『万物の黎明』読書ノート その2
第2章「よこしまな自由」要約
この章での出発点になる、そもそもの問題提起は次のようなものです:
ジャン=ジャック・ルソーの「不平等起源」のストーリーである「初原の人間は無垢であったのに、文明の発展とともに社会は複雑化し、それとともに人間はそこに隷属するようになった」という物語はどういう社会的コンテクストの中で生まれたのだろう?どのような影響を残したのだろう?
実は、人間社会の不平等の起源を問うのはルソーのオリジナルではありません。不平等の起源を問う懸賞論文があって、ルソーはそれに応募したのです。それは、当時の知識階級の課題のひとつでした。ですから、上記の問題は次のように分解するべきなのです:
問題1:なぜ1754年にディジョンのアカデミーは「人間たちの間にある不平等の起源はなんであるのか。それは自然法によって是認できるか」という懸賞論文を公募したのか?
派生問題1-1:当時のフランス知識人たちが自らの社会を「不平等」と感じていたのはなぜか?
派生問題1-2:その不平等には起源がある、つまりかつては平等だった時代があるという前提はなぜ生まれたのか?
問題2:その応募論文でルソーが組み立てた論法はどのようなものだったのか?
問題3:ルソーが組み立てた物語は、どういう影響を残したのか?
以下に、筆者たちが提示するストーリーを辿っていきます。
アメリカ先住民との接触は啓蒙思想に大きな影響を与えた:
18世記に入った頃、フランス領アメリカ(ニューフランス)に住む先住民族の情報が、フランスの中に広がりました。特に北東部、ウッドランドの先住民たちであるウェンダット(ヒューロン)族やミクマク族の情報が冒険旅行記や宣教師たちによる「イエズス会報告書」などで伝えらます。ヨーロッパ人に影響を与えたのは、そこに書かれていた、先住民族たちによるヨーロッパ人批判です。
ミクマク族による評価(ビアード神父による報告):
「(フランス人は)いつもいがみ合って喧嘩ばかりしている。我々は平和に暮らしている。嫉妬深く、終始お互いを誹謗中傷している。盗人や詐欺師であり、貪欲で寛大でも親切でもない」
「我々(ミクマク)は、安楽、快適、時間をもつゆえにフランス人より豊かだ」と彼らは主張した。
修道士サガードによるウェンダット族のフランス人評:
キリスト教徒は財物を獲得せんと身悶え、悩んでいる。財物欲しさのタガの外れたあくなき貪欲。
先住民たちはフランス人が寛大でないことに憤慨し、フランスには乞食がいることについて悪辣極まりない慈悲の欠如と非難しました。さらには、フランス人たちは「議論は弱々しいし、賢く見えない」とこき下ろし、「フランス人には自由がなく、自分たちには自由がある」と誇っていたというのです。
イエズス会ル=ジュヌによるナスピカ族評:
かれらは生まれながらの権利として、野生の驢馬の仔のように自由を享受すべきだと考えており、好きなとき以外は誰にも敬意を払わない。、、、自分たちのリーダーを笑いのめしたりからかったりしているのである。彼らの首長の権威の全てはその舌先にある。首長は雄弁である限りにおいて強力であり、、、未開人どもを喜ばすことがないかぎり、だれも従いはしないのである。
ナスピカ族側からみたフランス人:
つねに目上の人間を恐怖しているという点で奴隷と変わるところがない。
ラルマン神父によるウェンダット族評:
かれらほど自由で、じぶんの意思をどんな権力にも従わせることのできない民はこの世に存在しないと思われる。父親は自分の子どもを、リーダーは臣民を、国の法律はかれらのだれもを支配することはない。罪を犯した者に与えられる罰はなく、犯罪者であっても大手をふっていられるのだ、、
イエズス会の神父は先住民たちが享受していた自由を「よこしまな自由」と呼びました。第2章の題は、ここに因みます。しかし、ウェンダット族の論理能力と弁舌は、カトリック世界の知識人であるイエズス会神父たちも感嘆していたのです。苛立ちも交えながら、ウェンダット(ヒューロン)の人々の方がヨーロッパ人より賢いとすら見ています。
ル=ジュネ神父の証言:
極めて巧みに、かつ適切な言葉使いで、対話や討論ができない者などほとんどいない。村々ではほぼ毎日のように開かれている会合は、ほとんどすべてのことがらをとりあげ、彼らの会話能力を向上させている。
ラルマンの証言:
ヒューロン人たちの当意即妙で生き生きとした感嘆すべき弁舌や、公共の場での明晰な洞察力、あるいはみずから慣れ親しんできたものごとに示す慎重な管理方法など、教育なしに自然が授けたとはわたしには思えない。
イエズス会の神父たちは、彼らの恣意的な権力の拒否と、オープンで包括的な政治的討議、理性的議論を好むことの間に本質的な関係があることを理解して認めていました。誰かが独占的に物事を決めることを回避するためには、部族のあらゆる問題についてオープンに討議しなければならず、討議を進めるにあたっては、それぞれが理性的に論理的に話す必要があります。
ヨーロッパの知識人は、こうしたアメリカ先住民によるヨーロッパ人批評に反応したのだとWDは指摘します。ロックもヴォルテールもサガード神父の報告を引用して著述しました。(思想史ではこの事実は無視されていますが。)そして、イエズス会神父たちに向かって先住民たちが語ったときのスタイル、つまり合理的で、懐疑的で、経験的で会話のような調子の討議の形態は、まもなくヨーロッパの啓蒙主義のスタイルとみなされるようになります。ここはの本で最も物議を醸した箇所のようです。
この時期に植民者と先住民が議論したのは自由と相互扶助についてでした。アメリカの先住民社会で食料を求めて断られるのはとんでもないことでしたが、フランス人社会ではそうではなかった。だから先住民はフランス人に対して憤慨しました。ヨーロッパ人は先住民たちに指摘されて、自分達の社会の問題について考えざるを得なくなります。
ここでは二つの社会の個人主義の観念が衝突していたことになります:
ヨーロッパ人は常に優位性を求めて争う個人主義
ウッドランドでは互いに自立した生活を保証する個人主義
先住民知識人カンディアロンクによってヨーロッパ人批評は深化し、「所有」や「平等」が問題化した:
ここで、ラオンタンとカンディアロンクという二人の人物が紹介されます:
貧乏貴族ラオンタンの生涯:17歳でフランス軍に入隊し、カナダに赴任。カナダ総督の副官にまで昇進し、現地語にも通じていたので先住民の政治有力者とも友好を結んだ。やがて総督と対立して逮捕され、10年間の亡命生活を送ってヨーロッパを放浪する。アムステルダムで失意の中で書いたアメリカでの冒険旅行記・回想録が評判を呼んで、事態は好転し、最後はハノーファー宮廷に腰を落ち着けライプニッツと親交を結ぶ。
カンディアロンク:敵味方問わず褒め称えられたウェンダットの政治指導者。勇敢な戦士で、優れた弁舌家で、壮大なビジョンを抱いた戦略家でキリスト教の反対者だった。これは、多くの証言が一致して認めている。ラオンタンの『旅する良識ある未開人との珍奇なる対話』(1703)はこのカンディアロンクとの4つの会話で構成されており、「先住民の賢者」(カンディアロンクのこと)がモントリオール、ニューヨーク、パリの住民について、あるいはヨーロッパ人の宗教・政治・健康・性生活に至る風俗や考え方に辛辣極まりない意見が述べるという体裁をとった。この『対話』はベストセラーとなり、ヨーロッパの各国語に訳され1世紀以上版を重ね、模倣作が続いた。
『対話』は「創作物」だという批評も多かったようです。カンディアロンクがヨーロッパの事情に詳しすぎること、「霊的真理は啓示ではなく理性に求めるべきである」という理神論のような主張もするのが先住民っぽくなかったし、そもそも対話文のスタイルが古代ギリシャのルキアノスの模倣とみられました。当時は、キリスト教会の検閲を逃れるために、反キリスト教的言説を架空の外国人の口を借りて喋らせることは、いかにもありがちな話だったのです。最近になって、先住民の血を引く研究者たちが資料を洗い直してそうした批評を覆しているして、WDは参照文献として、そうした研究者たちの論文をいくつも挙げています。
カンディアロンクの弁論の技巧と巧みなウィットについては、宣教師たちからも「天性の雄弁家」であり精神力にも卓越していたと称賛されていました。私的な場での会話も素晴らしく、ヨーロッパ人も彼を挑発して「活気とウィットに溢れた反論」を聞くのを楽しみに彼をしばしば会話に招いたといいます。ラオンタンの上司だったカナダ総督もその一人で、彼をいつも食卓に招いていました。いわば1690年代のカナダでは啓蒙主義の原型ともいえるサロンが開かれ、そこでカンディアロンクは合理的懐疑論者(反キリスト教論者)の役を果たしていたことになります。
また、カンディアロンクがウェンダット連邦の代表としてパリに招かれていた可能性は十分にあるので、ヨーロッパの風俗に詳しいこともそれで説明がつきます。なによりもカンディアロンクの反キリスト教論や反ヨーロッパ論は、概ねイエズス会宣教師が報告していた先住民の声と同じなのです。つまり、ヨーロッパ人の同胞間の諍い、助け合いの欠除、権力への盲目的服従などを批判するのは、様々な原住民の声として従来から繰り返されてきたものでした。
ですが、カンディアロンクはその批判の中に「私有財産の組織化」という新しい要素を付け加わえています。「ひとりの人間が他の人間よりも多くを所持していることや、金持ちが貧乏人より尊敬されることについては説明がつかない」と先住民たちは考えており、「フランス人が彼らに与えている未開人という名称は、フランス人自身の方がお似合いであり、フランス人のふるまいには知恵があるとはとてもみいえない」と言っているとラオンタンは報告しています。
フランス社会を間近で観察した先住民たちは、ふたつの社会の差異の核心を理解するようになりました。フランスでは財産を所有することが、他の人間に対する権力に直接転換させることができますが、アメリカ先住民社会ではそんな方法はありませんでした。
『対話』はカンディアロンクによる、明晰で論理的なキリスト教批判、ヨーロッパの司法制度批判と話を進めていくのですが、ウェンダットが裁判制度を必要としないのは、お金を受け取らず使いもしない社会だからという論が展開されています。
そして、カンディイアロンクはヨーロッパの文明を取り入れることを拒否し、むしろヨーロッパの社会システムを解体した方がヨーロッパ人にとっては幸せだと論じ、そこで平等な社会が訪れるのだと説くのです。
ここで出てくる「平等」という概念は、アメリカとヨーロッパの長期にわたる対立と対話の結果出てきたものだということは注意しておきたいところです。そしてこれはヨーロッパの文明言説の思い上がりの鼻を明かすよう計算された挑発行為でもあることにも注意してください。カンディアロンクの「ウイットの効いた」話術というは、こうした挑発が随所に散りばめられたものです。
カンディアロンクの主張は誇張が過ぎるので、それを根拠にして、彼の存在自体が「高貴な未開人」幻想として否定されてきました。しかし、彼が図抜けた討議の技の持ち主だったという多くの証言からすれば、彼がその種のレトリックとしての誇張を使ったことは想像に難くありません。そして、グレゴリー・ベイトソンいうところの「分裂生成」が働いて(つまり「人は他者と自己を対立させながら自己を定義する傾向」が働き)、カンディアロンクはヨーロッパと対比させながら自分たちを「平等な社会」と称するようになったと考えられるのです。実際には、ウェンダットは完全な平等社会ではありませんでした。カンディアロンクが繰り返しお金について言及するのはその典型です。マーシャル・サーリンズが指摘するようにグローバル経済に組み込まれた先住民社会は必ずと言っていいほど、白人の「金銭への追及」に対する反発によって、自らの伝統を構成するのです。
『対話』は大きな影響を残したが、ヨーロッパの思想家たちは社会進化論でそれを無力化した:
カンディアロンクとラオンタンとの『対話』はベストセラーとなり、ヨーロッパの各国語に訳されて1世紀以上版を重ね、模倣作が続きました。1721年にパリで上演された喜劇『未開なるアルルカン』は20年間ほぼ毎年上演されたましたが、主人公が「社会の悪事の原因として、私有財産や金銭、とりわけ貧乏人を金持ちの奴隷にしているおそるべき不平等をあげつらう」カンディアロンク流のモノローグが呼び物でした。そしてフランスの主な啓蒙主義者たちは想像上のアウトサイダーの視点から自国批判を試みるようになるのです:
モンテスキューはペルシャ人の視点で『ペルシャ人の手紙』を書き
マルキ・ダルジャンは中国人の視点で『中国人の手紙』を書き
ディドロはタチヒ人の視点で『ブーガンヴィル航海記補遺』を書き
シャトーブリアンはナチュズ人の視点で『ナチェズ』を書き
ヴォルテールはウェンダットとの混血の視点で『自然児』を書きました
すべて、カンディアロンクから借用したテーマを発展させ、それ以外の地域からの情報で捕捉しています。さらに同じ主題で1747年に著名なサロン主人マダム・ド・グラフィニは誘拐された架空のインカの王女の視点でフランス社会を描いた『ペルー人女性の手紙』を書きました。
これに反応したのが、重農主義経済学者のチュルゴーです。まだ学生だった頃、マダム・ド・グラフィニから送られてきた原稿を読んで批評を加え、それを後に社会進化論に練り上げていきました。
チュルゴーは「われわれはみな自由と平等という観念を愛している」と断った上で
ウェンダットの人々が自由で平等なのは自給自足でだれもが平等に貧しいからだ。
しかし社会が発展すれば技術も進歩し、複雑な分業体制となり文明化されていく。
嘆かわしいことではあるが、一部の人間が貧困と窮乏に苦しむのは社会全体の繁栄のために必要なのである
としました。チュルゴーの社会進化論では、狩猟者→牧畜→農耕→都市商業文明という順番で社会は必然的に発展していくとされました。これが友人のアダム・スミスに取り込まれ、そこから広がって人類史の一般理論に組み込まれることになります。これによって平等主義的社会は進化の底辺に格下げされたのです。つまり、ヨーロッパ文明にの対等な対話の相手とはみなされなくなったということです。啓蒙思想家たちは平等社会のイメージを脱中心化して、ヨーロッパの優越感を取り戻したといえるでしょう。
ルソーは平等社会を理想化したが、それが自分たちに可能だとは想像できなかった:
当時のフランスでルソーが馴染んでいたサロンやサークルでは、
自由と平等は普遍的な価値なのか?
それは私有財産制度とは相容れないのか?
芸術や科学の進歩は道徳的進歩につながるのか?
先住民の批判のようにフランスの富と権力は不自然で病的なのか?
といったことが論じられていました。
ルソーは元々作曲家だったのですが、『学問芸術論』で社会思想家として注目を集めました。これは1750年のディジョンアカデミーの懸賞論文に応募したもので、「学問と芸術の復興は習俗の純化に寄与したか」という課題に対して「まったく寄与していない」と熱弁を振るったのです。芸術や学問の発展を目的とするアカデミーが、それをまったく非生産的であると断じた論文に一等賞を与えたのです。ある種のセンセーショナルな出来事であり、ルソーはこれで有名になります。3年後に、ディジョンのアカデミーは再び懸賞論文を公募し、そこに投稿されたのが『不平等起源論』でした。
この『不平等起源論』でルソーは「最初の人間は本質的に善良であったが、互いの暴力を恐れて組織的に互いを避けていた孤立した存在」だとしました。そうした孤立した存在が言語で意思疎通を行うようになり、社会を構成した段階で自由の束縛が始まったとルソーは書いています。さらに、所有関係の出現によって人類に「恩寵からの転落」が起こったとしました。つまり人間社会の(思考実験の)モデルとして3段階を想定したのです:
1.個人が孤立して暮らしていた自然状態
2.言語の発明に続く石器時代の「未開」の段階(北アメリカ先住民はここに含まれる)
3.農耕と冶金の発明に続く文明の段階
そして2と3の段階で道徳的衰弱が起こったとしました。
ルソーはラオンタンも『イエズス会書簡集』も直接引用していません。しかし、明らかにそれらの影響を受けています。ルソーは土地所有が堕落のきっかけであったと描くと同時に、アメリカ先住民が投げかけた困惑と疑問を繰り返していからです。つまり、なぜ物財の不平等によって(つまり金の力によって)、他人の行動を指示したり、使用人や労働者や兵士として雇ったりして、路上で死にかけている同胞を放置しても平気でいられるようになるのか。なぜヨーロッパ人は競争心が強いのか、なぜ他人の命令に服従するのか。そう問いかけるのです。
センセーショナルな文体にも関わらず、この論文が驚異的な成功を収めた理由は18世紀ヨーロッパの切実な社会的・道徳的関心事について3つの矛盾した立場を巧みに和解させているからです。つまり、
先住民による批評の諸要素
聖書の「失楽園」説話の雰囲気
チュルゴーらの社会進化論(我々は社会進化故に不幸になったが、それは仕方がないことだった)
の3つをルソーの論文は巧みに組み合わせていました。
ルソーは文明化したヨーロッパ人が残虐な生き物であり、所有が問題の根源であるというカンディアロンクの見解を踏襲しています。しかし、所有以外のものに基礎をおいた(ウェンダットのような)社会というものをルソーは想像はできなかったのでしょう。それが可能であるという感覚が、ルソーにはありませんでした。先住民によるヨーロッパ批判を啓蒙主義者が受け取る際に、取り零されたのがその感覚だったとWDは指摘します。
ウッドランドの先住民にとっては相互扶助的コミュニズムと自由とはなんの問題もなく共存できまるものでした。というか、相互扶助的コミュニズムが自由の基礎だったのです。衣食住が欠けている人間は、生存だけで精一杯となり自由どころではありません。それに対してルソーの属したヨーロッパでは自由の概念が所有の概念に結びついています。(これはローマ法に遡る伝統だとWDは指摘しています。)ヨーロッパ人にとっての真の自由とは、他の人間には一切依存しないことを意味します。ルソーが描く人類の先祖が所有を選んだのは、自由を手に入れようとしたからです。しかし、所有することで「自らを縛る鎖に飛びついた」とルソーは描きます。このとき失われた自由が具体的になんであったのか、ルソーは述べていないのですけれど。
ルソーはその後、左翼思想の産みの親とみなされる。そして功罪を残した:
ルソーが称揚した自由と平等はフランス革命の旗印になります。それと同時に、ルソーは保守派からの攻撃対象になりました。保守派からみれば、革命という名のテロと全体主義がもたらしたのがルソーの思想だと考えられたからです。じっさい、アメリカ独立革命やフランス革命期の政治的ラディカルはルソーの(私有財産性批判と進化主義とを融合させて、国家の起源を説くという)論法を踏襲しています。
しかし、「進歩のように見えるものが道徳的衰弱へとみちびいていくものである」というルソーの見解は、本来、保守の立場です。それなのに、ルソーが政治的左翼の生みの親とみなされて右翼の嫌われ者になっているというのは皮肉というしかありません。ここからWDは右翼の陰謀論の話や「高貴な未開人」という表現が右翼の側から出てきた話などを書き進めていきますが、脱線ぽいネタですし、本筋から離れているような気がします。ですので、そのあたりは割愛します。
本書で重要なのはここからです。ルソーは未開人を思考実験で還元し「何も考えない」人々として描きました。彼らが何を感じていたのかを不問に付したのです。彼らには、物事の別のありようを想像したり、未来のことを考えることができない。だから、彼らは幸福なのです。そして最初に土地が囲い込まれたときも、何もしなかったというのです。
1960年代にピエール=クラストルがその逆を主張しています。我々から見て素朴で無垢な人々が、統治者・政府・官僚・支配階級から無縁なのは、想像力が欠けているのではなくて、我々よりも想像力が豊だったから、自覚的にそれらを避けて社会を組み立てたのではないかと彼は言いました。
ルソーは散々に非難されましたが、ほとんど無実です。「高貴な未開人」というイメージを広めたのはルソーではありません。しかし「愚かな未開人の神話」を彼は広めてしまったのです。彼がなした有害な行為があるとしたら、それでしょう。19世紀の帝国主義者たちは、このステレオタイプを使って、多くの人々の自由を奪う口実を練り上げたのです。本書で試みるのは、この「愚かな未開人の神話」の解体だとWDは宣言します。
筆者たちが提示する本書の立場:
本書のプロジェクトが始まったとき、著者たちは社会的不平等の起源を考えていたそうです。しかし「社会的不平等の起源はなにか?」という問題設定自体に問題があることが分かってきたのです。それは「平等主義的」とされる社会に暮らすアメリカ先住民のような人々が実際に感じていたこととはなんの関係もないからです。
今日、だれもが「平等」に価値があることは合意しています。しかし「平等」が何を指しているのかの合意があるようには見えません。それは機会の平等なのでしょうか?条件の平等なのでしょうか?法の下での平等なのでしょうか?そもそも17世紀に参照された「平等主義的社会」が何を意味しているのかが明らかではありません。「平等主義」は果てしのない議論の種なのです。実際のところ「平等主義」は分析的実質のある概念ではないとWDは論じます。以下のように平等の定義がそもそも混迷しているのです。
機会の平等なのか、条件の平等なのか、法の下での形式的な平等なのか?
人間が等しくあるべきという信念なのか、実際に人間が等しい社会なのか?
等しくあるとはどういうことなのか?
平等に土地を手に入れること?
平等な尊厳?
意見の表明の自由が平等?
現金収入が等しい?
政治権力が等しい?
カロリー摂取量が等しい?
家屋の大きさが等しい?
個人保有物の数と質が等しい?
平等とは個人というものが消え去った状態なのか、個々人がそれぞれの個性を尊重される状態なのか?
男性と女性の平等とは何か?
17世紀において、アメリカ大陸の諸部族は「平等主義的」と呼ばれましたが、それは実質的に「バンド」であるとか「部族」社会と同じ意味を持ちました。つまるところ「平等」とは初期状態(自然状態)を指す用語なのであり、文明の虚飾をすべて除去したときに残ると考えられる人類の原形質的な集団性を意味するとしかありません。つまり:
平等主義的人間は、王、裁判官、監督者、世襲祭司をもたない人々であり、
都市や文字もなく、場合によっては農耕も不在であり、
不平等の明確な徴がすべて不在という状態
ということです。「文明」は全体的な繁栄の拡大を保証しますが、それと同時に自由と平等のある程度の犠牲を引き受けるシステムである、という理解が背後にあります。そして本書は、それとは別の種類の歴史を書くことだとWDは宣言します。
先史時代の人々は、じぶんたちの社会でなにが重要なのかきわめて具体的な考えをもっていたということ、それはきわめて多様であったということ、そのような社会を一様に「平等主義的」と表現しても、なにも理解は進まないことを最近の考古学資料は示しています。
本書の主題は不平等の起源ではないとWDは言います。しかしこの世界がひどく間違っていることは確かですし、なぜそうなったのかを理解するためには、王、祭祀、監督者、裁判官の出現を可能にした最初の要因に遡る必要があるのだとするのです。
(その3に続く)
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