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『万物の黎明』読書ノート その4

以下、"WD"はDouble David(著者である文化人類学者デビット・グレーバーと考古学者デビット・ウエングローの二人のデビット)の略です

第4章は氷河期の終わり頃の後期旧石器時代から、農耕開始までの中石器時代が扱われますが、ここでも序論的議論が続きます。まず「文化」の議論を始め、ついで「平等」についても、前章の議論を引き継いで検討されていきます。そもそも「平等」は問題の多い概念ですが、この章では問うべきなのは「平等」かどうかなのではなくて「自由」かどうなのかなのではないかという議論を行います。るのですが、さらには「所有」の起源について議論が行われます。この章は中石器時代の文化を取り上げながら「農耕革命」という概念を反証していくと同時に、こうした3つのテーマが扱われています。まとまりが少々悪いように思えるのですが、この後に続く議論の基本になる部分を記述しておいたということなのでしょう。

後期旧石器時代の「社会」は広かった

後期旧石器時代のアルプス山脈から外モンゴルまでの文化はかなり似ていたとWDは指摘しています。のちの時代に比較すると、道具、楽器、女性の小像、装飾品、葬儀などがかなり似通っているというのです。そして、男性も女性も長距離移動をしばしば行なっていたと考えられています。
狩猟採集民の研究でも、彼らはしばしば長距離移動を行い、遠隔地の集団と混ざり合っていることが報告されています。東アフリカのハッザ族やオーストラリアのマルトゥ族の調査では、規模が小さな集団(バンド)でもほとんどのメンバーが他所からの流入組で近しい親族だけでまとまっているわけではありませんでした。遠方からやってきたメンバーも多くて、言語すら異なる場合もあったようです。オーストラリアのアボリジニは大陸の半分を旅しても、受け入れてくれるトーテム半族を見つけることができたとされます。北アメリカインディアンも五大湖からルイジアナまで移動しても受け入れてくれるトーテム(同族集団)がありました。
この時代の「社会」は広域にわたっていた訳ですが、技術の進歩とともに長距離移動する人間が減少しました。つまり社会は狭くなったのです。

中石器時代になり「社会」は狭くなり、文化差異が生じるようになった

さて、紀元前1万2千年前あたりから、時代区分的には中石器時代が始まり石器以外の文化の痕跡が辿れるようになります。
アフリカと東アジアの大部分で土器が焼かれるようになり、細石器、石臼などの技術革新が起こります。それに伴い、様々な調理や食料保存方法などが発明され、「料理」という文化に差異が生まれました。これに同期して、服飾、ダンス、薬物、髪型、儀式、親族形態、修辞法などの差異も生じて行って「文化圏」が形成されていきました。その範囲は現代の国民国家よりははるかに広かったのですが、前の時代に比べると同質の文化が共有される範囲がより狭い方向に進んでいったと思われます。なぜこれが起こったのか?これが本章のテーマのひとつです。
文化的に分離した社会が支配体制には好都合なことは容易に想像がつきます。いっぽう、文化的には同質なさまざまな狩猟採集社会が混在していれば、ある社会から逃げ出して別に移る人々も多かったでしょう。文化の「抜け穴」が多いということは(言い方を変えると社会の多孔性は)社会の季節変動にとっても必要なことだったでしょう。集団が季節によって巨大化したり、分裂したりするためにも、そうした多孔性は確保しておく必要があります。
こうした多孔性を前提とすると、旧石器時代のプリンスの埋葬にしても、ストーンヘンジのような巨大建築にしても、どこか芝居じみて見えるとWDは言います。季節変動で「権力が喪失する時期があると分かっていながら権力を行使し、服従している」人々を想像してみればよいと言うのです。逆に、文化的な境界線がはっきりして硬化すれば、こうした多孔性は失われ権力の演劇性も失われることになります。

平等であるということとは何を意味するのか?

ローカルな文化世界の出現は、季節変動を放棄して階層社会へ固定化していく(つまり閉塞していく)可能性を高めた、とWDはいいます。しかし、それを考える前にWDは平等/不平等の意味について今一度立ち帰ります。第2章でも議論したように「不平等」は掴みどころが難しい言葉ですし、「平等主義的社会」の言葉の実際の意味もはっきりしません。たとえば平等主義は、ある理想の状態を想定しているように見えますから
1。ある社会のほとんどの人間が、とくに重要だと考えている部分(富、信心、美、自由、知識、武力など)については等しくあるべきだと感じており、
2。この理想が実際にほぼ達成されている
ような社会を平等主義的社会とみなそうとしましょう。その上で、神の前では誰もが平等で、人口の半分は財産も法的政治的権力をもたない社会があって、誰もが「神の元での平等」が重要だと主張している場合、これは「平等主義的社会」といえるのか?という問題を考えてみます。彼らにとっては「平等」なのかもしれませんが、脱宗教化した社会から見れば平等とは程遠いことは明らかです。だからこれは役に立たない判断基準です。

こうなると、平等を測定するための普遍的客観的尺度を作るしかありません。平等を計る普遍的で客観的な基準は、ヨーロッパでは18世紀からずっと「所有物」(の組織法)でした。「狩猟採集民が平等」という考え方も、彼らが生産手段も余剰生産物の蓄えも持っていない、だから占有する人間もいない、だから平等だと考えられたからです。ここから派生して、「農耕による物質的余剰→それを分け前にするフルタイム専門技術者、戦士、祭司が発生→商人、法律家、政治家が発生→彼らが団結して国家を作る」というような社会進化に関する一般通念が生まれることになりますが、大雑把すぎて説得力に乏しいとWDは言います。「農耕と所有から国家が生まれた」という図式は「古代ペルシャの微積分学から原子爆弾が生まれた」という言い方ぐらい雑な議論だというのです。そもそも中東で農耕民が出現してから国家が出現するまで6000年かかっているのです。

問題は余剰です。人間が動物と異なるのは余剰を作りだすことにあり、それは人間の本質と言っても良いでしょう。支配階級とは余剰を自分のものにするように社会を組織した人々ということになります。余剰を公平に分配することが可能だと考えた人々もいましたが(たとえばマルクス)、現在はこれに否定的な考えが主流となりました。

ジェームズ・ウッドバーンは平等主義を貫く狩猟採集民の社会を考察しましたが、それらの社会は物質的余剰を自覚的に避けていました。つまり食べ物は当日か翌日に食べ、保存や貯蔵はしないようにしていました。こういうことを考えていくと、平等は狩猟採集民以外には不可能ということになります。となると「平等主義的社会」という用語自体に問題があるのです。では、これに代わる代替案はあるのでしょうか?

「平等主義的社会」に代わる概念は「自由な社会」である

ここでWDはフェミニスト人類学者エレノア・リーコックの見解を引きながら、平等主義的社会と呼ばれる社会の人々は、平等そのものより「自律性」に関心を寄せているとします。そして、「自由」であることに価値を置く「自由社会」が「平等主義社会」に代わるベストな代替案だとするのです。ただし、その自由は形式的なものではなくて、実質的なものでなければなりません。たとえば、アメリカ市民には旅行の自由があるとされますが、移動費と宿泊費が用意できる人は旅行できても、貧乏な人には旅行はできません。アメリカ市民には形式的な旅行の自由しかないのです。これに対してウェンダット族のように社会の中に相互扶助(コミュニズム)のシステム、あるいは歓待義務というルールがあれば、誰でも自由に旅に出ることが出来ます。実質的に旅行の自由があるのです。

社会に階層性(ヒエラルキー)があったとしても、演劇的なものだったり、ごく限られた局面に封じ込められていることもあります。WDはここでヌーア族の婚姻システムについて説明し、複雑な婚姻システムではあるものの、建前だけのものも多くて抜け穴だらけで、女性にしても男性にしても個人の自由が前提とされていた様が説明されます。

共同体から出ていく自由や、権威に服従しない自由は、我々の遠い祖先では自明だったようだとWDは言います。歴史の始まりから、人に命令されることを嫌うという自己意識はあったというのです。となると、ヒエラルキーの頂点をなす、王や王妃が歴史のどこで出現したかが問題なのではなくて、いつから王や王妃を笑い飛ばすことができなくなったのかが問題なのだとWDは言うのです。

「労働」の問題化

ここから「労働」の問題が議論されますが、議論の流れが掴みにくい箇所でした。現在の我々にとって「自由」を制限するのは「労働」なので、そういう流れで「労働」に話を移しているのかなとも思っているのですが、うまく要約できませんでした。ですので、そのあたりを割愛して、18世紀に仕事もしくは労働の問題が前景化したという話まで飛ばします。

アダム・スミスとチュルゴー(第2章参照)は人類の発展段階を食料の獲得方法を軸にして考え、そこからの帰結として「仕事」に焦点を当てました。1750年代はちょうど産業革命が起こる頃であり、西洋文明の優位性を主張するためには生産労働を基準とするのが都合が良かったのです。(他の指標で優位なものが無かったというのはp.151の注16を読んでください。)そして産業革命の結果、フルタイムの産業労働者階級が出現して議論がそこに絞られていくことになります。

そして技術の進歩が歴史の原動力であり、不必要な労苦からの解放をもたらすという見方が19世紀を通じて自明視されるようになります。未開人は労働に明け暮れる生活を送っているが、今は改善の過渡期にあるという主張をヴィクトリア朝の知識人たちは行いました。少しづつ労働は軽減され、人々の幸福は増加していく過程にあるとしたのです。実際には、産業革命当時の工場労働者は中世の奴隷より働かされていたのですけれども。そこにマーシャル・サーリンズが1968年に「初源の豊かな社会」という論文を発表し、その「常識」を覆しました。

サーリンズによる神話の転覆

サーリンズの経歴
1950年代後半に新進化論者としてスタート。共同研究で、人類の政治的発展の4段階説「バンドー部族ー首長制ー国家」を提唱
1968年、パリのレヴィ=ストロース研に招かれ、クラストルと出会って議論を重ねる
サルトルが主催する雑誌『レ・タン・モデルヌス』などで論文を発表
帰国後はシカゴ大学で教鞭をとり、グレーバーなどがそこで学ぶ

サーリンズは「現代は物事が改善していく過渡期にある」という考え方について、労働時間に関してはまったく逆であることを示しました。そして初期人類は物質的にも豊かな社会を送っていたと断じたのです。多くの狩猟採集民や園耕民は1日に2時間か4時間しか仕事せず、生活に必要なものを全て得ているとサーリンズは書きました。(これは1960年代に参照することができたサン、ムブティ、ハッザ族の民族誌的事例に基づいたもので、現在は修正を強いられている見解であることは注意を要します。)

狩猟採集民は、穀物や野菜の栽培方法を知っていましたが、農業で生活することを拒否した人々だとサーリンズは言います。

「世界にはモンゴンゴの実がたくさんあるというのに、なんであえて栽培しなきゃならないんだ?」

クン族のインフォーマントの言葉

狩猟採集者は自らの余暇を維持するために新石器革命(農耕革命)を拒否したとサーリンズは断じました。そして農耕を始めた人々は労働時間が増え、貧困、病気、戦争、奴隷制がもたらされたとしました。これはルソー版「失楽園」にとって代わる一種の道徳説話です。我々は農耕を受け入れることで罰を受けた(そして新しい技術を受け入れるたびに堕落を繰り返している)ということなのです。

サーリンズの論文の欠点は「先史時代の人間のほとんどは現代アフリカの狩猟採集民のように暮らしていた」という前提にありました。しかしカリフォルニアの狩猟採集民は勤勉で知られ、アメリカ北西海岸の漁労採集民は富を重んじる階級社会で知られていました。アフリカの狩猟採集民だけが初期人類のモデルになる理由はありません。

カリフォルニアの狩猟採集民:貪欲で、お金や聖なる宝物を貯めることに人生の大半を捧げ、そのために大変に勤勉に働く。
アメリカ北西海岸の漁労採集民:高度な階層化社会で平民と奴隷は勤勉で所有階級はたいへんに贅沢な暮らしを送っていた。美術的にも創造性を発揮した。

のんびり暮らすハッザ族と、寸暇を惜しんで働くカリフォルニア北西部の狩猟採集民とどちらが初源の人間に近いかという問いは無意味です。人類の「初源」は存在しません。問うべきなのは、かつてはあった社会の柔軟性と自由とを大きく喪失したのは何故か?永続的な支配と従属の関係に閉塞したのは何故かという問いなのです。

農耕開始に先立つ新石器時代の大規模遺跡の例

ここからは氷河期が終わって農耕が始まるまでの中石器時代に現れた巨大遺跡の例として、北アメリカのポヴァティポイントと日本の三内丸山遺跡が取り上げられて、「農耕革命」という従来の歴史観が覆されていることを説明していきます

ポヴァティポイント https://en.wikipedia.org/wiki/Poverty_Point より

ポヴァティ・ポイントはBC1600頃の巨大土塁群で、ミシシッピ川下流域の古代文明の証拠です。南北に二つの巨大マウンドもあり、それらを含めると200ha以上になって、これはウルクやハラッパーより広い遺跡です。水運に頼って広域の文化交通センターを形成し、五大湖からメキシコ湾にかけて人や資源がやってきていました。農耕は行われておらず、漁労狩猟採集民によるものであり、彼らはBC3500頃から続く都市文化の末裔でもあります。分かっていないことは数多いのですが、矢や槍の穂先の石のカラーヴァリエーションだけでも相当な種類があって、文化的洗練が推測されています。
不思議なことに、外からの物の流入は確認できるのですが「輸出」の痕跡がまるでありません。クッキングボールと呼ばれる謎めいた土器以外、外に持ち出された物資の痕跡が確認できないのです。そこから、WDはポヴァティポイントに備蓄されていたのは無形物、つまり儀礼や歌やダンスやイメージなどの知的財産だったのかもしれないと想像しています。

「クッキングボール」 https://www.pinterest.jp/pin/460985711842159521/ より

同時代のミシシッピ川流域に広がる小規模の遺跡は、正三角形を基本とする同一の幾何学原理で構成されているので、標準的な測定単位が存在していたと考えられます。広範囲にわたって測量技術、数学的知識、土木技術が共有されていたということです。となると、その他の知的活動・知識も共有されていて不思議はありません。
アメリカの考古学ではベーリング地峡が海峡になったBC8000頃からトウモロコシ栽培が始まるBC1000頃までの長い期間を「アーケイック期」と命名して、「重要なことは何も起こらなかった期間」として扱ってきました。ミシシッピ川流域以外にも様々な遺構が発見されているのですが、それらもすべて「アーケイック期」の文化としてまとめて扱われているのが現状です。

アメリカのアーケイック期同様、日本ではBC14000からBC300までの一万年以上の長い期間をまとめて「縄文時代」と呼んできましたが、考古学的発見が相次いだことで単純な時代ではなかったことが明らかになっています。膨大な考古学資料から浮かび上がってきたのは、100年周期で集落の形成と分散が繰り返され、モニュメントが建てられては放置され、豪奢な埋葬が開花しては衰退し、工芸が活気付いては退潮した複雑な社会です。三内丸山のような大規模貯蔵庫や祭祀場を伴った大規模村落もありました。

三内丸山遺跡の復元建造物 https://ja.wikipedia.org/wiki/三内丸山遺跡

ヨーロッパにも中石器時代の遺跡や遺物が出ており、この時代が複雑で豊かであったことが窺われます。フィンランドには巨人の教会と呼ばれる、BC3000-2000頃に狩猟採集民が作った長さ195フィートの石垣があります。

「巨人の教会」 https://en.wikipedia.org/wiki/Giant%27s_Church より

ロシアのウラル山脈ではBC.8000頃に作られた、高さ5メートルのトーテムポール「シギルの偶像」が見つかっています。

「シギルの偶像」 https://siberiantimes.com/science/casestudy/features/the-awesome-shigir-idol-depicting-the-ancient-spirit-world-originally-stood-tall-beside-a-paleo-lake/ より

また、ストーンヘンジ(BC.2500-2000)を作った人々は穀物栽培を放棄して、家畜飼育とヘーゼルナッツ採集を行っていたとされています。

こうした発見が相次いでいるのに、なぜ、このような情報が人類史の中に組み込まれて描かれてこなかったのでしょうか?WDは、土地の所有権についてヨーロッパ人と先住民の思考体系が食い違っていたからだと考えています。つまり、耕していない人間は土地を所有することができず、土地を所有しない人々は文明に値しない人々だ」という思考に欧米文化は固まっているということのようです。つまり、農耕が始まる以前の歴史は語るべきことがなかった単調な時代であり、同時に、農耕が始まっていない狩猟採集民(つまり「未開人」)も歴史を持たないという考え方です。

土地の所有権をめぐって

ヨーロッパからの入植者たちが、先住民の居住地を奪ったときの理屈は以下のようなものでした:

先住民たちは実質的に働いていない。所有権は労働から派生し、土地を耕すことで自らの「労働を土地に混ぜ合わせ」、土地は自分自身の延長となる。だから耕していない先住民に土地の所有権はない

ロック『統治二論』などをはじめとする「農業論」

もちろん、これはナンセンスです。耕さずとも人々は焼畑、除草、雑木伐採、選定、、、etc. といった方法で土地を改良していたのですから。ヨーロッパ流の法体系(ローマ法やイギリスのコモンローなど)の定める私的所有権こそ認識されてはいなかったでしょうが、先住民は彼らの方法で使用権や所有権をそれぞれの社会の中で設定し、複雑で洗練されたものにもなっていました。資源を所有することが、資源へのアクセスでの差別化を産んで社会階級の形成につながる場合もありましたが、たいていの場合は所有が強制的権力と結びつかないような力も働いて、それが防がれていました。

階級のある不平等な狩猟採集社会

しかも、いくつかの狩猟(漁労)採集社会は祭祀カースト、常備軍、王宮を備える階級社会でもありました。その例をフロリダ西海岸のカルーサ族で見ていきましょう。「農耕以前」の社会は決して、ヨーロッパ人たちが想像したような単純なものであはありませんでした。
カルーサ族(フロリダ):魚介、海産動物が主食。陸生動物と鳥類も食べていたが農耕も牧畜もしなかった。ヨーロッパ人が到来した頃は、軍用カヌーの船団で近隣住民を攻撃して加工食品、皮、武器、琥珀、金属、奴隷などの貢納を受けていた。統治者のカーラスは、ほとんど「王」だった。装飾品を身につけ王座に座り、絶対権力をもっていた。王が死ねば、臣下の子供たちが一定数殺された。
カルーサの例は、農耕が不平等の起源であるという論、あるいは農耕革命論(新石器革命論)には不都合な例です。無視を決め込むか例外扱いするしかありません。しかしそれは「真のスコットランド人論法」(詭弁、あるいは非形式的誤謬)でしかないのです。「真のスコットランド人論法」についての説明は、本文の説明が面白くて分かりやすいのでそちらをご覧ください。どんな実例をつきつけても、「それは例外だ」と言い張り続けるスコットランド人の話です。
「農耕革命」を反証するような「未開民族」の例が報告された時、それを例外扱いするための論法として、彼らが非典型的な環境(熱帯雨林の奥地や、砂漠の辺境)で生活したからという理屈も多くなされました。確かに20世紀に生き残っていた狩猟採集民は、そういう場所で生活していたのは確かです。しかし、1万年前は誰もが狩猟採集民で人口密度も低かったから、好きな場所で生活できました。わざわざ「非典型的な環境」で生活する必要などありません。カルーサにも「非典型的」要素は一切なかったのです。恵まれた土地に住んでいたから、スペイン人に真っ先に侵略されたのでした。そうなると、恵まれた土地に住んでいた初期人類はカルーサと似たような状態だったのでしょうか?それはよくわからないとWDは言います。次のような「王」もいるからです。
ナチェズ族(ルイジアナ):農耕民で王が治めていた。王は住んでいる村の中では際限のない権力を持ち、気まぐれに臣下の処刑を命じるなど、好きなことはなんでもできた。しかし、王は出不精で村の外には出ず、多くの人々は村の外に住んでいて、王の命令に従う気がない時は、無視するか、王の使者を笑い者にした。
ナチュズの王は遊戯王とも言えませんし、絶対王権を持っていたともいえません。
しかし、少なくとも、農耕の発明まで人類はカラハリのブッシュマンのような生活をしていたという今の時代の支配的見解が間違いだとは断言できるでしょう。氷河が後退した直後、資源豊富な海岸、河口、河川流域で多数の社会が形成され、大規模な居住地に集まり、新しい産業を生み出し、数学的原理でモニュメントが建造されたのです。そして一部では、王宮や常備軍のようなものを発達させたのでしょうが、ポヴァティポイントや縄文の居住地でどのように労働力が組織化されたのかは、不明のままです。奢侈品を独占した支配層の存在した証拠もありません。しかし、ここで取り上げられてきた遺跡は、いずれも何らかの意味で聖なる場所だったようです。そして、それは私的所有について多くのことを教えてくれるとしてWDは私的所有の起源について語り始めます。

私的所有と聖なるもの

ウッドバーンの指摘では、平等主義的な狩猟採集民は大人同士では命令することができず、私的所有が主張できません。しかし例外がありました。儀礼、あるいは聖なるものの領域です。ハッザなどのピグミー諸集団ではイニシエーションが排他的所有を得るための基盤になっていました。多様な形態を取る儀礼的・知的所有権は秘密、欺瞞や暴力によって保護されていたのです。
例:ピグミーのとある集団の秘密のラッパ。女子供には秘密にされ、盗み見しようものなら暴力(ときにはレイプ)で排除される。
類似の習慣がパプアニューギニアやアマゾンにもあり、大抵は秘密のゲームに使われ、女子供を怖がらせる精霊になりすます仮装の一部になっています。彼らのような「自由社会」にあって、唯一の重要かつ排他的な所有形態とみなせるでしょう。私的所有の観念と不可侵なるものの観念のあいだには、排除の構造という形式的な類似性があります。これはデュルケームの「不可侵なもの」は「分離されたもの」という定義にも関係しますが、不可侵なものは高次の力と結びついているがゆえに、世界から隔離されるのです。私たちが馴染んでいる絶対的私的所有もそれに非常に似ていないだろうか?とWDは言うのです。
ヨーロッパの法学体系では個人の所有権は「全世界に抗して」保持されているとしています。それは、超自然的な存在に結びついているからではなく、特定の生きた人間にとって不可侵なるものだからですが、それ以外の点で、不可侵なるもの=聖なるものと、私的所有物は形式的にまったく同一なのです。
ヨーロッパの社会思想は私的所有の絶対性(不可侵性)を、すべての人権と自由の範型(パラダイム)として捉えました(所有的個人主義)。殺されない、拷問されない、恣意的に投獄されないという権利は、人は自分の身体を所有しているという観念に基づきます。
アメリカの先住民族にとっては、それは異質な考えであり、不可侵なるものとの関係にのみ適用できるものであり、そのほとんどは呪文、物語、医療知識、特定のダンスを踊る権利、特定の模様をつける権利など非実体的なもの、あるいは物質的要素と非物質要素の二つが含まれるものでした。
例:クワキウトル族の家宝の皿。その皿は特定の土地で木の実を集め、その皿に盛る権利を伴っていた。特定の宴席で特定の歌を歌ってそのベリーを振る舞う権利も伴うことができた。
例:グレートプレーンズの聖なるバンドルは唯一私有財産として扱われ、相続や売買の対象になった。
そして、多くの場合、土地や天然資源の真の所有者は神々や精霊であり、人間は無断占拠者か管理人(ケアする人)です。これに対してローマ法の所有概念はケアする側面が極端に抑えられているか排除されています。
ローマ法の「占有」に関わる3つの基本権は
使用する権利
所有物の産物を享受する権利
損壊・破壊する権利
であり、最初の二つだけでは「使用権」であり「所有権」とは認められない。
ローマ法ではケアではなくて、破壊する権利が所有の要件なのです。
オーストラリア西部砂漠の例
各クランの成人男子は特定テリトリーの保護者・管理者として行動する。
チュリンガというサクラ(聖なるもの)がその土地の法的権原を表現する。(クランの聖なる方舟)
イニシエーションで青年たちは土地の歴史と資源の性質が教えられ、土地をケアする義務を負わされる。
上の例ではイニシエーションの儀礼は厳格でトップダウンのヒエラルキーに基づいていて、普段の平等主義的な生活とは鋭いコントラストをなします。そして(聖なるもの=サクラの)排他的所有は前者の組織に結びついています。
私的所有に「起源」があるとしたら、おそらくそれは「不可侵なもの」の観念と同じくらい古い可能性があるとWDは言います。だから、いつそれが起こったかという問いは重要ではなく、それがその他の人間的事象の秩序づけにいつ関与するようになったのかという問いが重要なのだとするのです。

(その5に続く)

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