お城EXPO2021に行ってきたよ②【諏訪間順先生 小田原講座 編】
前回はこちら
前回までのあらすじ
遅刻は免れたが、
のどが渇いた。
と、いうことで愚かにも飲み物を買い忘れた状態で諏訪間先生の講演がはじまった。
やばい…何も頭に入ってこない…
思えば朝から飲まず食わずだ。脳に運ぶ養分も溶媒もない飛車角落ちの我が体、
いまから1時間、脳にスカスカ&ドロドロの血液を必死に運ばなければならないわけだが、
幸いにも私は城柱(しろばしら)として第一線で活躍している鬼殺隊士だ。
全集中常駐だって会得しているし脳に血液を運ぶことだって1時間程度であればわけない。
城柱としての任務の様子
と、思っていた…
諏訪間先生には勝てなかったよ…(ビクンビクン
結局諏訪間先生は1時間を優に超えて講義をしてくださった。
腕時計を見ながら「何時までだっけ?」と舞台裏に確認を取るお茶目なムーヴを挟みつつ、結局時間を守らなかった。
途中でこのままでは死んでしまうと思い、猗窩座の誘いに乗って鬼になろうとも思ったほどであった。
会場を出て、買った麦茶を呷り、家から持ってきたおにぎりを食べ、講義内容を冷静に咀嚼する…
………
……
…
めちゃ面白かったやん!
超最新の研究結果や調査報告はないものの、小田原について、ここまでしっかり体系的に学ぶ機会ってなかったなー。
発掘調査の写真も貴重なモノばかりで満足度が高いし、実際の発掘に携わったヒトが感じたコトを生で聴けるのはデカい。
何より諏訪間先生は大学の先生でも研究機関の職員でもない、
ただの小田原市観光課のオジサンである。
※小田原城天守閣館長です。すごい方です!
つまり言動が多少粗暴でも、発言が間違っていても、
責任が伴わない。失うものがない。
無敵オジサンなのだ。
諏訪原先生のやうになりたいと思う太田であった。
小田原城ってやっぱスゲェわ
今でこそ天守と石垣のお城というイメージが強い小田原城だが、この姿となったのは近世、江戸時代に入り大久保忠世が城主であった時代である。
小田原城常盤木門(小田原市サイトより)
有名な「上杉も武田も落とせなかった」小田原城はもっと小さく、箱根外輪山から連なる尾根筋に配置した山城がメインであったらしい。
小峰御鐘ノ台大堀切
しかし、「豊臣と戰するかもしれなくね?」
となった段階で、町民農民みんなを抱え込んでしまう、いわゆる「総構え」を築いたのだ。
と、ここまではよくある話よ。たいくつな話。
秀吉ってやっぱスゲェわ
上記のようにしてつくられた、難攻不落の「総構え」。これに対抗すべく秀吉が取った策は
「もっと高いところに陣地構えればよくね?」
というシンプルなもの。ただそのスケールがすごい
なんとたった八十数日(四十日程度で石垣工事はほぼ終わってたとする書状もあるらしい)で総石垣の城を作ってしまうのだ。
従事者は一説に4万とか5万とか言われてるが、
諏訪間先生いわく、フツーにもっと多いだろと。
そんなリソースでできるのなら熊本城はなんでいつまで経っても直らないんだと。
こんな
山の上に
気狂い以外の何者でもない(褒め言葉)
つまり、秀吉は小田原に大集結した大名みんなに
「作事手伝って。手弁当で。」
てなフウに命令して、ワンチームで石垣山城を築いた可能性が高いということ。なるほど。
小田原合戦が日本にもたらした影響
ここから先は諏訪間先生の妄想。
この戦で日本全国の諸将は
①「総構えってすげーな。俺も真似しよう」
②「総石垣ってすげーな。俺も真似しよう」
①は総構えの堅固さを身をもって体験したヤツらが、石垣山城などから描かれた絵図をもとに真似しようとするだろう。
また、②についても、築城を手伝わされたことで見た穴太衆の石積み技術や実際の作事経験をもとに、自分の国で真似するだろう。
こうして江戸城をはじめとする近世城郭に、総構え総石垣の築城ブームが来たというのだ。
なるほどめちゃ納得できる。というかそれで決まりだろう。
ちなみによく聞く逸話、「一斉に周りの木を切り倒して、総石垣の城を見せつけ、北条を落胆させた」というのは諏訪間先生は疑問らしい。
小田原城からみると石垣山城はせいぜい天守とその周りが見えるだろ程度で、
石垣技術の粋を極めた南曲輪の高石垣や、井戸曲輪などは小田原からみて尾根の反対側に作っているのだと。
これや、
これ。
威厳見せたいなら小田原城に見えるように作るよなァ…
石垣山城の高等石垣テクは何のために作られたか…また合戦終了後に場内建造物を瓦葺きした形跡もあるらしく、なんのために?という疑問について諏訪間先生は口を噤んだ…
位置関係については香川元太郎先生の作品がわかりやすいが、
無断転用できないので詳しくはこちらとかこちらをチェック
考察という名の妄想
恥ずかしながら不肖わたくし、妄想力なら諏訪間先生に引けをとらないと自負している。
そんな私の本能が叫ぶ。
石垣山城は秀吉の対家康陣地だったのだ!
と。
そもそも北条攻めも家康を関東に閉じ込める既定路線上のコラテラルダメージであったと諏訪間先生も仰っていた。
では関東に降った家康はどこを本拠にするか…
まあ十中八九、小田原だろう。
さすればどうなるか。
秀吉は整備した石垣山城に代官を置いて、家康の一挙手一投足、城のどこをどのように改修したか見張るはずだったのではないか?
また小田原の民からみても、家康は秀吉に見下ろされてる「情けない」お殿様になる。
まる見えだもんねー
ずっと不思議だった。なんで家康は難攻不落の総構えと整備された街並みの小田原じゃなくて葦生い茂る(ほんとか知らんが)江戸を選んだのか…。
ヒッデから逃げたかったんでしょ?ヤッス。
と、いうことで合点がいった。
小田原城も石垣山城も見せちゃって、
ヤッスに城造りのノウハウ教えちゃったねー
裏目に出たねー
悔しいねーヒッデ(プ
と、いうわけで最後はすべて私の考察にも成り切らない妄想だが、
歴史って正解がわからないからこそ、あーでもないこーでもないって楽しめますよね。
喉の渇きも癒えて、知的好奇心も満たされてきたことだし、
もっと妄想バイブスバリバリ上げてくぜ。
と、いうことで次回やっと本展示へ…
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