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『万物の黎明』読書ノート その7

"WD"はDouble David(著者である文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローの二人のデビット)の略です

第7章は第6章の補完的な位置付けであり、世界のさまざまな地域で農耕が広がったり拒絶されたり放棄されたりした様子を描きます。

第7章「自由のエコロジー」要約

前章で描いたように、肥沃な三日月地帯だけでも初期農耕発生の事情は複雑です。しかし、人類史を扱う一般著作は「農耕への移行」にどのような「社会的意味」があるかを問いかけ、唯一の移行過程と唯一の意味を考えようとします。これはもちろん意味がありません。種を植えてヒツジの世話をすることを始めたとたんに「コモンズの悲劇」を回避するために人類は不平等な社会組織を必然的に受け入れた、みたいな発想や著作は跡を絶たないのですが、反例はいくらでも出てきます。

コモンズの悲劇(コモンズのひげき、: tragedy of the commons)とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則共有地の悲劇ともいう。
アメリカ生物学者ギャレット・ハーディン1968年に『サイエンス』に論文「The Tragedy of the Commons」を発表したことで一般に広く認知されるようになったが、発表後多くの研究者も反論を唱えた。

共同土地保有、開放耕地、耕地の再配分、牧草地の共同管理が何世紀にもわたって続けられた例が世界各地にいくらでもあります。WDは以下の例を列挙します。

ロシアのミール(共同体)
アングロサクソンで言うところの土地再配分制度ランリグ(ランデール)はスコットランドからバルカン半島まで存在していた
インドにも土地再配分制度はあった
マルク共同体(ドイツ)
マシュア(パレスチナ)
スバック(バリの水利共用)

農耕開始期に平等主義が終わったと考える根拠はありません。肥沃な三日月地帯では農耕が始まってから数千年は不平等社会は訪れませんでした。農耕が出現した他の地域には、もっと多様なストーリーがありえたはずなのだとWDは論じて、いくつかのパターンを紹介していきます。
現在、栽培化と家畜化が始まった場所として、15から20くらいの地域が確認され、それぞれがまったく異なる植物と家畜を育て、まったく異なる発展を辿りました。その多くは、食糧生産から国家形成への一直線の道筋を辿っていません。従来の「農耕牧畜が始まるとやがて国家が誕生する」という通説は覆されているのです。

本書P.288-289

現代版伝播主義のジャレド・ダイアモンドは、農業が近隣地域に到達(リーチ)しなかった例をあげていますが、農耕技術は到達していたのであり、その採用を拒絶しただけだとWDは指摘します。たとえばアメリカの西南部では早くから行われていたトウモロコシやマメの栽培は徐々に放棄され、社会は狩猟採集生活に回帰しています。
ひとたび農耕が始まると、それが瞬時に広がっていくというイメージは、大航海時代以降に旧世界から新世界に広がった家畜種や栽培種が背景にあるとWDは言います(コロンブスの交換)。しかし、それはヨーロッパの帝国と商業の拡大に伴うのものなのであり、16世紀以前の農耕拡大の歴史は失敗と停滞と逆転の繰り返しでした。

農耕は遊戯農業として始まった

そもそもなぜ農耕の開始は1万年前であり、ホモサピエンス発生の20万年前に遡れないのでしょうか。持続的に農耕が可能な程度に温暖化したのが十三万年前のエーミアン間氷期でしたが、まだ人類はアフリカを出ていませんし、人数も限定されていました。現在の温暖化は12000年前に始まり、その頃には人類は地球の広い範囲に拡散して、多様な環境に適応していました(完新世)。氷床が後退して、そこに動植物が移動してきて新しい環境を作り出し、狩猟採集民の天国となったのです。その中では農耕民は、狩猟採集民が手をつけなかったニッチ領域で暮らした「文化的劣等生」でした。

その中でも人口拡大に成功した初期農耕社会は「自由の生態学/遊戯農耕」が鍵となっています。農耕に手をつけたり手放したりする社会であり、農耕が死活問題にならないように食物網を保持していたのです。庭の耕作、湖や泉のほとりでの氾濫農法、焼畑、剪定、段々畑、半野生状態での動物の飼育管理、そういった技術を狩猟・漁労・採集の活動と組み合わせていたのです。

農耕に失敗した例

農耕に失敗した例としてWDは中央ヨーロッパの例を挙げます。ドイツからオーストリアにかけての黄土平原ではBC.5500頃から「線帯文土器」文化として農耕民村落が形成されましたが、最後には共同体全体が惨殺され、消滅させられた跡が残されています。大人や男女の区別なく遺体が放り込まれた穴、それらの遺体に残る暴力や拷問の痕跡、頭皮が剥がされた頭骨、切断などが残っているのです。最初期の集落は格差のない社会だったようなのですが、BC.5000頃から格差が生じ始め、集落の周りに環濠が掘られ、戦争の痕跡が出始めます。人口はBC5000からBC4500のあいだに大幅に下降して、崩壊に近い状態にまでになりました。いくつかの地域では狩猟採集民との婚姻を通じて持ちこたえています。そこから1000年ほどの停滞期間ののちに中欧と北欧で穀物栽培が再開されています。

周囲の豊かな狩猟採集民たち(ロシア北部からスカンジナビア、ブルトン海岸)からみれば、この農耕民たちは生態学的袋小路にはまりこんだ人たちに見えたでしょう。そもそも、中央ヨーロッパは狩猟採集で生活するのに不向きな場所で、だから人々は農耕に頼らざるを得なかったのです。

成功した例

ナイル川流域(エジプト&スーダン)では、南西アジアからいくつかの作物と家畜が伝わりますが、住民たちはそれらを取捨選択して「パッケージ」を包み直しました。BC5000-4000頃、彼らは南西アジアの農耕文化から、穀物栽培とカマドと家を捨てて、家畜を中心とした独特の移動性の高い文化を作り上げたのです。それは古代エジプト文明の基礎となりました。(その数世紀後に再び穀物栽培を始めています。)

BC.1600頃、台湾とフィリピンのイネとキビの栽培文化が拡散していきますが、拡散していく過程の中で、イネとキビは途中で放棄され、移動経路で遭遇した芋類や果実、様々な家畜(ブタ、イヌ、ニワトリ)にとって代わられます。(本書で「ラピタ・ホライズン」と呼ばれる急激な拡大は、狭義には下の図での紫の部分のみを指します。)

オーストロネシア人の拡散 https://en.wikipedia.org/wiki/Lapita_culture より

彼らはすでに狩猟採集民の社会が栄えていたオーストラリアやニューギニアは避けて拡散を続け、新たな環境に適応しながら多様な文化を作り上げていきました。
これら3つの事例では、人々は「真面目な農業」に取り組んでいたと言えます。動植物は完全に家畜化/栽培化され、人間の社会もそれに合わせて組織化されました。そして、この3つの事例は、それまで誰も住んでいなかった土地に向けて農耕が行われています。ナイル川流域で家畜の飼育に集中した人々は、オアシス都市を避けました。
その一方で、アマゾニアのように「遊戯性の高い農耕」が保持された場所もあります。彼らは農耕に参入したり、退出したりしました。植物の栽培化したり土地を管理した証拠はあるのですが、農耕に取り組んだ証拠がないのです。彼らの社会では「野生」と「家畜」の境界はあいまいですし、わざと曖昧にしてあるようにも見えます。この文化は何千年も続き、遺伝的には異なるのにアラワク語を話す人たちのネットワークを作り上げました。交易の過程で、諸集団が意図的に言葉を取り込んでいったようです。アマゾンは人々が想像するような「自然状態」ではなくて、町もあれば段々畑もありました。熱帯雨林の中に隠されていただけだったのです。こうしたアマゾニアの発展を支えたのは、焼畑という「遊戯農耕」でした。
ここでアマゾンの住人は動物を飼うことはなかったが、ペットは飼っていたという話が挟まれています。食用に殺された動物の孤児であり、それらは食べられずに可愛がられました。これはおそらくは第4〜5章で展開された奴隷制の起源の話に呼応させているのかもしれません。
メキシコではBC7000にカボチャとトウモロコシが栽培化されましたが、主食になったのは5000年後でした。北アメリカのウッドランドではBC3000に種子植物は栽培化されていましたが、AD1000にならないと真面目な農業が始まっていません。中国ではBC8000頃、北部の複数の平原でアワやキビの栽培が始まっていましたが、黄河流域に導入されるのは3000年後でした。また、長江の中下流域で野生のイネが栽培され始めてから栽培種が現れるのは15世紀後でした。長江と黄河の両方で家畜化されていたブタは食料として長いこと重視されず、野生のイノシシやシカが重んじられていました。このように、世界中のどこでも、「遊戯農業」の時代は長く続いたとWDは説明していきます。
ところで、なぜ最初に取り上げたヨーロッパ中央部の農耕民は人口崩壊に見舞われたのでしょうか。肥沃な三日月地帯と異なって、中央ヨーロッパの農業は少ない品種(あるいは単一品種)の作物しか作っていませんでした。新しい資源も開発できていません。こうした農業は、労働力不足、土壌の疲弊、病、凶作などに対して脆弱なシステムだったと考えられます。
最後にWDはこうまとめます。「農耕はたいてい剥奪の経済としてはじまった。農耕が考案されたのは、ほかに手立てがないばあいにのみだったのである。だからそれは、野生資源のもっとも乏しい地域で最初に着手される傾向にあったのだ。農耕は、初期完新世のもろもろの戦略の中では異端児だった」

(その8に続く)

『万物の黎明』読書ノート その0
『万物の黎明』読書ノート その1
『万物の黎明』読書ノート その2
『万物の黎明』読書ノート その3
『万物の黎明』読書ノート その4
『万物の黎明』読書ノート その5
『万物の黎明』読書ノート その6
『万物の黎明』読書ノート その7
『万物の黎明』読書ノート その8
『万物の黎明』読書ノート その9
『万物の黎明』読書ノート その10
『万物の黎明』読書ノート その11
『万物の黎明』読書ノート その12



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