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『万物の黎明』読書ノート その9

"WD"はDouble David(著者である文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローの二人のデビット)の略です

第9章『ありふれた風景にまぎれて』要約

第9章は前章の都市論の続きで、メキシコ盆地が扱われます。

忘れ去られた都市テオティワカン

メキシコ盆地はメシカの人々が築いたいわゆるアステカ帝国(アステカ3都市同盟)が12世紀から栄えた場所ですが、その首都テノティトランの近くには「神々の集う場所」と言う意味のテオティワカンという別の都市がありました。メシカがやって来るはるか以前にメシカの知らない人々によって建設され、打ち捨てられていた都市ですが、壮麗な二つのピラミッド(太陽のピラミッドと月のピラミッド)が聳え、大きな街路(死者の大通り)を備えていました。

考古学の調査から、テオティワカンの創設はBC100頃で衰退したのはAD600頃であり4世紀頃にその最盛期を迎え、ローマ帝国に匹敵するような壮大な都市を作っていました。控えめに見積もって人口は10万人であり、モヘンジョダロやウルクの5倍です。メキシコ盆地全体で100万人が分布していたと考えられ、ひとつの社会を成していたようです。そしてテオティワカンも支配者を持たず、自己統治をしていたと考えられるとWDは主張します。

王というものは、宮殿、豪華な墓、モニュメントを残す傾向があります。メキシコ盆地を離れたユカタン半島の古典期マヤ(AD150-900)の諸王朝の都市、ティカル、カラクルム、パレンケには宮殿と競技場と戦争の像があり、残酷に扱われる捕虜がいて、複雑な暦に基づく儀礼があり、歴代の王の記録が残っていて、我々の古代メソアメリカの標準的なイメージを形成しています。実際、似たような事例には事欠かないのですが、テオティワカンはそこからまったく異なっているのです。

まず文字はあったようなのですが、碑文がありません。そして手のひらに乗るようなテラコッタ像や壁画が残されていますが、統治者が従者を殴ったり縛ったりするような表現が見当たりません(マヤでは頻繁に現れる図象なのですが)。王を示す形象がそもそも見つかりません。ある画面に出てくる人物をすべて同じサイズで描くことさえしています。

メソアメリカでよく見られる儀式用球技場もテオティワカンにはありません。大きな墓も見つかりません。ピラミッドの周囲や神殿の下のトンネルを調べても墓はなく、霊廟とおぼしき空間があるだけでした。

テオティワカンは外部の慣習を意識的に拒絶していたとする人々もいます。マヤやサポテカの彫刻は曲線や浮動する形状なのに対して、テオティワカンの彫刻は角ばったブロックに嵌め込まれたフラットな複合体です。WDは美術史家パストリーの研究を引用しながら高地のテオティワカンと低地マヤの間では「分裂生成」(第5章)が起きたのだとしています。テオティワカンは意図的に「王朝的個人崇拝」を拒否するための表象を選び、支配者や王のいない都市を築いたのだとします。それはAD300頃のことで、初期のテオティワカンも初期は権威主義的な支配が行われていたのですが、その時期にある種の革命が起きて、都市が集団統治されるようになったというのです。

WDはメソアメリカにはマヤ帝国に代表されるような王権と文明のパターンがあったのと同時に共和政治のもいうべき伝統も存在していたのではないかといいます。それがどのようなものだったのか、以下に見ていきましょう。

マヤ低地の外来王とテオティワカン

ここでテオティワカン出身者がマヤで「外来王」になった事例が語られます。脇道っぽい話なので、飛ばしても構わないとは思いますが、一応要約を記しておきます。

熱帯雨林に栄えた古典マヤ(現在のユカタン半島、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル)の美術や文字記録に、「外来王」がAD5C頃から現れます。モニュメントでは地元の支配者の格好をしておらずテオティワカン様式の衣装と武器を身につけています。その外来王の墓には「ガマ葦の地」から来たという碑文が残されていました。

つまり、王のいないテオティワカンから古典マヤにやってきて王になった者がいるように見えるのです。600マイル離れた地からの軍事遠征はロジスティック(兵站)の観点から、おそらく無理だとされています。支配者が単なる異国情緒を楽しんで異国の衣装を纏っただけだとも考えられますが、マヤとテオティワカンの間には交易もあれば、人の移住もあったことが知られています。ここでWDは冒険する旅人が見知らぬ社会に足を踏み込み、その土地の王や神聖なる人物に変貌する「外来王 stranger-kings」の例を引きながらAD5Cのマヤにも、テオティワカンから外来王がやってきた可能性を検討します。そもそもマヤには「王はどこか遠くからやって来なければならない」という考えがあり、実際にテオティワカンを含む外部から王を招聘してきたという伝統があったようなのです。

テオティワカンの変遷

本書pp.386-387

テオティワカンの見取り図をみると、二つのピラミッド(太陽のピラミッドと月のピラミッド)と「城塞(シウダデーラ)」と呼ばれている大きなモニュメントが聳え、その周囲におよを2000戸の集合住宅がグリッド状に並んでいます。その規則正しさは、モアの『ユートピア』やカンパネラの『太陽の都』のような理想都市を具現化しているようにも見えます。しかし、これらは同時期に建てられていません。テオティワカンという都市を理解するためには、時系列に見ていく必要があるのだとWDは指摘します。

西暦0年頃にテオティワカンは都市として機能し始めます。そして、火山の噴火や地震を逃れて、多くの人口がテオティワカンに流入します。AD50から150年にかけて周囲の村や町や都市が放棄されてテオティワカンに移住したのです。WDは注釈で、自然災害による旧居の喪失という背景を考えれば大量移住は千年王国運動的な色彩をおびていたことは間違い無いだろうとしています。後世の年代期(フランシスコ会修道士が書き留めた)によれば、テオティワカンは他の場所からやってきた、長老、神官、賢者の連合体によって設立されたとされています。

テオティワカンの旧市街とみなせる場所は教区制が敷かれ各近隣区にローカルな神殿が配されていました。都市住民が耕作地やそれ以外の場所からの資源をどのように分配していたのかは分かっていません。トウモロコシは人と家畜用に栽培され、七面鳥、イヌ、ウサギが買われて食べられていました。マメ類、野生の果物や野菜を食べ、燻製や塩漬けにした海産物を海岸地方からもってきていました。しかし、その流通や都市経済の詳細はまったく不明です。

テオティワカンは、都市のアイデンティティを確立するためにモニュメントの建設をまず行いました。ピラミッド型の山と人工の川を配して暦に関係する儀礼の舞台を作ったのです。大規模な治水工事で湿地帯や氾濫原を制御してもいます。労働力が投入されたことはもちろんですが、人柱(儀礼的殺害)も立てられています。二つのピラミッドと神殿からは合計数百人の犠牲者の人骨が出土しています。

驚くべきことに、この後、宮殿が建てられてエリート階層(貴族や官僚)の住居が建てられるというコースをテオティワカンはとりませんでした。つまり支配階級は現れず、富や地位に関係なく、すべての市民に高品質のアパートメントを提供するといったプロジェクトが始まったというのです。

テオティワカンの公営住宅事業

AD300頃、神殿が冒涜され、供物が掠奪され、火が放たれ、羽毛の蛇の像が壊されました。ピラミッドの建設はそれ以降は行われず、石造りの住居建築が始まりました。考古学者たちは最初にそれを宮殿跡と見たほどに立派なものだったのです。それが市街地全体に広がり、10万人ほどの都市住民のほとんどが生活できるようになっています。

各建物は床と壁が漆喰に塗られた、排水設備完備の平屋建てで650平方フィート、中庭を囲んで各世帯の部屋があり、核家族が入っていたと考えられます。平均的には100人程度の人々が一つの建物に住んでいたのでしょう。中庭などの共同スペースには祭壇が設置されて壁画が描かれていました。考古学者の一人は「公共住宅」と表現しました。

部屋と中庭の設計は画一的ではなく、建物ごとに個性があります。輸入品を置いている建物、主食が独特だったり、アルコール飲料を楽しんでいる建物もあります。多くの人たちの生活水準は概して高かったようで、これは全世界の歴史的に見てもも極めて稀なことでした。

どのようなきっかけで、このような社会が生まれたのかははっきりしません。神殿の破壊を除けば暴力の痕跡がないのです。親族関係に基づくネットワークは「公共住宅」の枠を超えて都市の中、あるいは都市を超えて広がっていました。そしそれとは別に「公共住宅」単位あるいは近隣単位の共同生活体があり、ときに衣服作りや黒曜石加工などの専門技術を共有していました。加えて、テオティワカンは多民族都市でした。そんな複雑な都市が、統治階級なしにどうやって統治されていたのでしょうか?

WDの推測は地区集会(ローカルアセンブリ)に権限が委譲され、各地区集会は統治評議会に説明責任を負っていたというものです。おそらくは公共住宅100に対して割り当てられていた地区神殿(テオティワカンで20ほど見つかっています)がその役割を果たしていたのではないかというのです。それはこれまでに取り上げてきたメソポタミアの都市区域、ウクライナのメガサイトの集会所と似たような規模だったのではないか。これが無理な想像でないことは、この章の後半で、スペイン征服期のメソアメリカ都市の例で説明されることになります。

http://www.infomaya.jp/mexico/teotihuacan.html などがフリー画像豊富

ここでWDはテオティワカンの壁画について述べるのですが、話の流れが複雑になるので説明は飛ばします。

ここまでの説明からテオティワカンが平和裡に自己統治されていたかのようにイメージされるかもしれませんが、現実はそうでもなかったようだとWDは言います。たとえばある住居には、メキシコ湾岸からの移住者が住んでおり、移住後も湾岸部と交易を続けていて、湾岸部の暴力的な儀礼も持ち込まれていました。外敵の首を斬って、首を供物の容器に入れて家の中に埋めていたのです。テオティワカンの他の地区では、そんな儀礼をやっていた痕跡はありません。近所の住民からすれば、かなりショッキングな儀礼だったはずです。WDは多民族都市テオティワカンではあらゆる種類の社会的緊張が煮えたぎっていたに違いないと言います。他都市や遠隔地との出入りは激しく、外部から入ってきた住民は辺境地の同族を支援しているし、そこの風習を都市の中に持ち込んでいるのです。AD550頃から社会が崩壊し始めますが、外敵侵入の痕跡はないので内部崩壊だったようです。

オルメカからアステカ帝国に至るメソアメリカの歴史の中で展開された、ヒエラルキーのある社会からみて、テオティワカンは特殊な例なのでしょうか?それに対して、WDはテオティワカンの自己統治型の社会もまたメソアメリカの社会伝統の一つなのだとしてスペイン征服時代の都市、トラスカラの例を説明し始めます。

征服者コルテスと同盟した共和都市トラスカラ

スペイン人コルテスがアステカ帝国(三都市同盟)を征服するときに、重要な役割を果たしたのがトラスカラという都市です。コルテスは最初トラスカラと戦っていたのですが、手こずっていました。コルテスの敗色が濃くなってきたとき、トラスカラはコルテスに取引を持ちかけ、同盟して仇敵のアステカ帝国を攻撃しようと持ちかけます。コルテスはこれを受け入れて、アステカ帝国を滅ぼすことに成功します。

コルテスが神聖ローマ帝国皇帝に宛てた報告書には「この地方の統治の仕方は、ベネチア、ジェノヴァ、ピサの共和制とほぼ同様で、全体の首長というものは存在しません」と書かれていました。コルテスがメソアメリカでやってきたことは、王をみつけて味方につけるか、戦って無力化するかということでした。ところがトラスカラでは王を見つけることができなかったのです。

ところが、この出来事を扱った最近の本がトラスカラを「4つの小王制から成る連合体」と書いたりするなど、この共和都市の話は知られていません。その都市は、君主制のアステカ帝国と長年にわたって対立していたぐらいには強力な都市だったのに。それは、その事実が人類社会の「歴史の流れ」にそぐわなかったからだとWDは説明します。つまり、「銃・病原菌・鉄・馬」を持ち込んだヨーロッパ人によるアメリカ征服は歴史的必然であり、それに続いてそれまでアメリカには存在しなかった近代的な産業民主主義が持ち込まれたのも当然だったと、我々は思いたがっている、すなわち「近代の神話」だとWDはいうのです。

トラスカルテカ(トラスカラ人)が具体的にどのような経緯でコルテスと同盟を結んだのかについては、いくつかの一次資料がありますが、あまり知られていない『ヌエバ・エスパーニャ年代記』という資料をWDは使っています。この『年代記』の素性と再発見された経緯についてもWDは詳しく述べていますが、ここでは省略します。WDがこの資料に注目するのは、スペインの侵略者との同盟の是非をめぐる評議会での討議が描かれているからです。

『年代記』によれば、コルテストの同盟を結ぶかどうかについて、トラスカラで演説したのは、長老政治家、商人、宗教家、法律家といった面々であり、理路整然とした議論と長時間の(ときには数週間におよぶ)審議によって合意形成を目指す成熟した都市議会の様子が描かれます。スペイン人との同盟については、その提案者が雄弁を振るい、その反対者が貪欲なスペイン人を引き込むことの危険性を訴えかけます。「隷属せずに暮らし、王を認めたこともないわれわれが、なぜおのれを奴隷となすべく、そのために血を流すというのか?」というのです。評議会は分裂して意見はまとまりません。しかし評決に頼らず誰かが創造的な綜合案を提示するまで議論は続きます。このときは「上級司法官」のひとりがこんなプランを提案します:コルテスが領内にはいったら、将軍の一人がオトミの戦士たちと待ち伏せで襲いかかる。待ち伏せに成功すれば彼らは英雄となる。失敗すれば、すべての責任をオトミに被せて、スペイン人と手を組む。そんなプランです。

スペイン征服後の数十年間の市議会の議事記録『トラスカラの法令』でも、政治家たちの巧みな弁舌、合意に基づく意思決定、理路整然とした議論などを見ることができるのだそうですが、歴史家がそこに注目しないことについてWDは延々と文句を並べています。

WDはさらにモトリニーアと呼ばれた修道士が、トラスカルテカのインフォーマントと共に書いた『ヌエバ・エスパーニャ・インディオ史』をとりあげます。モトリニーアは選挙で選ばれた役人の評議会でトラスカラは統治されていたと書いています。評議会に入ることを望む人々はカリスマ性や他人を圧倒する能力は求められず、その正反対の謙虚な精神が求められていました。都市民に従属することが求められ、公衆の罵声を浴びることが義務付けられ、長期隔離の中で断食、睡眠剥奪、瀉血、厳格な道徳教育といった試練をあたえられました。

(ここから話が再び脱線を始め、トラスカラ市民自身は自分たちをチチカカの子孫であり、それは砂漠や森の中で禁欲的生活を送る原初的狩猟採集民だったという話をWDはします。そのイメージがルソーの「自然状態」につながっていったのではないかというあたりまで話が広がったところで、本題に戻ります。)

最後にWDは考古学的証拠で以上の話を裏付けます。トラスカラには宮殿も中央神殿もありませんでした。他の都市では重要な儀礼に使われていた球技場もありませんでした。地区広場が20以上あり、その周りには均質で上質な市民の住居が配置されていました。コルテスがやってくるずっと以前からトラスカラには共和政体が存在していたのです。

他のメソアメリカの都市とはまったく別の政体ではあったのですが、1000年前のテオティワカンから繋がる流れがメソアメリカにはあったのだとWDは言います。

『万物の黎明』読書ノート その0
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