忘れ物は取りに戻りましょう 【第十一話】
「な、ていうかこんな時間にこんなとことかおかしむぐぅ!?」
女が目の前に迫ったと思ったら、冷たい手のひらで口を塞がれた。
「ギャアギャア喚くなと言ってる」
冷や汗が首筋を伝っていく。女は声をあげることなく、ただ静かに、呟くように落としただけだ。それでも理久はただコクコクと首肯するだけの人間となった。
いわゆる美人だとか可愛いだとかの部類に入る顔が目と鼻の先にあっても、ときめきなんてものを微塵も感じることはなかった。初めて見た時も思ったが、美術品という表現が適しているように思えた。この女からは、血の通った人間の匂いがしない。というのは言い過ぎかもしれないが。
眉の上で切り揃えられた前髪の下にある形の良い瞳が、まるで理久のすべてを見透かすように注がれていた。
「もう叫ばないと約束する?」
女が続ける。理久はもう一度頷いた。
口からそっと手が離され、改めて女と向き合う。少し離れて立つオレンジ色の街灯が、ほんのりとだけその表情を映した。……無、だった。
感情というものが何も見えない。不気味とも違う。まさしく美術品のようだと理久は思った。
「じゃあ行くよ」
立ち尽くす理久に背を向けて、女は歩き出す。
「え、行くって?」
理久は当惑しながらも、迷いなく歩いていく女の後を追って歩き出した。
この時の自分の心境をなんと言ったらいいのかわからない。突然現れた、しかも自分の名を騙った女の後を追うなんて何をしているのか。あんなに訝しんでいた相手から「行くよ」と言われて、なぜ素直に着いて行っているのか。
数時間前には閉店したスーパーの角を曲がって大通りへ出ると、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。それでもちらほらと通り過ぎていくタクシーや乗用車を横目に見ながら、理久は女の背に呼びかけた。
「なあ、どこに行くんだよ」
答えるのが面倒なのか答える気がないのか、女は振り返りもしない。腰あたりまである長い髪を風に委ね、ほっそりしたパンツスーツに包まれたこれまた長い脚は止まることはない。
理久はもう一度問いかけるのを諦め、それでもなぜか着いていかなくてはという気持ちの中で女に続く。どちらも一言も発することがないまま、女は最寄駅を過ぎたコインパーキングにまっすぐ入った。あちこちに置かれた車の中で、一番小さな白い軽自動車のライトが一瞬光る。
ようやく立ち止まった女は、運転席のドアを開けながら理久を見た。
「乗って」
「え?」
「今ならまだ間に合うと思う。早く」
「……は?」
間に合わないって、何に?
そう問えばいいのに、理久の口から続きが出ることはなかった。