ダンバー数を超すと都市が出来るのか?『万物の黎明』ノート23
最近よく見る説ですが、「(農耕の開始で人口が増加して)都市人口がダンバー数を超すと、官僚制が始まり、階層化が起きる」という話があります。ダンバー数とは、「知り合いであり、かつ、社会的接触を保持している関係の人の数のこと」で、個人差はありますがだいたい150人くらいだろうとされています。この人数以下の村の規模であれば、村内の人々は密接な関係を保つことができますが、これを超える都市になるとそうした関係を維持することができず、なんらかの組織化を行なって全体の維持を図ろうとするだろう、と話は続き、それが官僚制だったり、階級分化だったりするのだという結論を導くのです。
著者たち(ふたりのDavidということで、以下WDと略記)はこの見方に与しません。階層化の証拠が残っていない都市ならいくらでも見つかっているじゃないかと言うのでしょう。トルコ中央部で見つかっているチャタルホユックはBC7400年頃から1500年ほど続いた町であり、13ヘクタールの広さに約5000人が住んでいたとされます。同じような間取りの家が密集しているだけで、中心施設、共同施設、街路が一切ありません。
ウクライナで1970年台にいくつも発見された「メガサイト」も階層性が認められない「町のようなもの」です。メソポタミアの都市よりも古いBC4000年期の前半のものとされ、その規模も巨大です。しかし、都市的な特徴に欠いているために「都市」と呼ぶことが躊躇われるのか「メガサイト(巨大遺構)」「過剰成長村落」と呼ばれています。中央集権的な政府や行政、支配階級の存在を示す証拠が一切出土していないのです。
最大のメガサイトであるタリャンキは300ヘクタールでメソポタミアのウルク諸都市の最初期段階を超えていますが、中央管理施設、共同貯蔵施設、要塞、モニュメント、神殿、広場、公共地区、大沐浴場など一切無く、あるのは1000を超える家屋です。それが円形状に並んでいて、中央には何もないスペースが広がっています。集落内では小規模園芸、家畜の飼育、果樹園栽培が行われ、そこに狩猟採集活動が組み合わされて多種多様な食物を得ていました。そして遠方から塩を輸入し、フリントを加工して道具を作り、土器を焼き、バルカン半島から銅を輸入していました。ですから、かなり複雑な社会ではあった筈なのですが、存続していた800年間、戦争や階層分化の証拠が見つかっていません。
WDはインダス文明のモヘンジョダロの例も挙げています。BC2600頃、町の大部分は煉瓦造りの家が並ぶ市街地区であり、大通りがあり、碁盤の目のように街路が配置され、トイレと浴場と排水設備が整っていました。都市のセンターとして聳える城塞区域には大浴場がありました。同時期の広い地域に似たような都市が分散し、イラン、アラビア、メソポタミアなどと交易をしていたと考えられています。しかし、支配階級や官僚の痕跡がまるでありません。
都市のセンターと目される城塞地区には富の集中がみられません。それどころか、金属類や貴石、貝の加工品は低位居住区域でも出てきます。また腕輪や冠を身につけた土偶も居住区では見つかりますが、城塞地区では見つかりません。文字の痕跡や工芸活動も居住区だけです。城塞地区には長さ12メートル深さ2.5メートルの巨大なプールがあり大沐浴場とみなされていますが、個人に捧げられた記念碑的なものは見当たりません。
モヘンジョダロに関するWDの説明は分かりにくいのですが、神官階級や戦士貴族階級がいたという証拠はなく、我々が考えるような国家はなかったとしています。城塞地区に脱俗的身分の人々はいたかもしれないが社会全体が階層化されていなかったかもしれないとしています。
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かつては都市と国家と官僚と社会階層がセットになって一気に現れたとされてきました(たとえばゴードン・チャイルド)。しかし、初期の都市は様々な形態をとっておりその図式は成り立っていません。上で示したチャタルホユックやウクライナのメガサイトのように階級分化や富の独占、行政的なヒエラルキーが認められない都市があります。そもそも初期都市には権威主義的支配の痕跡がとても少ないのです。そして、「農村という後背地に依存する都市」という図式に当てはまらない初期都市もありました。小規模園芸・動物の飼育、野生の動植物の狩猟採集も重要であり、場所によって様々に生業が組み合わされていました。
これらの初期都市では、市民の結束を自覚的に表明していました。古代メソポタミアでは市民集団が「人民」あるいは「息子や娘」と自らを表現しています。その「人民」を結びつけているのは、都市の祖先、神々、英雄、公共インフラ、儀礼歴でした。
都市に住む人々は、出身地が遠方であることもしばしばでした。メキシコ盆地のティオティワカンはAD.3-4Cにはユカタン半島やメキシコ湾岸から住民を集め、移民たちは出身地ごとに固まって居住しています。
人類社会は、もともと二つのスケールで成立しているのではないかとWDはみています。ひとつは小規模で親密な社会、そしてもうひとつは広大なテリトリーに広がる社会との二段重ねで昔から人類は社会を認知していたのではないかというのです。現在の狩猟採集民は、かなりの長距離を旅して同じトーテムに属する集団に入ることができます。顔や名前を知らない人々の集団に入るということは、彼らの「社会」が長距離に渡って広がっていることを意味します。太古の狩猟採集民もおそらくはそうだったのでしょう。私たちは「おそらく一度も対面することもないだろう人々とつながっているように感じる能力」をもっているのです。
そして、第4章で議論したように後期旧石器時代から中石器時代、新石器時代にかけて、「文化圏」が細分化されていって、人類の社会はどんどん狭くなっていきました(ノート17)。都市とは、その狭くなった「社会」なのではないかとWDは言います。つまり、都市とは私たちが「心の中でつながっていると感じる」人々の集まりなのです。そして、都市に住む人たちは、都市から外に出ることなく一生を終えることも珍しくなくなります。都市=社会なのです。
従来説では農耕の開始→定住と集落の人口増大→ダンバー数を超える→官僚制あるいは支配による統制→都市(社会)の形成という順序でした。しかしWDに言わせると初期人類は定住する前から「社会」をもっていたのであって、都市に定住してダンバー数を越してから社会を作った訳ではないのです。人類は最初から広大な大陸に散らばる人々との仲間意識をもち、「社会」を形成していたんだというのがWDの見解になります。
『万物の黎明』について(目次のページ)
<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22
ダンバー数を超えると都市は出来るのか?『万物の黎明』ノート23(このページです)
<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次)
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)