大切に保管・修理されたのです。死者とのつながりを保つための方法だったようで、高地文化の否定的意味合いもあったのだろうとWDはみています。

エリコの頭骨彫像 https://www.britishmuseum.org/blog/facing-past-jericho-skull

メソポタミア都市国家の誕生

以上が第6章で描かれる肥沃な三日月地帯の高地と低地についてです。さらに第8章では低地に民主的な都市(王を持たない都市)が生まれたことが描かれます(ノート24メソポタミア民主制)。その一方で高地では英雄社会、すなわち王たちが覇を争って互いに競い合う社会が続いていたとして、その王たちが低地の都市に侵入して支配し、メソポタミアの都市国家が生まれたというのがWDの見立てです。


以上、エジプトにおける世界で初めての「国家形成」を説明した上でWDは一般化を試みます。つまり、表向きはケアと献身に奉仕している社会的機械に例外的暴力が結合したものが国家とみるのです。実に逆説的な話です。ケアリング労働とは、そもそも機械的労働と対立しています。ケアの対象の特質、ニーズ、特殊性を認識して理解した上で、必要なものを提供するのがケアリング労働です。その一方で私たちが「国家」と呼んでいる組織になにか共通の特徴があるとすれば、ケアリングへの対象を抽象的なものに置き換えようとする傾向なのだと、WDは指摘します。つまり「国民(ネーション)」という抽象をケアしようと欲する何かです。古代エジプトでも、人々の献身は支配者や死者のエリートという壮大なる抽象に振り向けられていました。そして組織は家族のイメージと共に機械としてのイメージで想像されるようになります。人間活動のほとんどが統治者の世話をするなり、神々を世話する統治者を手伝うなりして、上方に向かっていき、それが神の祝福と保護という形で下方にむかう流出を招き入れるのです。物理的には労働者の町での大宴会がその流出の例となります。pp.465-466

この「国家形成」はモデルとして、どこまで他地域に適用できるのでしょうか?死者祭祀の供物としてのパンとビールの話の時にインカ帝国の例を傍証として引いたようにインカ帝国には適用できそうです。実際、古代エジプトとインカ帝国には類似点が多々あります。死んだ支配者のミイラ化、ミイラ化した支配者の領地が維持される仕組み、生きている王の巡回、都市生活への反感(都市は祭祀センターで定住者はいなかった)などです。しかし、この両者は他の「初期国家」とは大きく異なっているのです。p.466

メソポタミア、マヤ、中国の初期国家

初期王朝時代のメソポタミアは数十の都市国家からなり、それぞれの都市国家はカリスマ的戦士王によって統治され、支配権を争っていました。しかし、メソポタミアのこうした王たちは、道徳的な秩序の外に立って好き勝手に振る舞えるような存在だったのか、つまり「主権」を主張していたのかWDは疑っています。彼らは都市を支配していたことになっていましたが、都市は自己統治の伝統を有する商業的ハブであり、神殿行政システムに支えられた都市神がいて、王が自らを神として振る舞うことはありませんでした。神の代理人もしくは神の守護者です。第6章で見てきた、三日月地帯低地の行政管理的秩序と高地の英雄社会的な政治というふたつの原理が共存していたと言えるでしょう。そして主権は神々にのみ属していました。p.467
古典期マヤの統治者アハウは一級の狩猟者であり一級の神のなりすましであり戦士であることを意味していました。いつも小競り合いをしている小さな神々のようなものです。そして行政機構はありませんでした。行政的なヒエラルキーはすべて宇宙に投影されており、天体の動きで世の全ては決定されていました。pp.467-468
こうした初期国家に共通点はあります。システムの頂点に華々しい暴力が備わっていること、家父長的世帯組織に依拠して模倣しているということ、分割された社会階級の上に統治の装置が置かれていることなどです。しかし、ここまで見てきたように、これらの要素は中央政府がなくても存在しましたし、あったとしてもその形態は多様でした。メソポタミアでは社会階級は土地保有権と商人の富に基礎をおき、マヤでは権力の基盤は土地や商業にはなくて、人の流れや忠誠心を統率する力にありました。p.468
中国の場合、殷の首都の安陽は宇宙論的蝶番であり、生者と死者の世界の狭間に位置する舞台でした。生者のためには行政機関であり、それと同時に王家の墓地と遺体を安置する神殿でもありました。そして工業区域では祖先との交流儀式に用いられる青銅器や翡翠が生産されています。この点でエジプトやインカに似ていますが、その他の点がまるで違います。殷の支配者は広域におよぶ主権を主張しませんでした。占いが重要な儀式であった点も他の初期国家とは異なります。いかなる王の決定も占いによって神々や祖霊の承認を受ける必要がありました。亀甲占いの結果は官僚が読み取って記録され、保管されました。そして、その他の用途で文字が使われていた形跡は発見されていません。そして、殷の統治者たちも生贄に使う人間を獲得するために戦争を行っていました。統一王朝の体裁は保ちながらも、競合関係にある宮廷とは争いを続けて、英雄社会的な闘技的ゲームを繰り広げていました。pp.468-470
こうしてみると、エジプトやインカのように地域での社会システムが単一の政府のもとに統合されたのは、珍しいケースに属します。殷のように統一は名目だけのことで、実際には諸宮廷が争い続けるほうが一般的だったようです。メソポタミアでも覇権が世代を超えて続くことはありませんでしたし、マヤでも勢力圏争いは決着がつかないまま続いていました。pp.470-471

『万物の黎明』について(目次のページ

<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22
ダンバー数を超えると都市は出来るのか?『万物の黎明』ノート23
メソポタミア民主制『万物の黎明』ノート24
世界最初の市民革命?『万物の黎明』ノート25
世界最古の公共住宅事業?『万物の黎明』ノート26
征服者コルテスと交渉する人々『万物の黎明』ノート27
国家の3要素『万物の黎明』ノート28
「国家」未満?(第1次レジューム)『万物の黎明』ノート29
エジプトにおける「国家」の誕生『万物の黎明』ノート30
肥沃な三日月地帯の高地と低地『万物の黎明』ノート31
(このページです)

<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)

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