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忘れ物は取りに戻りましょう 【第十四話】

「……なんだよ、この声。子どもだろ、どう聞いても」

 イズミを見ても、感情の見えない瞳で見つめ返される。

「なあ、どういうことだよ」
「だから早く開けてって言ってるの」

 否。
 感情がわからないのではなく、理久には汲み取れなかっただけらしい。彼女はドアを指さして、長い右脚を振り上げたと思ったらダンッと踏みしめた。

「ちょっここ賃貸の廊下」
「これ以上はわたしにもどうしようもできなくなる」

 乱暴ともいえる振る舞いとは真逆の、努めて冷静とも聞こえる声。
 気圧されるように、理久はデニムの尻ポケットから鍵を取り出して鍵穴に合わせる。自分の手が震えていることに、その時初めて気がついた。
 ガチャリと音がして、鍵が開く。詰めていた息を一気に吐き出し、扉に耳をつけてみた。何も聞こえない。先ほどまでは確かに聞こえてきたはずの子どもの泣き声が、不気味なほどに静まり返っている。
 理久は喉の奥が締まったような苦しさを覚えながらも、そのままドアノブを握り、思い切ってそれを開けた。
 ……ここは本当に、俺の部屋か?
 真っ先に思ったのはそれだった。
 廊下からの灯りが室内へと延びると、いつもならば三和土に当たる部分から奥の廊下の途中までは見えるのだ。ネットで注文し、つい先日届いた1.5リットルのミネラルウォーターが入った段ボールのケースを廊下の左隅に寄せたばかりで、邪魔だからと毎回脚をあげて避けていた。
 それなのに、今は何も見えない。
 理久たちの爪先から向こう側が光を拒むように、はっきりと線が引かれたように、そこから先が漆黒に包まれていた。
 そして何より、寒い。まるで室内でドライアイスを焚いているみたいに思えた。這い上がるような寒気と、なぜか大量に吹き出してくる汗。冷や汗とも言えず、自分の身体に何が起こっているのかすら全くわからなくなった。

「……ッ、……」

 何が起きてるんだ、と声をあげようとしたのに、理久の唇はただパクパクと開いては閉じるだけで、なにひとつ意思を伝えてくれない。

 ──っ……ぁあん……ぅっ……うぅっ……

「……ッ!」

 微かに、またあの声が聞こえてきた。
 間違いなく、理久の部屋であるはずだった漆黒から発されている。
 ──もう無理だ。
 理久はコンクリートに貼り付いて動かなくなっていた足をどうにか剥がし、一歩うしろへ下がることに成功した。何が起きているのかさっぱりわからない上にこんなことがあっていいはずはない。こんなことが、令和たる時代にあっていいはずが──

「逃げないで」

 冷たい手が理久の腕を掴む。
 感情がわからないと思っていたイズミの瞳が、寂しさに揺れたのがわかった。

「や、無理だろ、こんなの意味がわから」
「みーつけた、って言って」

 遮られたイズミの言葉に、理久の動きが止まる。


#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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