166 二次小説『アオのハコ』⑳ 第五話「水族館」、その3
開けて日曜日。この土日はめずらしく体育館の運動部が休みだったので、女バスも二日休暇する形になっていた。昨日の土曜日は大喜くんとデート、この日は図書館で勉強する予定にしていた。ウィークデーと土曜日は女バスに充てているため、日曜日を中心に学校の勉強に専念するのが私の習慣になっていた。
人と関わるのが好きな私、一人で黙々と問題を解く方法は性に合わない。いつもクラスか女バスの女の子を誘って考え方やどういう問題かを教え合うのが私の勉強方法だった。午前や午後だけの日があれば一日ぶっ通しの日もある。この日は前日の大喜くんとのデートで活力を得たからか寝覚めがすこぶる良く、午後も勉強に集中できそうだった。
とはいっても昼食を終えてすぐ勉強を再開するわけではない。食休みをかねて公園まで散歩したあと、やっぱりバスケの練習をするのです。この時期は身体が火照って汗をかくのですが、やっぱり私は根っからの運動女子、机にかじりつくだけだと精神的に参るみたいだった。
またこの日は前日につづいて大喜くんは寝坊し、顔を見れたのは夕飯の食卓でだった。大喜くんの照れの姿を見て私も挙動不審になり、もしかしたらおばさんに何か感づかれたかもと思っていた。
そして次の月曜日、私と大喜くんは相次いで登校する。連れ立って通学路である商店街を歩くのは同居を学校のみんなに知られることになるし、それがなくても大喜くんと一緒に歩くのは(嬉しいけど)心臓に悪い。だから私が猪股家に居候してから、登校はどうしようと猪股家の人と相談し、時間差をつけて私と大喜くんが家をでるようにしようと決めたのです。
そして金曜日以来、三日ぶりの大喜くんとの早朝練習。
「おはよう大喜くん!」
「おはよう千夏先輩!」
この日は先に来ていた大喜くんに私が扉を開けるなり遠くに聞こえるような声をかけ、大喜くんは元気な声を返してくれたのです。そのときに共有できた私たちだけの空気、それは秘密を共有できたことからくる心地いいものだった。この日はシャドウプレイからのシュートも数多く決めることができ、この状態でインハイ突破をしようと意気込んでいた。
実際体調的にも問題なかったけど好事魔多し。調子いい時ほど調子づく危険がある。自分でも体調の異変に気にかけているけど客観的に観てもらった方がいい。猪股家にほど近い整体師さんに私も通っていたのです。
午前中の授業が終わったらお昼。さすが中高一貫のスポーツ強豪、高校には学食があった。でも少子化で生徒数が減ったとはいえ高校三学年一遍に食べられる設備も席もあるわけではない。一年生から三年生まで、午前の授業終わりを20分ずつずらしていた。だから私がお膳をとってクラスメイトと一緒に席をとろうとするとき、大喜くんは笠原くんと一緒に食べ終わり、口元に就いたお弁当を私はちょっと遠くから指摘してあげたのです。
私が席に着いたときは蝶野さんも来て大喜くんを突っ込んでいたみたいだけど、それからは一緒に来たクラスメイトと楽しくお喋りしながら戴いたのです。
そして楽しい激しい女バスの部活が終わったあとは整体師さんへ。腕の筋肉、脚の筋肉、足の調子。バスケは激しい運動だから筋肉がつきやすいけど、トレードオフとして体が硬くなりかねない。そうすると機敏な動きができなくなり、身体が悲鳴をあげることを監督から聞かされていた。具体的な方法もいくつか教えていただき、私は自己チェックと自主トレでは限界があると思い、猪股家の近くに店を出した有名な整体師さんに通うことにしたのです。
今日の私の身体も問題なく、もう少し負荷をかけた練習をしてもいいと言われた。私は安心して施術室をあとにし、受付で会計を待つ。でも施術の途中から音が聞こえ、会計を待っている間も大きくなりはすれ止まることはなかった。
「雨ですか?」
「そうみたいですね。傘持ってますか」
「はい」
作業をしている受付係さんとの会話。私ももちろん梅雨の時期、運動部に冷えは大敵だから、天気予報に関わらず傘はつねに持っていたのです。そしてわたしの番。
「鹿野さん」
「はい」
そして私が立ち上がって受付で財布からお金を出そうとするとき、思いがけない、というより鉢合わせして当然の知り合いの女の子が施術室からでてきたのです。各自カーテンが引かれたベッドで身体を診てもらう形式だから、一度施術が始まると誰が診てもらっているのかわからないのです。そしてこのとき私が会ったのは今日も大喜くんと笠原くんと楽しく話してた、わが明青、じゃない栄明新体操期待の星、蝶野雛さん。
「あ」
二人同時で少し気まずくなったかも知れない。
「蝶野さんはその、治療に?」
「えっ、メンテナンスです!」
やっぱり蝶野さんもだったんだ、良かった良かった。てっきりどこが故障かと思ってぎくりとしたのです。でも私がそもそもチェック目的だった。
「ケガとか怖いもんね」
そう私は安堵して千円札三枚を差し出す。でも蝶野さん待合の席に座らなかった。
「そういえば大喜、中二のとき捻挫したの知ってますか」
「え?」
蝶野さん、大喜くんのこと下の名前の呼び捨てなんだ。そうよね、同学年ではたから見ておせっかい焼きみたいなところあるし。気安い付き合いをしてるんだと思いついた。
「学校行事でキャンプに行って山登りしたんですけど」
多分一学年上の私たちが行ったのと同じところ。そんなに長くなかったけど後年ちょっとはするようになった登山で考えると普通の山道。つまり人が通れるように整備されてるけど、特に舗装されているわけではない土の道だった。丸太の階段状もあったっけ。
「その時私が足を滑らせたところを大喜が助けてくれて」
大喜くんとの大事な思い出なんだ。
「その時足を捻ったみたいで。部活も一週間近く見学する形になって。私その時文句言ったんです」
蝶野さんらしい。この日の短いあいだでも蝶野さんの人となりを察することができた。
「私のせいで誰かがケガをして、部活にも支障が出るなんて申し訳なさすぎるって」
でも私に聞かせるためであっても、私に面とむかって言ってくれたわけではなかった。思い出を手繰り寄せるように、私から目をそらして言ってくれた話だった。
「そしたら『俺の反射神経が遅かっただけだから』、『むしろ課題が見つかったわ』って」
そして蝶野さん、いや雛ちゃんは、私に笑顔をむけて言ったのです。
「ホントどうしようもないバドバカですよね」
それで私はわかってしまったのです。蝶野雛さんの思いを。ずいぶん経ってこの小説のために取材したとき、大気の株を上げるためにしてくれた話だったけど、私が問いただしたらそういう意味でもありますねと白状してくれた。そして私は迂闊にも、そのことをこの場で言ってしまいそうになったのです。
「蝶野さんって…」
「はい?」
「あ、いや。何でもない」
さすがに寸でのところで止めたけど、やっぱりと、あの時の私のファーストインプレッションはあながち間違いではなかったと、自分で他人の重いものに気づいてしまった半ば公共の場での会話だった。
私と蝶野さん、ほとんど同じ施術をしたらしく料金は二人とも2750円。それで少し気を持ち直して自動ドアの外にでると、外はまだ雨。土砂降りではないけどしっかりした雨だった。
「どうしよう傘ないのに」
「よかったらこれ使って」
「でも先輩は…」
蝶野さんに長傘を差しだし、私はバッグに入れてあった折り畳み傘をだしたのです。
「私は折り畳みあるから」
こんなことがたまにあるから、私は雨の時期はいつも二本傘を持ってたのです。
「それじゃ気をつけてね」
私と蝶野さんのあいだにはどうしようもない部分があるけど人間的にも選手としても好きになれるとわかった。私は気持ちよく蝶野さんに別れを告げることができたのです。そして今度顔を合わせるのは明日火曜日の放課後のはずだった。