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エジプトにおける「国家」の誕生 『万物の黎明』ノート30

古代エジプトにおける死者祭祀の起源

王の葬祭の際に人身御供が行われるというのは、古代エジプトから中国に至るまで世界の様々な地域でみられますし、多くの考古学者はそれを「国家形成」が進行している証拠として見ます。そして人身御供/儀礼的殺戮はほとんど例外なく、新帝国や新王国建設の最初の数世代に行われ、往々にしてそれはライバルのエリート一族が模倣することになり、それからその慣行が徐々に消えていくと著者たち(二人のデビットなので以下WDと省略)は指摘します。では、なぜそのような殺戮がなされるのでしょうか。pp.454-455

王は恣意的暴力を許された「主権者」ですが、その死にあたっては、その暴力が最後の炸裂をして、多くの人間が殺戮されるかのようだと著者たち(二人のデビットなので以下WDと略します)は記します。王室の近親者、高位の軍人、政府高官までが殺されることもあります。もちろん戦争捕虜や奴隷、平民、兵士も殺されたでしょう。いずれにしても初期王国はなぜ葬祭にあたって大量殺戮を行い、権力が安定するとそれをしなくなるのかとWDは問いかけるのです。pp.455-456

中国の殷でも数名の重臣が殉死して丁重に葬られるとともに、敵対氏族からの戦争捕虜も殺されて辱めを受ける形で葬られていました。p.456

5000年前のエジプトの最初期(第一王朝)の王は殷の場合とは異なり、大勢の側近と共に葬られていました。王の日常のケアに身を捧げた人々(妻、衛兵、役人、料理人、宮内官、芸人、、、)が、死後の世界でも王が王であることを支え続けるために死んでいったのです。それは愛と献身の究極的な表現ではあるのですが、同時に王の所有物として処分されたということでもあり、大きなパラドックスをなしています。王の家族のような存在であり、王の所有物のような存在でもあるということです。pp.456-457

さらにWDは、使用人と家族が入り乱れた殉死者の雑多なリストから、これらの人々をまとめて大規模に殺害する暴力によって「かれらの差異を消し去り、単一の統合体(ユニット)に融解させ、使用人を親族へ、親族を使用人へと転化させることになったに違いない」と論を進めます。つまりエジプトの王朝は、すべての臣下は、王のケアをするために働いており、王家の一員として想像されるシステムとして作られたのであり、それを動かすために、「死後もケアをする究極の家族」を作り出すのが殉死という名の大量殺掠なのではないかとWDは推測します。p.458

古代エジプトにしても古代中国にしても、権力者の華々しい大量殺戮は、マックス・ウェーバーが言うところの「家産制」の基礎を築くことを意味していたのでは無いかともWDは推測します。つまり家における家父長的権力をモデルとして、王の権力が想定され、王は臣下に対して家長のようなものと理解され、臣下は家長に付き従う家族のようなものと理解され、「父による家族の統率」が社会の一般的組織原理となるとき(戦中期の日本では国民を「陛下の赤子」と呼んでいました)、その組織原理を確立するために、殉死という暴力が必要とされるのではないかとWDはいいます。これは本書の他箇所で指摘されているのですが、法を超越していることになっている王は恣意的に暴力を振るからこそ、王は恣意的な暴力を振るうことで自らが法を超越していることを証明します。それと同様に臣下が自分をケアする家族であることを初期のエジプト王は暴力によって示したのです。これとは対照的に中国の殷では敵対氏族を大量に殺して辱めることで自らの氏族の超越性を示したと考えられます。いずれにしても、王権を生産する方法と捉えることが出来ます。p.458

こうした儀礼的殺戮はエジプト第二王朝の途中で終わり、支配者の死者祭祀が盛んになり、ピラミッドの建設が始まります。つまり臣民たちが支配者のための巨大な墓を作り出すのです。「死後の世界でのケア」が「お墓の建設」に置き換わるのです。労働者の町が設立されて国中から強制的に賦役労働者が動員される古代エジプトを我々は「国家」とみなしていますが、ナチェズやシルックのような個人的主権の原理から(ノート29)、死者祭祀という媒介を通してエジプトの「国家形成」が行われたのでは無いかとWDは推測します。それを説明するために、エジプトの先王朝時代の話が始まります。pp.458-459

エジプト先史時代から「国家形成」まで

エジプトやスーダンのナイル川流域における新石器時代は、中近東とは異なりました。BC5000年紀は穀物栽培は重視されず、ウシが重視されていました(第7章pp.301-302、ノート22)。大雑把に言って、中近東(肥沃な三日月地帯)の新石器時代は文化的焦点は「家」に置かれていましたが、アフリカでは「身体」に置かれていました。極めて早い時期から身だしなみ用品や身体の装飾品をともなった埋葬が行われています。それはエジプト王朝にも引き継がれる伝統ですが、男女大人子供問わずそうした物品は使われていましたし、身体そのものが一種のモニュメントでした。身体自体をモニュメント化するミイラ化の技術は新石器時代から試みられていました。pp.459-460

現代のナイル人であるシルックは、個人の自由を重視する移動性の高い社会を作っていますが、それと同時に気まぐれな専制君主を好みます。家畜を中心に生活を組織していた多くの人々で、似たようなことになっていますから、先史時代のナイルでも、おそらくはシルックのような王(レス)の一群によって支配されていたと想像できます。BC3500頃(第一王朝の500年前)からプチ君主の埋葬は見つかっていますが、大きなテリトリーを支配した王は現れず、小王制と小宮廷が乱立していたものと考えられます。この宮廷の中にはそれなりの規模の墓を残したものもあり、臣下の遺体とともに葬られてもいます。WDはこの状態を「主権の欠如というより、主権の過剰」と表現し、領土を行政的にも軍事的にも支配していないのに、見かけは壮大で絶対的な主権を主張していたとみています。p.461-462

こうしたナイル川流域の家畜を中心とした社会が、古代エジプトの農耕官僚社会にどのように移行したのかについて、ここからWDはアクロバティックな見解をしめします。(注釈の参照文献をみるとウェングローの論文に基づくものらしいです。) BC3500年頃、死者に対して当時の高級食品である、発酵パンと小麦のビールを供養することになり、王の墓にはそれを納める容器が備えられるようになりました。ナイル川流域やデルタ地帯で作られていたコムギが、死者の要求に応えてこの時期に洗練されて強化されたのだとWDは言うのです。p.462

もともとナイル川は定期的に氾濫するので、その流域は土地の分割が困難な地域でした。儀式の際にはパンとビールを振る舞わなければならないという社会的要請から、持続的な分割が行われるようになり、鋤とウシを確保する必要が生じ、それが確保できない家族は別の手段でパンとビールを確保しなければならず、義務や債務のネットワークに絡め取られていくことになり、階級と支配ー従属の関係が生まれたというのがWDの見解です。pp.462-463

その傍証としてインカ帝国の例をWDは引きます。ペルーでの元々の日常食は凍結乾燥したジャガイモ(チューニョ)だったのですが、トウモロコシのビール(チチャ)が神々の飲み物として導入され、帝国全体の食物として広まっていきました。スペイン人が来たころには富裕層と貧困層の双方にとって儀礼に必要不可欠なものとなっていたのです。そしてトウモロコシは日常食となっていたのです。p.463

エジプトではパン焼き釜やビールの醸造設備はBC3500頃に現れ始め、最初は共同墓地に隣接していましたが、数世紀のうちに宮殿や大墳墓に併設されるようになります。第一王朝もしくはその少し前から、死んだ王への食料供給を表向きの理由とした組織が形成されていきます。パンとビールが産業規模で製造され、王室の建築プロジェクトに従事する季節労働者たちに支給されました。彼らも王へのケア供与者であり、一種の「親族」なのであり、少なくとも労働の期間中は十分な食料を供給されたのです。pp.463-464

労働者たちはパンと肉とビールを一緒に食べ、一種の「仲間」意識を育んでいたことが、残された落書きから読み取ることができます。そしてそれは船の乗組員の組織を模したものだったようです。海洋航海におけるチームワークの技術と、ピラミッドや神殿などのモニュメント建設のための技術には類似があるともされています。産業革命のときも、帆船における規律の技術が工場に移植されたとされています。ともあれ、規律技術で臣民を社会的機械に仕立て上げてモニュメント建設を行い、そのあとにお祭り騒ぎで労苦を称えたのです。pp.464-465

pp.459-465をまとめ直すと、主権を過剰に振り回す遊牧民が、死者祭儀のための発酵パンと小麦ビールを必要とするようになり、そのパンとビールの製造が産業化されていったこと、また原料麦の生産のための農地や牛や鋤の確保のための債務が発生し、支配/隷属の階級分化がおこり、そして死者儀礼を中心とした王家の建築プロジェクトに人々が「王の家族/臣民」として再編されていく過程がBC.3500から第一王朝のBC.3000くらいまでに起こったことだということです。

以上、エジプトにおける世界で初めての「国家形成」を説明した上でWDは一般化を試みます。つまり、表向きはケアと献身に奉仕している社会的機械に例外的暴力が結合したものが国家とみるのです。実に逆説的な話です。ケアリング労働とは、そもそも機械的労働と対立しています。ケアの対象の特質、ニーズ、特殊性を認識して理解した上で、必要なものを提供するのがケアリング労働です。その一方で私たちが「国家」と呼んでいる組織になにか共通の特徴があるとすれば、ケアリングへの対象を抽象的なものに置き換えようとする傾向なのだと、WDは指摘します。つまり「国民(ネーション)」という抽象をケアしようと欲する何かです。古代エジプトでも、人々の献身は支配者や死者のエリートという壮大なる抽象に振り向けられていました。そして組織は家族のイメージと共に機械としてのイメージで想像されるようになります。人間活動のほとんどが統治者の世話をするなり、神々を世話する統治者を手伝うなりして、上方に向かっていき、それが神の祝福と保護という形で下方にむかう流出を招き入れるのです。物理的には労働者の町での大宴会がその流出の例となります。pp.465-466

『万物の黎明』について(目次のページ

<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9
森に逃げ帰ったインディアン 『万物の黎明』ノート10
北米インディアンによる批判からヨーロッパの啓蒙思想は始まった『万物の黎明』ノート11
ルソーの功罪 『万物の黎明』ノート12
人類は最初から「賢い人(ホモサピエンス)」だった 『万物の黎明』ノート13
季節変動する社会 『万物の黎明』ノート14
季節変動と王様ごっこ『万物の黎明』ノート15
人類の幼年期にサヨウナラ『万物の黎明』ノート16
後期旧石器時代の「社会」は広かった『万物の黎明』ノート17
分裂生成『万物の黎明』ノート18
私的所有権の起源 『万物の黎明』ノート19
農耕開始以前から社会はいろいろとあった 『万物の黎明』ノート20
奴隷制について 『万物の黎明』ノート21
農耕民は文化的劣等生だった『万物の黎明』ノート22
ダンバー数を超えると都市は出来るのか?『万物の黎明』ノート23
メソポタミア民主制『万物の黎明』ノート24
世界最初の市民革命?『万物の黎明』ノート25
世界最古の公共住宅事業?『万物の黎明』ノート26
征服者コルテスと交渉する人々『万物の黎明』ノート27
国家の3要素『万物の黎明』ノート28
「国家」未満?(第1次レジューム)『万物の黎明』ノート29
エジプトにおける「国家」の誕生『万物の黎明』ノート30
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<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)

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