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森に逃げ帰るインディアン 『万物の黎明』ノート10

本書の著者たち(二人のデービットなので以下WDと略す)は社会進化論とは一線を画します。ホモサピエンスは種として分化した時から、今の私たちと同等に賢く(サピエントであり)、今の私たちより愚かだったとはみないのです。

ヨーロッパ人が新大陸を発見したとき、そこにいた人たちは「未開人」あるいは「野蛮人」とみなされ、ヨーロッパの「文明人」と区別されました。そして、そのことを説明するための理論が色々と作り出されます。第2章で取り上げられる社会進化論もその一つですし、未開人とは人類進化の途上にある、いいまだに愚かな人々であるという見方がなされることになります。そして、レヴィ=ストロースによってそれが否定されたにも関わらず、これはいまだに続いている人類史観でもあり、WDもしつこくそれを否定していきます。

そのために第1章では、文明社会と「未開」社会の両方を経験した人間が、最終的に「未開社会」に迯げ帰った例を色々挙げます。たとえば、常に暴力に晒されているとみなされた南米のヤノマミ族に誘拐された白人の少女エレナ・ヴァレロは、いったん白人社会に連れ戻されますが、自分の意思でヤノマミ族に戻りました。また、養子縁組や結婚でヨーロッパ社会にやってきたインディイアンたちは、高い教育を受けた者も含めて、逃げ出すか、社会適応できずに余生を元の部族のもとで過ごしたともされています。(ベンジャミン・フランクリンがこうした事例を書き残しているそうです。)

こうした事例を書き並べてもチェエリーピッキング(自分に都合の良い事例だけを選び出すこと)の誹りは免れないと思うのですが、WDはお構いなしに話を続けます。

彼らが「未開社会」に戻る、あるいは留まる理由は、インディアンの社会が、自由であり、平等であり、だれかが貧困や飢餓・窮乏に陥ることを嫌う社会だからというものでした。そしてWDは次のように結論します:

おそらくいちばんの理由は、社会的なきずなの強さ(相互のケア、愛、幸福であること)であって、それはヨーロッパでは確保できないと彼らは感じていたのだろう。

確かにインディアンの社会は矢で射られる確率が文明社会よりも高かったかもしれない。その意味で文明社会は「安全な社会」であるとは言えるでしょう。しかし矢で射られたときに隣人たちが必ずケアしてくれると確信できる社会も「安全な社会」なのではないか。部族社会に逃げ戻った人々は後者の「安全」をより重視したのだとWDは指摘します。

こうしたWDの議論には、人々が何を「価値」あるものと考えるのかという「価値論」があります。D.グレーバーの処女作は『価値論』であり、彼の関心が処女作から本書の遺作まで一貫していたことが伺えます。

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<ノート(トピック毎)>
万物の黎明というタイトル 『万物の黎明』ノート1
アドニスの庭 『万物の黎明』ノート2
新石器革命(農耕革命)は革命ではなかった 『万物の黎明』ノートその3
パラダイムシフト 『万物の黎明』ノートその4
「よくできた社会理論」は滑稽でもある 『万物の黎明』ノート5
蜃気楼としての「未開社会」 『万物の黎明』ノート6
国家の起源を語るのは無意味である 『万物の黎明』ノート7
選挙は民主主義では無い 『万物の黎明』ノート8
ルソーとホッブス 『万物の黎明』ノート9


<読書ノート(要約)>
『万物の黎明』読書ノート その0(前書き&目次) 
『万物の黎明』読書ノート その1(第1章)
『万物の黎明』読書ノート その2(第2章)
『万物の黎明』読書ノート その3(第3章)
『万物の黎明』読書ノート その4(第4章)
『万物の黎明』読書ノート その5(第5章)
『万物の黎明』読書ノート その6(第6章)
『万物の黎明』読書ノート その7(第7章)
『万物の黎明』読書ノート その8(第8章)
『万物の黎明』読書ノート その9(第9章)
『万物の黎明』読書ノート その10(第10章)
『万物の黎明』読書ノート その11(第11章)
『万物の黎明』読書ノート その12(第12章)

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